九州王朝(倭国)一覧

第834話 2014/12/09

鬼前太后と「キサキ」

 図書館で遠山美都男著『古代日本の女帝とキサキ』(平成17年、角川書店)が目に留まり、流し読みしたのですが、実は日本語の「キサキ」(お妃・お后)について以前から気になっていたことがありました。それは「キサキ」の語源についてでした。「キサキ」の意味について同書では「古代においては、キサキというのは天皇の正式な配偶者ただ一人を指して呼んだ」(10頁)とされており、それはよくわかるのですが、なぜ天皇の正式な配偶者「大后」(皇后とも記される)を「キサキ」と訓むのかについては説明が見あたりませんでした(わたしの見落としかもしれませんが)。
 九州王朝の天子、多利思北孤のために造られた法隆寺の釈迦三尊像の後背銘冒頭に次の記述があります。

 「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」

 この鬼前太后は「上宮法皇」(多利思北孤)の母親のことですが、この「鬼前」の訓みがはっきりしませんでした。とりあえず古田学派内では「きぜん」とか「おにのまえ」と訓まれてきたようなのですが、この鬼前が「キサキ」の語源ではないかとわたしはかねてから考えていました。すなわち、「鬼前」の訓みを「きさき」ではないかと考えているのです。もちろん、絶対にそうだというような根拠や自信はありません。
 このアイデア(思いつき)の良いところは、その語原がはっきりしない「キサキ」について、とりあえず九州王朝中枢で成立した古代金石文(後背銘)が根拠であるということと、王朝に関する用語の訓みを九州王朝で先行して成立したとすることは、九州王朝説論者にとっては納得しやすい点です。弱点としては、鬼は「き」と音読みし、前は「さき」と訓読みするという「重箱読み」であることです。
 これは仮説というより単なる思いつきにすぎませんので、皆さんに披露し、ご批判を待ちたいと思います。あるいは「キサキ」の語源をご存じの方があれば、ご教示ください。


第832話 2014/12/07

高良大社の留守殿

 『日本書紀』斉明四年十月条(658年)に「留守官」(蘇我赤兄臣)という官職名が記されています。岩波古典文学大系の頭注には「天皇の行幸に際して皇居に留まり守る官。」と説明されています。この「留守官」について、九州王朝の難波遷都(前期難波宮)にともない、太宰府の留守を預かる官職とする説を正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)は関西例会で発表されていました。
 この正木説に対応するかもしれないような痕跡を「発見」しました。筑後国一宮の高良大社(久留米市)の本殿の裏に「留守殿」という摂社があったという報告が高良大社の研究者として著名な古賀壽さんからなされていたのです。『高良山の文化と歴史』第6号(高良山の文化と歴史を語る会編、平成6年5月)に収録されている古賀壽さんの論稿「高良山の史跡と伝説」に「留守殿のこと」として、この「留守殿」が紹介されています。
 大正時代前半のものと認められる境内図に、本殿の真後ろに「留守殿」の小祠が描かれているとのこと。中世末期成立とされる『高良記』にも「留守七社」という記事が見えますから、現在ではなくなっていますが、「留守殿」は古くからあったことがわかります。古賀壽稿に引用されている太田亮『高良山史』の見解によれば「又本社には、もと留守殿七社あり、(中略)蓋し国衙庁の留守職と関係あろう。」とされています。古賀壽さんも「『留守社』また『留守殿』という特異な名称と、本殿背後の中軸線上というその位置は、この小祠のただならぬ由緒を暗示していよう。」と指摘されています。
 わたしは高良大社の祭神の玉垂命は「倭の五王」時代の九州王朝の王のこととする説(九州王朝の筑後遷宮)を発表していますが、このことから考えると高良大社本殿真後ろにあった「留守殿」は筑後国国庁レベルではなく、九州王朝の天子にとっての「留守殿」と考えるべきと思われます。
 この九州王朝の「留守殿」と先の斉明紀の「留守官」が無関係ではない可能性を感じています。高良大社の「留守殿」がどの時代の「留守官」に関係するのかはまだ不明ですが、九州王朝の遷都・遷宮に関わる官職ですから、筑後から筑前太宰府への遷宮に関係するのか、太宰府から前期難波宮への「遷都」に関係するのか、あるいはそれ以外の遷都・遷宮に関係するのか、今後の研究課題です。


第831話 2014/12/06

来年は高野山開創1200年

 来年は高野山開創1200年を迎えます。高野山は空海が開基した金剛峯寺をはじめ多くの寺院や旧跡があり、世界遺産とされています。わたしはまだ行ったことがありませんが、いつかは訪れたいものです。
 空海は『旧唐書』日本国伝にもその名が記された高名な僧侶ですが、わたしは空海について論文を一つだけ書いたことがあります。『市民の古代』13集(1991年、新泉社)に掲載された「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」という論文で、35歳の頃に書いたものです。全文が本HPに掲載されていますので、ご一読いただければ幸いです。
 「洛中洛外日記」323話でも触れましたが、空海の遺言に記された空海の唐からの帰国年(大同2年・807)の一年のずれの原因を解明し、その結果、空海が九州王朝の存在を知っていたとする結論に到達したものです。若い頃の未熟な論文ですが、論証や結論は今でも妥当なものと思っています。発表当時、仏教大学の講師の方から、同論文を講義に使用したいとの申し入れがあり、光栄なことと了解した思い出があります。
 同論文執筆に当たり、膨大な空海全集などを京都府立総合資料館で何日もかけて読破したことを今でも懐かしく思い出します。あの難解で膨大な空海の文章を読み通す気力も体力も今のわたしにはありませんが、そのときの体験が古代史研究に役立っています。若い頃の訓練や試練が今のわたしを支えてくれています。 そんなわたしも、来年は還暦を迎えます。できることなら、もう一つぐらい空海に関する論文を書いてみたいものです。


第829話 2014/11/29

『太平記』の藤原千方伝説

 今日は午後からお天気になりましたので、近くの相国寺さんを散策しました。法堂の真っ白な漆喰と真っ赤に紅葉した木々がとてもきれいでした。

 「洛中洛外日記」793話の「佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む」で、16世紀に日本に布教に来た宣教師たちがマカオで印刷された日本語版『太平記』を読んで日本語を勉強していたことを紹介し、わたしも『太平記』を読んでみたくなったと書きました。そうしたら水野代表 が『太平記』を関西例会に持参され、貸していただきました。大正六年発行のかなり年期の入った『太平記』(有朋堂書店)上下2冊本で、「有朋堂文庫(非売 品)」とあります。
 面白そうな所から拾い読みしていますが、巻第十六の「日本朝敵事」に不思議な記事がありました。天智天皇の時代に藤原千方(ふじわらのちかた)という者 が四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えて伊賀と伊勢で反乱を起こしたという伝説です。朝廷から派遣された紀朝雄(きのともお)により鎮圧されますが、 天智の頃ですから九州王朝の時代です。『日本書紀』などには記されていませんので、史実かどうか判断できませんが、九州王朝説により解明できないものかと思案中です。なお、「天智天皇」を「桓武天皇」とする写本もあるようですが、実見していません。
 伊賀地方では今でも藤原千方に関する旧跡が残っているとのことで、当地では有名な伝説のようです。『太平記』にはこの他にも面白そうな記事があり、少しずつでも読み進めようと思います。以上、今回は軽い内容の「洛中洛外日記」でした。


第821話 2014/11/15

服部さんの多元的「関」「畿内」研究

 本日の関西例会では服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)から九州王朝による「関」と「畿内」の設立についての新説が発表されました。いずれも画期的な仮説で、このところ服部さんは絶好調です。
 『日本書紀』天武8年(679)条に見える竜田山と大坂山の関が飛鳥ではなく難波京を防衛する位置(大和からの侵入を防ぐ位置)にあり、難波京を九州王朝副都とする説に対応しているとのこと。
 更に、『日本書紀』大化2年(646)正月条の改新詔に見える畿内の四至(東西南北の先端地)の中心は藤原宮ではなく難波宮であることから、前期難波宮は九州王朝の第2都であり、そこを中心に畿内の範囲が、九州王朝の天子(利歌彌多弗利)により646年(命長7年)に提示された詔勅とする説を発表されま した。もし696年の詔勅であれば、近江京が畿外になってしまうが、この詔勅が近江大津宮造営前の646年に出されたのであれば、この問題がクリアできるとされました。
 大化2年の改新詔は九州年号の大化2年(696)に藤原宮で出された「建郡の詔勅」とするわたしの説を否定する説ですが、有力な仮説と思われました。この服部説に対して賛否両論が出されましたが、時間切れとなり、これからも論争が続くと思います。
 正木さん(古田史学の会・全国世話人)は6世紀を対象として『日本書紀』を精査され、欽明23年(562)に新羅から滅ぼされた任那が、推古8年(600)に新羅と交戦する記事があることなどに着目されました。その結果、干支が一巡する60年前の記事が推古紀に挿入されているとされました。同時に、こうした朝鮮半島での倭国の交戦記事などは九州王朝の事績を『日本書紀』編者が盗用したとする仮説を発表されました。なかなか説得力のある仮説でし た。
 11月例会の発表は次の通りでした。遠くは関東のさいたま市から参加された方もあり、有り難くもあり、そうした熱心な参加者に満足していただけるような例会であらねばならないと、決意を新たにしました。東京でも例会を開催してほしいというご意見も多数いただいており、使命の重さを受け止めています。

〔11月度関西例会の内容〕
1). 関から見た九州王朝(八尾市・服部静尚)
2). 畿内を定めたのは九州王朝か — すべてが繋がった(八尾市・服部静尚)
3). 「青竜三年」鏡(京都市・岡下英男)
4). ニギハヤヒを追う(東大阪市・萩野秀公)
5). 盗用された任那救援の戦い — 敏達・崇峻・推古紀の真実(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『百問百答+α』校正中、続著『真実の誕生 宗教と国家論』(仮題)、11/08八王子大学セミナーの報告、松本深志校友会誌への投稿書き上げ、『古代に真実を求めて』18集用「家永氏との聖徳太子論争をふりかえる」古田先生インタビュー12.09、新年賀詞交換会 2015.1.10、ギリシア旅行 2015.4.1~4.8)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説の系譜」執筆・古田先生依頼図書(『隋書』『時と永遠』)購入・京都市船岡山の建勲神社訪問・ニッペOB会・その他


第814話 2014/11/01

考古学と文献史学からの太宰府編年(2)

 赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)の論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について −朝倉橘廣庭宮の記憶−」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に見える考古学的出土事実が、結果として九州王朝説を支持する例を引き続き紹介します。
 大宰府政庁 I 期造営の時代については7世紀初頭(倭京元年・618)として問題ないのですが、 II 期の造営年代については文献史学からは史料根拠が不十分のため、今一つ明確ではありません。考古学的には創建瓦が老司 II 式が主流ということで、老司 I 式の創建瓦を持つ観世音寺創建時期と同時期かやや遅れると考えられますから、観世音寺の創建年(白鳳10年・670)の頃と見なしてよいと考えてきまし た。
 ところが、赤司さんの論文に政庁 II 期の造営時期を示唆する考古学的痕跡について触れられていたのです。次の記載です。

 (3期に時代区分されている大野城大宰府口城門)「 I 期は、堀立柱であることや出土した土器や瓦から7世紀後半代。 II 期は、大宰府政庁 II 期と同笵の大宰府系鬼瓦や鴻臚館系瓦を使用していることから、大宰府政庁 II 期と同じく、8世紀第1四半期を上限と考えられる。(中略)
 大野城の築城年代について、考古学の側から実年代を語ることのできそうな資料が出土している。大野城の大宰府口城門跡で、創建期の城門遺構に伴う木柱が出土した。(中略)
 木柱の年輪年代測定が実施された。計測年数197層の年輪が確定され、最も外側の年輪が648年という結果が出されている。(中略)大野城の築城の準備は、『日本書紀』の664年(665年か。古賀)よりも遡ることを考慮すべきではないかママ思われる。」(80頁)

 これらの記述が指し示す考古学的事実は大野城創建期の大宰府口城門と大宰府政庁 II 期の造営が同時期であり、出土した木柱の年輪年代測定から648年頃と考えられるということです。「8世紀第1四半期」というのは大和朝廷一元史観に基づいた「解釈」、すなわち大宰府政庁 II 期を大宝律令制下の役所とする仮説であり、考古学的事実から導き出された絶対年代ではありません。絶対年代を科学的に導き出せるのは出土木柱の年輪年代測定であることは言うまでもありません。従って、大宰府政庁 II 期と同笵の鬼瓦などが出土する大野城城門 II 期の造営は648年よりも遅れ、かつ大宰府政庁 II 期と同時期と見ることができます。
 そうしますと、既に指摘しましたように観世音寺創建年の白鳳10年(670)の頃に、大宰府政庁 II 期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて問題ないようです。なお疑問点を指摘しますと、老司 I 式瓦の観世音寺と老司 II 式瓦を主とする政庁 II 期の造営時期を、老司式瓦の先後関係から見れば観世音寺が先となります。他方、地割区画から見ると、政庁の中心軸を起点に観世音寺の中心軸が割り出されています(この結果、観世音寺の中心軸は条坊ラインから大きく外れています)。このように政庁と観世音寺が条坊都市よりも遅れて造営され、条坊とは異なった 「尺」で地割されていることを考えれば、起点とした政庁が先に設計され造営されるというのが常識的な判断のように思われるのです。この政庁と観世音寺の造営年の先後関係については「ほぼ同時期」という程度に現時点では判断しておくのが良いと思います、この点、今後の検討課題とします。
 以上、赤司さんの論文に見える考古学的事実が、『日本書紀』や大和朝廷一元史観よりも、結果として九州王朝説に有利であることをご理解いただけたのではないでしょうか。


第815話 2014/11/01

三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010 年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、 404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第813話 2014/10/31

考古学と文献史学からの太宰府編年(1)

 「洛中洛外日記」812話で山崎信二さんの「変説」の背景にせまりましたが、 その最後に「考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されている」と記しました。その例について紹介したいと思います。
 本年3月に福岡市で開催された講演会『筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」』(「洛中洛外日記」671話で紹介)で講演された赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)による次の論文に重要な指摘や出土事実がいくつも記されています。

 赤司義彦「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)

 同論文については「一元史観からの太宰府王都説 -井上信正説と赤司義彦説の運命-」『古田史学会報』 No.121(2014年4月)でも紹介しましたが、太宰府条坊都市を斉明天皇の「都(朝倉橘廣庭宮)」(「遷都」「遷居」と表現)とする新説です。わたしが特に注目したのが大野城と大宰府政庁 I 期の編年についての記載です。

 「(大宰府政庁 I -1期遺構)出土土器は6世紀後半の返りのある須恵器蓋が1点出土している。」(81頁)
 「(政庁 I 期の遺構群)これらの柵や掘立柱建物は周辺を含めて整地が行われた後に造営されている。柵の柱堀形や整地層には6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる。 これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」(83頁)

 大宰府政庁遺構は3層からなり、最も古い I 期はさらに3時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁 I -1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、 I 期遺構は6世紀後半以後に造営されたことがわかります。更にその整地層から出土した土器が「6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる」という事実は、 I 期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。「これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」というのは、遺構をより新しく編年したいための 「解釈」であり、出土事実から導き出される真っ当な理解は、整地層に6世紀後半から末の土器が多く含まれるのであれば、その整地は7世紀初頭のことであるとまずは理解すべきではないでしょうか。
 こうした赤司さんが紹介された大宰府政庁 I 期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、太宰府条坊都市の造営を九州年号の倭京元年(618)と考えていますが、この時期が先の政庁 I 期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。
 そして、井上信正さんの調査研究によれば、政庁 I 期と太宰府条坊造営が同時期と見られているのです。そうすると、考古学出土事実と九州年号という文字史料の双方が、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭とする理解で一致し、「シュリーマンの法則」すなわち、考古学的事実と文字史料や伝承が一致すれば、より歴史事実と考えられることになるのです。
 このように考古学出土事実を大和朝廷一元史観(『日本書紀』の記述を基本的に正しいとする歴史認識)による「解釈」で強引に「編年」するのではなく、 真っ当な理解で編年した結果が、九州王朝説に立つ文献史学の論証(倭京元年・618)と一致したのですから、まずは九州王朝の都である太宰府条坊都市の造営は7世紀初頭としてよいと思います。正確に言うならば、7世紀初頭から条坊都市太宰府は造営されたということでしょう。あれだけの大規模な条坊ですから、造営開始から完成までは幅を持って考えたいと思います。
 それでは次に大宰府政庁II期の宮殿の造営はいつ頃でしょうか。この問題を解決するヒントも赤司さんの論文にありました。(つづく)


第812話 2014/10/29

山崎信二さんの「変説」(2)

 このところ山崎信二さんの古代瓦に関する論文などを読んでいるのですが、さすがに瓦の専門家らしく、多くの論文を発表されています。中でも老司式瓦(筑前)と藤原宮式瓦(大和)の作製技法の共通性や変化(板作りから紐作りへ)に着目され、両者の「有機的関連」や「突然の一斉変化」を指摘されたことはプロの考古学者として優れた業績だと思いました。
 その山崎さんの優れた着目点であった老司式と藤原宮式の作製技法の変化の方向が、1995年では「筑前→大和」だったのが、2011年では「大和→筑前」へと、そして先後関係も「老司式が若干はやい」から「ほとんど同時期」へと微妙に「変説」していることを、わたしは指摘したのですが、その間に何があったのでしょうか。その「変説」の一つの背景となったのが学界内の趨勢ではなかったかと推測しています。当問題に関する学界の状況を知る上で参考になっ たのが、岩永省三さんの次の論文でした(インターネットで拝見できます)。

 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」
『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 この論文には山崎説を含めおそらく学界をリードする瓦の研究者の諸説が紹介されており、学界内の動向や趨勢を知ることが できます。わたしの見るところ、当初は老司1式(観世音寺創建瓦)が藤原宮式より先行するとされていた状況から、近年の研究では岩永さんを含め、老司1式 をより新しく編年しようとする論説が多数を占めてきているようです。こうした学界内の趨勢に山崎さんが影響を受けられたのかもしれません。
 しかし、より本質的な背景として、わたしは太宰府現地の考古学者、井上信正さんの画期的で実証的な新説が学界に激震をもたらしたのではないかと考えてい ます。「洛中洛外日記」でも何度も紹介してきましたが、井上さんは精緻な実測調査により、大宰府政庁2期・観世音寺の主軸と、太宰府条坊の中心軸がずれており、大宰府政庁2期・観世音寺創建よりも条坊都市の方が先に成立したことを明らかにされたのです。おそらくその時間差は数十年以上と思われます。数年の差なら、わざわざ条坊の主軸とずらして政庁や観世音寺を造営する必然性も必要もないからです。この画期的な井上説が発表され始めたのが、ちょうど1995 年から2011年の間なのです。管見では次の井上論文があります。

2001年「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』
2008年「大宰府条坊について」『都府楼』40号
2009年「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588

 この太宰府条坊が政庁・観世音寺よりも古いという新説は大和朝廷一元史観に激震をもたらしたはずです。それは次の理由からです。

(1)従来の瓦の編年では、観世音寺創建瓦(老司1式)が藤原宮創建瓦よりも古いとされていた。
(2)その観世音寺創建よりも太宰府条坊造営が古いことが井上さんの研究により明らかとなった。
(3)そうなると、従来わが国最初の条坊都市とされてきた「藤原京」よりも、太宰府が日本最古の条坊都市となってしまう。
(4)このことは大和朝廷一元史観ではうまく説明できず、古田武彦の九州王朝説にとって決定的に有利な考古学的根拠となる。

 以上の論理的帰結を理性的で勉強熱心な考古学者なら気づかないはずがありませんし、古田先生の九州王朝説を知らないはず もありません。九州王朝説であれば、九州王朝の首都である太宰府が国内最古の条坊都市であることは当然ですが、大和朝廷一元史観では、「地方都市」の太宰 府が大和の「都」よりもはやく「近代的都市設計」の条坊都市であることは、なんとも説明し難いことなのです。
 そこで考え出されたのが、老司1式瓦の編年を藤原宮式よりも新しくする、せめて同時期にするという「手法」です。しかし厳密に言えば、それでも「問題」 は解決しません。何故なら、観世音寺創建瓦(老司1式)を藤原宮と同時期かやや後に編年しても、その結果できることはせいぜい「藤原京」と太宰府条坊都市の造営を同時期とできる程度なのです。このように、観世音寺よりも太宰府条坊の方が古いという井上信正説は旧来の古代都市編年研究に瀕死の一撃を与えるほ どのインパクトを持っているのです。
 ちなみに、JR九州の駅で配られている観光案内パンフレット(九州歴史資料館監修)などには、太宰府や都府楼の案内文に「7世紀後半」と説明されており、大宰府造営を大宝律令制下の8世紀初頭とする通説とは異なっています。このように地元九州では井上説に立った解説や研究論文が公然と出されているので す。
 しかし、仮に「藤原京」と太宰府条坊都市の造営が同時期としても、やはり大和朝廷一元史観にとって「不都合な事実」であることにはかわりありません。というのも、大和の「都」と「地方都市太宰府」の条坊造営がなぜ同時期なのかという説明が困難なのです。さらに言えば『日本書紀』に「藤原京」と並び立つ太宰府条坊都市造営に関する記事がなぜないのかという説明も困難なのです。
 したがって、こうした無理な説明を強いる「変説」よりも、観世音寺創建(老司1式)の方が藤原宮造営よりも早く、瓦の編年も作製技法の移動も筑前が起点でより早い、すなわち九州王朝の影響が7世紀末に大和へ色濃く及ぶ「突然の一斉変化」こそ九州王朝から大和朝廷への王朝交代の反映とする、古田先生の九州王朝説こそ真実とするのが、学問的論理性というものなのです。
 実は先に紹介した岩永さんの論文にも、7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交代を「示唆」する指摘があります。それは次の部分です。

 「西海道と畿内との造瓦上の関わりは、7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じたもので、ひとたび技術移転が果たされ在地の造営組織が創設され稼動し始めると、観世音寺においても大宰府政庁においても中央からの関与はなくなる。」(p.31)
 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 西海道(九州王朝)と機内(大和)の造瓦上(作製技法・文様)の関わりが「7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じた」というややわかりにくい表現ですが、何度も徐々に筑紫と大和の関わりが生じたのではなく、7世紀末頃に一気に(単発的)起こったとされているのです。これこそ 701年に起こった王朝交代の考古学的痕跡であり、大和朝廷一元史観に立つ考古学者でも、このような痕跡を認めておられ、ややわかりにくい表現で筑紫と大和の7世紀末に発生した「事件」を説明されているのです。
 以上のように、考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されていることに、時代の変化が感じとれるのです。


第809話 2014/10/25

湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の 推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。

 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第800話 2014/10/11

『古田史学会報』

  124号の紹介

 今日は某テレビ局特別番組制作スタッフの方から取材を受けました。わたしの「聖徳太子」に関する論文に興味を持たれ、来年放映予定の特別番組に取り入れたいとのこと。わたしの「出演」も要請され、協力を約束しました。
 古田史学や九州王朝説などの説明、『旧唐書』や『隋書』の倭国伝、『二中歴』の九州年号を紹介したところ、すぐにご理解いただき、「これほど明確な証拠があるのになぜ歴史学者は九州王朝を認めないのですか」と質問されました。わたしは各地で講演するたびに同様の質問を受けるのですが、「歴史の真実よりも、保身や出世、お金のほうが大切な学者が多いのです。そういう学者をわたしは御用学者とよんでいます」と返答しました。
 さらに、これまでも報道予定だった古田先生への取材・収録が番組編集段階で圧力がかかり、カットされたり、極端に短縮されたりしてきたことを伝えたのですが、その方は「わたしは真実を大切にしたい」と言われたので、今回の件がどのような結果になっても、これをご縁に今後もおつき合いしてほしいと述べ、快諾していただきました。とても有意義で楽しい取材体験となりました。

 『古田史学会報』124号が発行されましたので、ご紹介します。好論が集まり面白いものとなりました。正木さん岡下さんら常連組に服部さんが加わり、研究者層の厚みも増してきました。萩野さんの旅行記も楽しい内容です。服部稿は弥生時代の鉄器出土分布から「邪馬台国」畿内説が全く成立しないことがよくわかるデータも示されていおり、勉強になります。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』124号の内容〕
○前期難波宮の築造準備について  川西市 正木裕
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず  京都市 古賀達也
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
   — 薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈 京都市 岡下英男
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行
 2014年5月31日~6月2日  東大阪市 萩野秀公
○鉄の歴史と九州王朝  八尾市 服部静尚
○好著二冊  川西市 正木 裕
○古田先生の奥様(冷*子様)の訃報 代表 水野孝夫
     冷*は三水編に令。ユニコード6CE0
     残念ですがインターネットでは表示できません。
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己