太宰府一覧

第1323話 2017/01/16

井上信正さんの謦咳に接す

 昨日は「九州古代の会」主催の井上信正さん(太宰府市教育委員会)の講演会に参加しました(於:ももち文化センター)。「大宰府-古代都市と迎賓施設」というテーマで、太宰府条坊の発掘調査にたずさわられている条坊研究の第一人者である井上信正さんの講演を是非ともお聞きしたいと、前日から実家のある久留米に戻っていました。講演会当日は大雪により新幹線ダイヤが乱れましたので、正解でした。
 初めてお聞きするような新発見や新説が次から次へと発表され、2時間では説明しきれないようでした。発表された新説の中でも特に驚いたのが、大宰府政庁の西に位置する「蔵司(くらのつかさ)」の礎石造りの大型建物が倉庫ではなく、唐長安城の麟徳殿に相当する「饗宴施設」とされたことです。その根拠は礎石配列や礎石が自然石ではなく加工されていることなどでした(大野城や奈良の正倉院など、倉の礎石は自然石をそのまま使用するのが普通で、蔵司の礎石は丸い柱に対応した加工が施されている。礎石配列も政庁正殿と同じ)。それではなぜ「蔵司」という地名が遺存しているのかという問題は残りますが、出土事実からの判断としては納得できるものでした。
 太宰府条坊都市が完成した後に大宰府政庁Ⅱ期と朱雀大路が造営されたことを井上さんは発見されたのですが、なぜその位置に造営されたのかという点についても明らかにされました。それは都城の南に位置する南山を「闕」とみなす秦始皇帝以来の中国都城の伝統を受け継いだ(模倣)ためと説明されました。大宰府政庁から南へ延びる朱雀大路の延長線上には基肄城の「東北門」があり、その位置関係が唐の乾陵(高宗・則天武后陵)に類似しているとのことでした。
 井上さんとは講演会後の懇親会でも隣の席に座らせていただき、太宰府や飛鳥・難波編年についてかなり突っ込んだ意見交換をさせていただき、とても有意義でした。「古田史学の会」の講演会へ講師として来ていただくことを了承していただきましたので、日程などが決まりましたらお知らせします。わたしは井上さんのお名前とその太宰府条坊研究は日本古代史学の研究史に残るものと確信しています。
 なお、1月21日の「古田史学の会」関西例会で、井上講演の概要をわたしから報告する予定です。


第1306話 2016/12/04

現地説明会資料に「大宰府都城」の表記

 筑紫野市前畑遺跡で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会資料が、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきましたので、解説部分を下記に転載します。
 この解説で驚くべき表現が使用されています。なんと「大宰府都城(とじょう)」と記されているのです。さらに「東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡」と説明されています。筑紫野市教育委員会による、太宰府を「都城」とするこの表記はほとんど九州王朝説による解説といえます。九州王朝の故地では、考古学的出土事実が当地の考古学者を確実に九州王朝説へと誘っているかのようです。
 さらに土塁の造営を「7世紀後半」と認定し、「大宰府防衛の羅城」と理解されていますが、実はこの理解は大和朝廷一元史観に決定的な一撃を与える論理性を有しています。すなわち、この土塁が防衛すべき「大宰府政庁Ⅱ期」の宮殿も7世紀後半には存在していたことが前提となった防衛施設だからです。従来の8世紀初頭という「大宰府政庁Ⅱ期」の編年が数十年遡るわけですが、ことはこれだけでは終わりません。「大宰府政庁Ⅱ期」よりも太宰府条坊都市の成立が早いという井上信正説がここでも頭をもたげてくるのです。
 井上信正説に従えば、「大宰府政庁Ⅱ期」が7世紀後半成立となることにより、太宰府条坊都市は7世紀前半まで遡り、難波京(652年前期難波宮造営)や藤原京(694年遷都)よりも太宰府がわが国最古の条坊都市となってしまうのです。もちろん九州王朝説に立てば当然の結論です。
 犬塚さんが現地説明会で、この土塁(羅城)が守るべき太宰府の創建時期について質問されたそうですが、筑紫野市教育委員会の担当者が回答できなかったのにはこのような「事情」があったからです。地元の考古学者が井上信正説や九州王朝説を知らないはずがなく、大和朝廷一元史観を否定してしまう今回の発見に、彼らも本当に困っていることと思います。

【現地説明会資料から転載】
    平成28年 12月3日(土曜日)・4日(日曜日)
    筑紫野市教育委員会 文化情報発信課
新発見太宰府を守る土塁
前畑遺跡第13次発掘調査 現地説明会

1.発見された土塁(どるい)
 筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施している前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期〜中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳群、窯跡、中世の館跡、近世墓などが発見され、遺跡が長期間にわたって形成されてきたことがわかりました。
 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られたと考えられる長さ500メートル規模の土塁が、尾根線上で発見されました。

2.土塁の構造
 土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に土壌(どじよう:模式図紫部分)を被せた構造です。上層は層状に種類の異なる土を積み重ねた「版築」(はんちく:模式図緑部分)と呼ばれる工法で造られています。このような工法は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡(おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似しており、7世紀後半に相次いで築造された古代遺跡に共通した要素と言えます。
 ただ、すでに知られている水城や小水城、とうれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機能が想定されています。
 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川から特別史跡基難城跡(きいじょうあと)に至るルート上に構築されたもので、丘陵尾根上に長く緩やかに構築された、中国の万里の長城のような土塁となっています。
 また、土塁の東側は切り立った斜面になっており、西側はテラス状の平坦面を形成しています。これは東側から攻めてくる敵を想定した構造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する意図を持って築かれたと考えられます。

3,前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景
 このように都市を防御するために城壁(土塁や石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれていました。
 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見された古代百済の首都・涸批(サビ)を守る扶余羅城(プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としています。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用して羅城を築いていることになります。
 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、665年には大野城と基難城が築造されており、脊振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると、低地から宝満川へ至ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってきました。

4.土塁の評価
 前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡です。
 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのではないでしょう。


第1305話 2016/12/04

太宰府防衛土塁の現地説明会報告

 筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が12月3日に開催されたそうで、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。写真はわたしのfacebookに掲載していますので是非ご覧ください。犬塚さんのご了解をいただきましたので、メールを転載します。

【以下、メールから転載】
本日筑紫野市で発見された土塁の現地説明会がありました。
天候にも恵まれ多くの見学者や報道機関が集まり関心の高さが窺えます
筑紫野市教委の担当者も、これほど反響があるとは思わなかったとのことです。
さて、説明は別添資料に沿って行われましたので読んでいただければと思いますが、
資料にない説明及び質問に答えた部分については以下のとおりです。
 
●土塁の西側(内側)のテラス状になった部分は兵士が移動する道路として使用されていた。烽火がうまくいかなかった場合兵士がこの道路を走って連絡に行ったと思われる。
 
●大宰府羅城推定図にある外郭線が阿志岐山城と繋がっていないのは、阿志岐山城が西側(大宰府側)に向いて築かれていることから、羅城の外城として築かれた可能性が考えられるためである。
 
●この土塁と阿志岐山城の間を流れる宝満川も外郭線としていたと考えられるが、これは扶余羅城が錦江を外郭線としていたのと同じである。
 
●この土塁からは北に大野城や阿志岐山城、西に基肄城がよく見える位置にある。当時は水城も見えたと思われる。軍事上このようなロケーションは非常に重要である。
 
●このような羅城を造るためには、相当な人員とそれを支える住居、食糧補給等が必要だが、どのような体制で造られたか不明。
 
●この土塁が造られた時期が7世紀とする直接の根拠はないが、7世紀と判断した根拠は三つある。
 一つは、土塁のテラス状の道路が8世紀に使用されていたことと土塁の下にある古墳時代の遺跡が6世紀のものであることがわかっており、その間に当該土塁があること。
次に、この土塁は版築という工法で造られており、7世紀に造られた水城などの工法と同じであること。
 最後に、7世紀の東アジアが、このような防御施設が必要とされるような状況にあったこと。
 これらのことから7世紀と判断した。
 
 このような大規模な「大宰府羅城」が造られたとすれば、守るべき太宰府はいつごろできたのかと質問したのですが、はっきりした答えはありませんでした。「白村江の敗戦後に水城だけでも短期間ででできたとは思えない。」とのことでしたので、羅城全体となるとかなりの期間が必要ですが、その前に太宰府が存在する必要があるとするとどのような説明ができるのでしょうか。
 説明資料に太宰府が描かれていないのはそのためでしょうか。
 
 以上現地説明会の報告です。
 
犬塚幹夫


第1303話 2016/12/01

倭国と日本国の「尺」

 11月27日に福岡市で開催した「古田史学の会」主催の講演会では問題意識の高い質問が参加者から出され、講演会後の懇親会も含めて成功裏に終えることができました。ご協力いただいた久留米大学の福山先生、「九州古代史の会」の方々、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん中村通敏さん、そして参加された皆様に御礼申し上げます。

 その質疑応答で、太宰府条坊地割(一辺約90m)の「尺」とその後に地割された北部(政庁・観世音寺)の「尺」の違いについての質問が出されました。井上信正さんは前者を「大尺」、後者を8世紀初頭の「小尺」とされたのですが、わたしは九州王朝(倭国)の「尺」制度の変遷について研究中でもあり、1尺は約30cm程度としか答えられませんでした。

 太宰府条坊の一辺90mという実測値から、約30cmの「尺」で300尺という整数が得られることから、七世紀初頭の九州王朝「尺」は約30cmと考えてよいかもしれませんし、あるいは36cmであれば250尺となります。この点、引き続き調査検討が必要です。

 先日、京都の染色工場の経営トップの方と懇談する機会があったのですが、そのとき正倉院宝物のカタログを見せていただきました。それには東大寺の「緑綾几帯(みどりあやのつくえのおび)」が掲載されており、それに墨で次のような長さと年代が記されていました。

「花机帯 長二丈三尺四寸 廣二寸五分 天平勝寶四年四月九日」「東大寺」

 解説には現在の実測値が「長六八二・〇 幅七・五」とあり、墨書の数値と実測値から計算すると、全長から1尺は29.145cm、幅からは30cmという数値が得られます。この計算値から、天平勝寶四年(752)時点の大和朝廷(日本国)の「尺」は1尺=29〜30cmだったことがわかります。ちなみに天平勝寶四年は東大寺の大仏開眼供養の年ですから、この帯はその儀式に用いられたものと思われます。

 この正倉院宝物カタログを見せていただいた方は草木染めの専門家で、愛子内親王が二十歳の宮廷儀式で着用される十二単(じゅうにひとえ)の天然染料を用いた染色を宮内庁から委託されているとのこと。その十二単に使用される生地は蓮糸(ハスの糸)で織られているそうで、それを天然染料(主に草木染)で復元することはかなり困難とのことでした。わたしも色素化学・染色化学のケミストの一人として、何かお手伝いできればと願っています。ちなみに、本日(12月1日)は愛子内親王15歳のお誕生日です。おめでとうございます。


第1301話 2016/11/29

太宰府防衛の「羅城」跡が発見される

 今日は大阪市で開催の繊維応用技術研究会に出席しています。大阪府立産業技術総合研究所の山下怜子さんの講演「ニオイ可視化への検討:色素によるにおいのセンシングとその評価方法」の座長を仰せつかっています。色素の応用技術に関する研究報告ということもあって、楽しみな発表です。

 お昼休みに正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のfacebookを見ると、太宰府を防衛する巨大土塁が筑紫野市から発見されたという本日朝刊の記事が紹介されていました。これはすごい遺跡が発見されたとスマホで関連ニュースを検索しています。
 熊本県和水町と福岡市で、太宰府を「日本最古の条坊都市」とする講演をしたばかりですから、このタイミングに不思議な縁を感じました。
 WEBニュースによれば、発見されたのは大宰府政庁の南東約7kmに位置する前畑遺跡で、南北に走る約500mの土塁とのこと。地図で見ると、東からの侵入に対して太宰府を防衛する位置にあり、ニュースでは白村江戦(663年)の敗北後に防衛施設として造営されたと説明されていますが、北の唐や新羅からの防衛施設とするには位置が不自然です。やはり九州王朝の都、太宰府条坊都市を取り囲む羅城の一部と思われます。
 今日は夜遅くまで学会の懇親会が予定されていますが、なるべく早く帰宅して、今回の発見について情報収集したいと思います。


第1299話 2016/11/19

天武朝(天武14年)国分寺創建説

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつも以上にエキサイティングな一日となりました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の発表で、天武朝(天武14年)国分寺創建説なるものがあったことを初めて知りました。正木さんの見解では『日本書紀』天武14年条に見える「諸国の家ごとに仏舎を造営せよ」という記事は、34年遡った九州王朝の記事とのことでした。国分寺のなかには創建軒丸瓦が複弁蓮華紋のケースもあり、その場合は天武期の創建とすると瓦の編年ではうまく整合するので、天武期(白鳳時代)における九州王朝の国分寺創建の例もあるのではないかと思いました。なお、正木さんの発表を多元的「国分寺」研究サークルのホームページに投稿するよう要請しました。

 茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の発表は、水城の軍事上の機能として、単に土塁と堀による受け身的な防衛施設にとどまらないとするものでした。このテーマについては茂山さんとのメールや直接の意見交換を交わしてきたこともあり、水城と交差する御笠川をせき止めることが、当時の土木技術で可能だったのか否かという質疑応答が続きました。来月も後編の発表を予定されているとのことで、わたしとは異なる見解ですが、刺激的で勉強になるものでした。

 なお、このテーマについて茂山説に賛成する服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしとで例会後の二次会・三次会で「場外乱闘」のような論争が続きました。知らない他人が見たら二人がケンカしているのではと心配されたかもしれませんが、関西例会ではよくあることですので、心配ご無用です。
11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①「淡海」から「近江」そして「大津」は何時かわったのか(堺市・国沢)
②倭国・日本国考 八世紀初頭の造作(八尾市・服部静尚)
③「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(上)(吹田市・茂山憲史)
④藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について(川西市・正木裕)
⑤天武の「国分寺創建詔」はなかった -『書紀』天武十四年の「仏舎造営・礼拝供養」記事について-(川西市・正木裕)
⑥『二中歴』細注の「兵乱海賊始起又安居始行」と「阡陌町収始又方始」(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転(二階に)・パリ在住会員奥中清三さん寄贈の絵画(「壹」の字をデザイン)を「古田史学コーナー」に展示・千歳市の「まちライブラリー」(国内最大規模の「まちライブラリー」)で「古田史学コーナー」設置の協力・11/26和水町で古代史講演会の案内・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について・その他


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1285話 2016/10/13

『古田史学会報』136号のご案内

 『古田史学会報』136号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号には九州王朝都城論に関する基本的で重要な論稿が掲載されました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「古代の都城 -宮域に官僚約八千人-」です。7世紀における律令制度に基づく全国支配に必要な宮域(王宮・官衙)の規模を、『養老律令』に記載された中央官僚定員数や平安京や前期難波宮の宮域を図示し、八千人にも及ぶ官僚を収容できることが必要条件であると指摘されました。

 この服部さんの指摘により、今後、律令時代の九州王朝の都城候補を論ずるときは、これだけの規模の王宮・官衙遺構の考古学的出度事実の提示が不可欠となったのです。この規模の都城遺構を提示できないいかなる仮説も成立しません。ちなみに、この規模を有す7世紀における王都は太宰府と前期難波宮(難波京)、そして藤原宮(新益京)だけです。近江大津宮は王宮の規模は巨大ですが、周囲の都市化が進んでいるためか官衙遺構や条坊都市は未発見です。

 わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」と「『肥後の翁』と多利思北孤」を発表しました。九州王朝の兄弟統治の一例として、筑後の多利思北孤と鞠智城にいた「肥後の翁」を兄弟の天子とする仮説です。

 西村秀己さん(『古田史学会報』編集部)は古代官道南海道の変化が、九州王朝から大和朝廷への王朝交代に基づくことを報告されました。とても面白いテーマです。

 上田市の吉村八洲男さんは『古田史学会報』初登場です。古代信濃国の多元史観による研究です。このテーマは「多元的古代研究会」や「東京古田会」では活発に論議されています。「古田史学の会」でも関心が深まることが期待されます。

 136号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』136号の内容
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○「肥後の翁」と多利思北孤 -筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解- 京都市 古賀達也
○「シナノ」古代と多元史観 上田市 吉村八洲男
○九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案②
九州王朝(銅矛国家群)と銅鐸国家群の抗争  古田史学の会・事務局長 正木裕
○〔書評〕張莉著『こわくてゆかいな漢字』 奈良市 出野正
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1283話 2016/10/06

「倭京」の多元的考察

 九州年号「倭京」(618〜622年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の653〜672年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」
①653年  (白雉4年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②654年1月(白雉5年正月条) 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③654年12月(白雉5年12月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④667年8月(天智6年8月条) 皇太子、倭京に幸す。
⑤672年5月(天武元年5月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥672年6月(天武元年6月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦672年7月(天武元年7月条) (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧672年7月(天武元年7月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨672年9月(天武元年9月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのfacebookに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(652年創建〜686年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。
2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と呼んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったてしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


第1278話 2016/10/01

水城防衛技術の小論争

 「古田史学の会」の研究仲間との間で水城の防衛方法についてのちょっとした論争(意見交換)をメールで行っています。もちろん、わたしも勉強中のテーマですので、まだ結論には至っていませんが、とてもよい学問的刺激を受けています。
 その論争テーマとは、水城は博多方面から押し寄せる敵軍に対して、事前に御笠川をせき止め、太宰府側に溜めた水を一気に放流し、せん滅する防衛施設であるという意見が出され、それに対して、そのような御笠川をせき止めたり、水圧に抗して一気に放流するような土木技術が当時にあったとは思えないという意見のやりとりです。
 わたしは後者の立場ですが、いつ攻めてくるかわからない敵のために御笠川をせき止めて太宰府を水浸しにするよりも、土手を高くするなり、堅固な防塁を増やしたほうがより簡単で効果的と思っています。
 そんな論争もあって、大野城市のホームページを見ると、そうした議論は以前からあり、現在では決着がついているとする解説がありましたので、転載します。歴史学的にも土木工学的にも面白いテーマだと思いませんか。

【大野城市HPから転載】
  『日本書紀』に「大堤を築き水を貯えしむ」と書かれている水城跡ですが、水をどのように貯えていたのでしょうか。
  このことについては古くから議論があり、中でも水城跡の中央部を流れる御笠川をせき止めて太宰府市側(土塁の内側)にダム状に水を貯め、博多湾側(土塁の外側)から敵が攻めて来た場合、堤を切って水を流し敵を押し流すという説が有力でした。
  ところが、昭和50年から52年にかけて九州歴史資料館が行った発掘調査によって、太宰府市側にあった内濠から水を取り、木樋を通して博多湾側の外濠に貯めるという仕組みが明らかになり、土塁と外濠で敵を防ぐという水城の構造が確認されました。


第1274話 2016/09/24

水城の敷粗朶工法と傾斜版築

 『季刊考古学』第136号を読んでいるのですが、水城の築造技術について林重徳さん(佐賀大学名誉教授)が書かれた論稿「水城」はとても勉強になりました。今まで漠然と考えていた水城の築造技術がいかに素晴らしく、当時の最先端技術の粋を集めて築造されたことがよくわかりました。
 水城の築造には版築という種類の異なる土を何層にも突き固める工法が用いられており、その層の間に粗朶が敷き詰められています(水城の下層部分)。この敷粗朶は水城に降った雨水などが土塁に溜まらないように排水する機能があります。これらの技術が水城に採用されていたことは知っていたのですが、林さんの詳しい解説によれば、水城の上部の堤体には鉄分の多い「まさ土」が使用されているため、浸透水の酸素が奪われ、結果として敷粗朶の耐久性が確保されているとのことなのです。敷粗朶工は、堤体下部の引っ張り補強材として作用し、基礎地盤の圧密沈下対策とともに砂質地盤の液状化に対して(地震対策として)も有効であり、「筑紫地震(679年):M=6.7」による大きな被害を被った痕跡も確認されていないそうです。
 この水城の版築は水平ではなく傾斜を持っています。博多側は敵の侵入を防ぐために急斜面になっており、版築も緻密に固められ、その層は太宰府側に低くなり、版築層から排水される水は太宰府側に流れるように設計されています。その結果、博多側の急斜面には水が流れることなく、土塁の崩落を防いでいます。
 このような実に巧みな工法と設計により水城が築造されていることを、林さんの論文により知ることができました。(つづく)

 ※わたしのfacebookに水城の断面図・写真を掲載していますので、ご覧ください。


第1262話 2016/08/24

「阿志岐城跡」調査報告書を読む

 今朝は東京に向かう新幹線車中で『阿志岐城跡』確認調査報告書(筑紫野市教育委員会、2008年)を読みました。小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からいただいたものです。小林さんは考古学に詳しく、全国の主要遺跡や有名古墳はほとんど実見されており、「古田史学の会・関西」では「古墳の小林」と呼ばれています。わたしも古墳についてわからないことがあれば、小林さんから教えていただいています。
 「阿志岐城跡」調査報告書はカラー写真や地図が収録されており、同遺跡の全体像や太宰府・大野城・水城・基肄城との位置関係がよくわかります。説明では「阿志岐城」山頂から、北は太宰府や水城・大野城、南は基肄城・高良山神籠石山城が見えるとのこと。防衛に適した位置にあることもよくわかります。
 神籠石山城には城内に谷などの水源を有しており、多くの人の長期に及ぶ「籠城戦」を想定して造営されています。唐や新羅の軍隊に水城を突破され、太宰府が陥落した場合、大野城や神籠石山城に住民も含めて籠城し、眼下の敵陣に「夜討ち朝駆け」を続け、延びきった兵站を寸断し、侵略軍を殲滅するという持久戦を想定したものと思われます。隋や唐による侵略の恐怖にさらされた倭国では、首都の住民も守るという設計思想の山城を築城したのですから、住民の協力も得やすかったのではないでしょうか。
 ここの神籠石列石は高良山神籠石のような直方体の一段列石ではなく、四角に整形された積石による列石のようです。しかも耐震強度を高めるために「切り欠き加工」が施されています(わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご参照ください)。素人判断では高良山神籠石よりも技術的に高度であり、時代も新しいように思われました。
 この「阿志岐山城」について、「洛中洛外日記」で触れたことがあります。以下、再録します。

古賀達也の洛中洛外日記
第815話 2014/11/01
三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。