第375話 2012/01/15

「これから出る本」

昨日の賀詞交換会に相模原市から参加された冨川ケイ子さんから面白いパンフレットをいただきました。「これから出る本」(2012年No.2、日本書籍出版協会)というもので、近々発刊される本を紹介するものです。
その歴史図書の欄に『「九州年号」の研究』が紹介されていたのですが、同じ欄に久保常晴著『日本私年号の研究(新装版)』(吉川弘文館、14700円) も掲載されていました。この本は九州年号研究者であれば知らない人はいないという一冊なのです。九州年号偽作説に立っていますが、九州年号史料をが多数紹 介されており、史料調査に大変役立ちました。わたしが研究を始めた20年前には既に市販されていませんでしたので、京都府立総合資料館で長時間閲覧したも のでした。
このような古代や中世の逸年号の研究書が復刻発刊されるということに驚きましたが、おそらく九州年号に対する興味が古代史ファンに広がっている反映だと 思われます。古田説や九州王朝説が確実に浸透していることが、このことからもうかがえます。2012年が古田史学にとって画期となる年となる予感がしてい ます。


第374話 2012/01/14

全国世話人会を開催

 今日の新年賀詞交換会に先だって、午前中に「古田史学の会」全国世話人会を開催しました。会誌『古代に真実を求めて』を発行していただいている明石書店からも佐野さんにオブザーバーとして出席していただきました。
 今回の世話人会でも問題となったのが、「古田史学会報」や例会の内容が難しすぎるという声が新入会員から出ているということでした。会員をもっと増やし、古田史学を広めるためにも、わかりやすく面白い会報にすることが求められているのですが、なかなか妙案が出ませんでした。
 論議の結果、会報編集部を増員し、企画力などを向上させることとなり、不二井伸平さん(全国世話人)に編集部入りしていただくことになりました。
 これにより、投稿原稿以外に企画に基づいた依頼原稿を増やし、初心者向けの記事を増やしたいと考えています。会員の皆さんのご理解とご協力をあらためてお願いいたします。


第373話 2012/01/13

『「九州年号」の研究』編集後記

 今日は大阪で仕事をしています。お昼休みを利用して、紀伊国屋書店(本町店)をのぞいてきました。もちろん目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかどうかの確認です。その結果は、幸いなことに何と古代史コーナーに平積みで並んでいました。ありがたいことです。わたしは紀伊国屋書店が大好きになりそうです。
 ミネルヴァ書房の田引さんの話では、『「九州年号」の研究』は順調に売れているそうです。そこで、田引さんのご了承を得ましたので、『「九州年号」の研究』の編集後記を転載します。まだお読みになっていない方に、同書の概要をご理解いただけると思いますので。

『「九州年号」の研究』編集後記

 古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
 以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
 本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
 正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
 最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中 歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
 同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木 簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
 本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
 わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一 つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日記    古賀達也


第372話 2012/01/11

八重洲ブックセンター

東京から名古屋に向かう新幹線の車中にいます。今日のお昼に、東京駅八重洲口にある有名な書店、八重洲ブックセンターに 寄りました。目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかの確認です。というのも、正月明けに名古屋の知人から、名古屋駅ビルにある大型書店の三省堂に 『「九州年号」の研究』が並んでいないとの連絡があったからです。それでちょっと心配になり、出張を利用して八重洲ブックセンターに行くことにしました。
四階(だったと思います)の古代史コーナーに古田先生のコーナーがあり、そこに『「九州年号」の研究』が先生の著作とともに並んでいました。「古田史学 の会」の会誌『古代に真実を求めて』も全巻そろえてあり、改めて古田先生の人気と存在感を実感したしだいです。(名古屋に着いてから駅ビル11階にある三省堂書店ものぞきましたが、『「九州年号」の研究』があり一安心でした。)
「古田史学の会」の事業の一環として、来年度からは『「九州年号」の研究』の全国主要図書館や大学図書館への寄贈も検討していきたいと思います。大和朝 廷一元史観に風穴をあけるため、古代史ファンの目に入る場所へ「九州王朝」説や「九州年号」説を届けたいと考えています。皆様のご協力もよろしくお願いい たします(ご近所の図書館へ推薦してください)。


第371話 2012/01/10

東北への稲作伝播と古田説

 『生物科学』(vol.62 No.2 2011)に佐々木広堂さんらが発表された、ロシア沿海州から東北へ水田稲作が直接伝播したという説を第370話で紹介しましたが、もしこの説が正しかったら、古田説とどのような関わりを持つか考えてみました。
 まず最初に思い起こされるのが、『出雲風土記』にある「国引き神話」との関係です。古田説によれば、この神話には金属器が登場していないことから、金属器以前の旧石器・縄文時代にまで遡る神話であり、しかもその内容は日本海を挟んでウラジオストックなど沿海州との交流を描いたものとされました。従って、 水田稲作が沿海州から東北地方へ直接伝わったとする佐々木説と矛盾しません。旧石器・縄文時代からの日本海を挟んだ交流の歴史を背景に、弥生時代に沿海州 から寒冷地で栽培できる稲作が東北地方にもたらされることは、十分に考えられることです。今後、沿海州から青森県砂沢水田遺跡と同時代の水田遺跡が発見さ れれば、佐々木説は更に有力なものとなるでしょう。
 古田説との関係でもうひとつ思い起こされるのが、和田家文書にあるアビヒコ・ナガスネヒコによる筑紫から津軽への稲の伝播に関する伝承です。
 古田先生によれば、筑紫の日向(ヒナタ)の賊(天孫降臨)に追われたアビヒコ・ナガスネヒコは稲穂を持って津軽へ逃げたとのこと。また、青森の水田遺跡 に福岡の板付水田との類似構造が認められており、両者の関係がうかがわれるとのことで、筑紫から直接津軽へ水田稲作技術が伝播したから、砂沢遺跡が関東な ど筑紫との中間地帯の水田遺跡より古いことも説明できるとされました。従って、和田家文書に遺された伝承は歴史事実を反映したものと説明されました。
 ところがこの古田説は先の佐々木説と対立しそうです。佐々木さんらは『生物科学』の論文で、「北部九州などで早生品種のイネであっても、そのモミをそのまま青森にもっていって水田稲作ができることにはならない。それは超晩生品種となって稔らない。」と北部九州から青森への直接伝播(海上ルート)を否定さ れています。
 わたしにはどちらの見解が正しいのかは、今のところわかりませんが、佐々木説にも説得力を感じつつ、それならばなぜ青森の水田と福岡の板付水田の構造が類似しているのかという説明が必要と思われました。
 ところで、今わたしは東武特急で新桐生から浅草へと向かっています。関東平野に沈む夕陽がとてもきれいです。


第370話 2012/01/10

東北水田稲作の北方ルート伝播

今日は東京に向かう新幹線の中で書いています。新幹線で上京のさいには富士山が見えるE席を予約するのですが、今回は残念ながらA席しか取れませんでした。冬の晴れた日の富士山の美しさは格別です。今朝はやや曇っているので、見えないかもしれません。
先日、「古田史学の会」草創の同志である仙台の佐々木広堂さんから『生物科学』(vol.62 No.2 2011)という専門誌が送られてきました。 同誌には佐々木さんと吉原賢二さん(東北大学名誉教授)の共同執筆による「東北水田稲作の北方ルート伝播」が掲載されていました。
同論文の主旨は、我が国への水田稲作は、従来中国江南地方や朝鮮半島から九州へまず伝播し、それから列島内を北上し、東北地方へも伝わったとされていま すが、そうではなく、東北地方へはロシア沿海州から直接伝播したとするものです。この主張は『古代に真実を求めて』誌上でも佐々木さんから発表されていた ものですが、今回は『生物科学』という専門誌に発表されたのですが、とても要領よくまとめられています。
ロシア沿海州ルートの主たる根拠は、青森の砂沢水田遺跡が仙台や関東の水田遺跡よりも古いということと、稲の寒冷地栽培が可能となるためには品種変異が 必須で、そのためには千年近くの長年月が必要ともいわれ、従来説では列島内北上スピードが早すぎるというものです。
わたしは専門外なのでこの佐々木説の当否をただちに判断できませんが、水田稲作伝播の多元説ともいうべきものであり、説得力を感じました。
なおもう一人の執筆者の吉原先生は高名な化学者であり、わたしもお名前はよく存じ上げていました。「古田史学会報」97号にもご寄稿いただいています。 電話やお手紙をいただいたこともありましたが、当初は有名な吉原賢二氏とまさか同一人物とは思わず、後になってそのことを知り、大変恐縮したことを覚えて います。吉原先生のことはインターネット上でも紹介されていますので、是非、検索してみてください。いろんな分野で古田先生を支持する人々がおられること に、とても心強く思いました。


第369話 2012/01/02

三社参り

皆様、新年おめでとうございます。京都に戻る新幹線の車中で書いています。久留米の実家で新年を迎えるたびに思うことがあります。それは九州では初詣の習慣として「三社参り」があることです。
わたしの子供の頃は、初詣として近所の神社と高良大社、そして太宰府天満宮の三社をお参りするのがしきたりでした。なぜ三社なのかは父親も教えてくれませんでしたが、子供心にも三社参らないと正月の行事をきちんと行った気がしませんでした。
ちなみに筑前の福岡あたりでは、太宰府天満宮・筥崎宮・宮地嶽神社の三社が、三社参りの定番とのことですが、誰がいつ決めたのかは知りません。おそらくは九州王朝の歴史にまで縁源があるのではないかとにらんでいます。
わたしはこの三社参りが九州のローカルな風習であることを、就職で京都に来るまで知りませんでした。恥ずかしながら、三社参りは日本全国の初詣の習慣だと、30歳頃まで思っていました。
ところで、先の宮地嶽神社ですが、九州新幹線に配備されているJR九州が作ったフリーペーパー「プリーズ」2012年1月号(No.296)に宮地嶽神社の特集があり、同神社にある宮地嶽古墳(7世紀造成と紹介)について、権禰宜の渋江公誉(しぶえ・きみたか)さんの説明として、「この古墳の王はこの地 を治めた王朝の王であろうと思われます。ただこのように、この時代に特に貴重な黄金や瑠璃をふんだんに使用した出土品を見れば、この地を支配した氏族が繁栄し、富を持っていたことは一目瞭然です。当時の日本において、相当の力を持っていたことは間違いありません」と紹介されています。
大和朝廷一元史観による通説では、宮地嶽古墳は「大和朝廷支配下の北部九州の豪族の墓」とされているのですが、権禰宜の渋江さんは、この地を治めた「王朝」の王の墓と説明されているのです。これこそ九州王朝説に他なりません。おそらく渋江さんは古田先生の九州王朝説をご存じのことと推察しました。
どうやら、古田史学・九州王朝説はわたしたちの思っている以上に、深く広く静かに浸透しているようです。新年も古田史学にとって、すばらしい一年になりそうな予感がしています。


第368話 2011/12/31

平成23年の回顧

 平成23年も最後の一日となりました。我が国にとって今年は非情で沈痛で困難な年でした。東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災地の復興を祈念しながら、「古田史学の会」の一年を振り返りたいと思います。
 全くの個人的学問的感想となりますが、ご紹介いたします。まず第一はやはり『「九州年号」の研究』の編集作業と上梓です。刊行企画から上梓まで三年ほど かかりました。会員の皆さんにはお待たせしたことをお詫びします。それから、編集作業を進めていただいたミネルヴァ書房の田引さんにあらためて感謝いたし ます。自画自賛となりますが、九州年号の研究書は近年他に類書もなく、後世に残る一冊と自信を持っています。
 第二は、福岡市から出土した「大歳庚寅年」銘鉄刀が四寅剣だったことが解明されたことです。朝鮮半島の伝統的剣である四寅剣が九州王朝にもあったこと と、九州年号「金光」改元との関係が推測できることなど、九州王朝研究にとってもすばらしい金石文の発見でした。
 第三は、百済人祢軍墓誌拓本の出現です。七世紀末の『日本書紀』にも登場する祢軍の墓誌という第一級史料の出現は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を研究する上で画期的な事件でした。本格的研究の幕開けが楽しみです。
 第四は、九州年号史料に見える「始哭」や『二中歴』に記されていない「法興」「聖徳」年号についての新たな仮説が正木さんから発表されたことです。『「九州年号」の研究』の続編を出すときには収録したい研究成果の一つです。
 第五は、太宰府の観世音寺の創建年について『勝山記』に白鳳十年と記されていることの「発見」です。『二中歴』には白鳳年号の細注に「観世音寺東院造」 とありますが、具体的な年次が不明でした。とところが『勝山記』には白鳳十年(670)の項に「鎮西観音寺造」とあり、具体的な年次が判明したのでした。 太宰府政庁や条坊の編年研究にも貴重な史料となるでしょう。
 この他にも優れた論稿が会報や会誌で発表されましたが、何といっても古田先生が畢生の書とされた『卑弥呼』が刊行されたことです。古田先生の四十年にわ たる邪馬壱国研究の総決算ともいうべき一冊で、古田学派必読の書です。わたしも年始には再読します。
 それでは皆様、新年が良き年でありますように。


第367話 2011/12/30

九州王朝と筑紫王朝

 九州新幹線「さくら」で帰省中です。グリーン車並の四列座席ですから、山陽新幹線よりも絶対お得です。今、博多駅を通過したのですが、社内の停車駅の説明アナウンスが、それまでの日本語と英語の他に、韓国語と中国語でもされています。九州に帰ってきたのだなと、実感されま す。
 近年、古田説や多元史観支持者から多くの著書が発刊されていますが、学問的にも大変喜ばしいことだと思います。ただ、その中で九州王朝のことを「筑紫王朝」と表現される方も少なからず目にします。筑紫王朝という表記が必ずしも誤りというわけではありませんが、学問的厳密性から見れば、微妙だと思います。
 古田先生の『失われた九州王朝』をしっかりと読まれた方はご理解いただけると思いますが、古田先生がなぜ「筑紫王朝」ではなく九州王朝という表記にされたのかというと、九州島が「九州」と現代も呼ばれていることを、天子の直轄支配領域としての政治用語である「九州」との関係で重視されたからです。
 すなわち、筑紫という北部九州の小領域の権力者ではなく、九州島全体を直轄支配領域とした九州島の権力者という視点を重視され、その結果、筑紫王朝ではなく九州王朝という政治概念と呼称を自説に採用されたのです。ですから、古田学派の研究者の皆さんには、是非、九州王朝という表記を使っていただきたいと思っているのです。もちろん、強制すべきことではありませんが、わたしは論者の学問的厳密性への意識や認識を判断するうえでの一つの基準としています。
 ただし、天孫降臨直後であればまだ九州一円の平定以前ですから、学問的に正確に限定したいという立場で、その期間の九州王朝に限り「筑紫王朝」という表記を使用されるということであれば、それには大賛成です。
 なぜそんな細かいことを、と思われる方もおられると思いますが、学問的な深化や展開を考えたとき、たとえば九州王朝という表記であれば南九州の「隼人」 を九州王朝天子の直轄支配の「民」と見なすべきという論理性が明確になるのですが、「筑紫王朝」という表記ではこうした概念があいまいとなり、歴史研究において不正確な認識や誤った仮説の提示を促しかねないからです。
 単なる名称表記の問題ととらえるのではなく、古田先生が学問的に考え尽くされて選ばれた言葉が「九州王朝」であるとの思いに至っていただければ幸いです。
 なお、九州王朝が自らの国名を何と呼んでいたのかは、史料根拠に基づいての考察が必要です。これは「九州王朝」という学術用語の選定とはまた別の問題ですから。


第366話 2011/12/29

2012年新年賀詞交換会のご案内

新年の1月14日(土)に、恒例の「古田史学の会」新年賀詞交換会を古田先生をお招きして開催します。開会は午後1:30から、会場は「大阪市立市民交流センターひがしよどがわ」で、新大阪駅の近くです。
冒頭、水野代表や地域の会、友好団体からの参加者のご挨拶の後、古田先生よりご挨拶と講演をしていただくことになっています。ふるってご参加下さい。講 演終了後は懇親会(人数に制限があります。当日会場にてお申し込み下さい)も開催します。
『「九州年号」の研究』が上梓されたことは既にご紹介しましたが、「古田史学の会」2011年度会員には一冊進呈することになっています。幸い、ミネル ヴァ書房様から発送作業のご協力をいただき、会員の皆様には届き始めていることと思います。お正月にゆっくりとお読みいただければ幸いです。
各地の図書館で購入希望図書受付制度があれば、是非申し込みをお願いします。九州年号と九州王朝の存在を全国の歴史ファンに知らせたいと願っています。ご協力のほど、お願いいたします。


第365話 2011/12/28

漫画・「邪馬台国」はなかった

福與篤(ふくよ・あつし)さんから『漫画・「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房、2200円+税)を御恵送いただ きました。一読し、古田先生の邪馬壱国説をよく理解されたうえで、漫画化されていることがわかりました。まさに、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の エッセンシャル版と呼ぶにふさわしい一冊です。福與さんは漫画家ではないとのことですが、本当によく描かれたものだと感心しました。
もっとも、「漫画」と銘打たれていますが、漫画好きの若者向けではなく、古田説を知らない古代史好きむけの「入門書」との位置づけと思われました。仕事 柄、マーケティングに関わっていることもあって、どうしても、「狙うターゲット層は?」「販売戦略のポジショニングは?」「価格設定は適切か?」というビ ジネス視点で見てしまうことが、わたしの悪い癖ですが、猛烈に文字数や解説文が多い同書は、いわゆる「漫画読者」が対象とはならないでしょう。
とはいえ、邪馬壱国説の入門書にふさわしく、三国志倭人伝の版本と古田先生による読み下し文も掲載されており、すでに『「邪馬台国」はなかった』をお持ちの人にも、おすすめの一冊です。同書が多くの人々に読まれることを期待しています。


第363話 2011/12/18

『「九州年号」の研究』を上梓

 ミネルヴァ書房より、できたばかりの『「九州年号」の研究 — 近畿天皇家以前の古代史』が送られてきました。著者への贈呈分として一足早く届いたようですが、これから書店に並ぶことと思います。「古田史学の会」会員の皆さんには2011年度会員サービスとして進呈されま す。会員のお手元に届くのは順次発送作業を進めるため、年明けの2月以降になると思います。しばらくお待ち下さい。
 昨日の関西例会では、百済人祢軍墓誌について竹村さんや水野さんから報告があり、活発な討論が交わされました。当然のことではありますが、まだまだ結論は出そうにありませんでした。古田先生もこれから検討に入られると思いますので、引き続き研究テーマとして例会での検討が期待されます。
 冨川さんからは、鮮卑族に捕らえられた倭人の記事が後漢書に見えることを紹介されました。今後の研究の深化が待たれます。
 12月例会の内容は次の通りでした。その後の懇親会は忘年会と『「九州年号」の研究』出版祝いも兼ねて、盛り上がりました。

〔12月度関西例会〕
(1) オフレコ(ここだけの内緒話)(豊中市・木村賢司)
(2) 鮮卑族に連れ去られた倭人たち(横浜市・冨川ケイ子)
(3) 上柱國百済禰軍の位階(木津川市・竹村順弘)
(4) 日本書紀の蓋鹵王と武寧王(木津川市・竹村順弘)
(5) 継体紀における百済本記(木津川市・竹村順弘)
(6) 万葉3234番歌の「伊勢」批判(川西市・正木裕)
(7) 記紀の干支日(木津川市・竹村順弘)

○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・園城寺の白鳳年号・百済祢軍墓誌の追跡・他。