太宰府一覧

第426話 2012/06/15

最古の「戸籍」木簡、太宰府から出土

 もう皆さんはご存じのことと思いますが、ビッグニュースが届きました。13日の朝、出張先の名古屋のホテルで朝刊(中日新聞)に目を通していた ら、太宰府市から最古の「戸籍」木簡が出土したという記事がありました。本当に驚きました。駅のコンビニで全国紙3紙(読売・毎日・朝日)を購入し、急ぎ 目を通したのですが、その記事がいずれも1面に掲載されており、読売に至ってはトップ記事でした。このことからも、今回の木簡出土がいかに衝撃的な事件かがわかります。

 明日16日には現地説明会が開催されますが、古田先生も参加されるとのことです(古田史学の会・総務の大下隆司さんがアテンドされます)。古田史学にとっても新たな進展の予感がしています。

 新聞記事を読んでみると、専門家の様々なコメントやもっともらしい解説が掲載されていましたが、「何故、畿内ではなく九州太宰府から出土したのか」とい う本質的な疑問への説明は皆無でした。おそらく、古田先生の九州王朝説を知っている一元史観の学者にとっては、素晴らしい木簡が出土したことへの喜びと、 「よりによって太宰府から出土した(九州王朝説に有利)」ことへの「不安感(九州年号木簡などもう出ないで欲しい)」が交錯しているのではないでしょう か。

 今回出土した木簡に対する、わたしの見解発表は詳細な解説や報告を待ってからにしたいと思いますが、古代戸籍(主に大宝二年戸籍。正倉院文書)について は従来から西海道(九州)戸籍の「高度な統一性(用紙・体裁・記載様式)」が指摘されていました。わたしはこの西海道戸籍の「高度な統一性」こそ、九州王 朝が存在し、大和朝廷に先立って戸籍を造籍していたことの反映と理解していましたが、今回の「戸籍」木簡が他でもない九州王朝の都である太宰府近傍から出土したことにより、その「高度な統一性」が九州王朝に縁源することが証明されたのです。その意味でも、多元史観・九州王朝説にとっても画期的な出土史料な のです。

 この他にも、今回出土した木簡には様々な興味深い発見があるのですが、もう少し詳細な情報を得てから、紹介したいと思います。


第424話 2012/06/10

九州王朝の「五京制」

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表して以来、賛否両論をいただき有り難く思っています。ただ、反対意見の大半は 「感覚的」な御意見のようで、具体的な史料根拠に基づく論理的な批判は少数にとどまっているようにも見えます。もちろん全ての反対意見を把握しているわけではありませんので、これはわたしの主観的な受け止め方に過ぎないかもしれません。
 最近も水野代表から、大和朝廷のそばに九州王朝の副都があることに違和感を覚える人もおられることをお聞きしたばかりです。このような感覚的な違和感への反論や説明は簡単ではないのですが、こうした批判に対しても答える必要を感じています。そこで今回は古代東アジアにおける副都制や五京制の存在について ふれ、九州王朝副都説さらには「五京制」説への展望を示したいと思います。
 たとえば渤海国(698-926)では五京制が採用され、都が五カ所(上京竜泉府・東京竜原府・中京顕徳府・南京南海府・西京鴨緑府)ありました。ちなみに年号も制定しています。七世紀末の新羅も「九州」制を採用し、首都の金城(慶州市)以外に五つの副都(五小京制)を採用しています。しかも、旧敵国内 (百済や高句麗)に置いています。この他にも、中国の歴代王朝でも両京制や三京制・四京制が普通に見られ、むしろ副都を制定するのは古代東アジアの国々にとって、「常識」であったとさえ言えるのです。
 したがって古代日本列島の代表王朝だった九州王朝が副都を制定するのは当然の「国際常識」であり、支配領域に評制を施行した九州王朝であれば、その支配領域の中心部で海運の便も良好な難波に副都「難波京」を制定しても何ら不思議とするにあたりません。列島内ナンバー2の実力者である近畿天皇家を牽制監視する上でも適切な場所と言えるでしょう。
 ここからは推測となりますが、おそらく九州王朝は難波以外にも複数の副都を制定した、あるいは制定しようとしたのではないかと考えています。もちろん首都は九州太宰府の倭京です。筑後にも副都を置いたように思われます(古田武彦「両京制の成立」古田史学会報36号参照。『「九州年号」の研究』に転載)。 七世紀後半には近江京(古賀達也「九州王朝の近江遷都」古田史学会報61号参照。『「九州年号」の研究』に転載)。更には信濃にも副都を作ろうとした痕跡 が『日本書紀』天武紀に見えます。
 これらの推測が当たっていれば、九州王朝も「五京制」を採用していた可能性があると思うのですが、いかがでしょうか。少なくとも、東アジアの国際状況を考えたとき、決して無茶な推測・仮説ではないと思うのです。


第410話 2012/05/08

観世音寺の水碓(みずうす)

 観世音寺や大宰府政庁の編年見直しの研究に取り組んでいますが、一応の結論と して観世音寺の創建を白鳳10年(670)、大宰府政庁II期の創建を670~680年頃とする論文を執筆しました。執筆直後(5月5日)、正木裕さん (古田史学の会会員)に電話でその内容を説明し、「日本書紀」にこの結論と関係するような記事がないか問い合わせたのですが、その翌日、正木さんから素晴らしい一報が届きました。
 それは観世音寺創建に関する発見なのですが、「日本書紀」の天智9年(白鳳10年に相当)の「是歳」条に「是歳、水碓を造りて治鉄(かねわか)す」という記事があり、この水碓は観世音寺に現存する「碾磑(てんがい・水碓のこと)」ではないかと指摘されたのです。そしてそれを裏付けるように、貝原益軒の 『筑前国続風土記』(巻之七御笠郡上。観世音寺)寛政十年(一七九八)に、「観世音寺の前に、むかしの石臼とて、径三尺二寸五分、上臼厚さ八寸、下臼厚さ 七寸五分なるあり。是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云。」という記事があることを発見されたのです。
 すなわち、観世音寺が創建された年にあたる「日本書紀」天智9年(白鳳10年)に水碓の記事が唐突に記されており、『筑前国続風土記』にも現地伝承とし て観世音寺創建時に造られた臼のことが記されていたのです。しかも、どちらもその用途を金属の粉砕(湿式粉砕と思われる)としているのですから、これは偶然の一致ではなく、共に同じ歴史事実を記したものと考えざるを得ません。とりわけ、「日本書紀」の記事の年代が「勝山記」に記された観世音寺創建年の白鳳 10年(670)なのですから、この一致は決定的です。
 「二中歴」や「勝山記」、そして創建瓦「老司I式」の編年が、いずれも観世音寺創建を白鳳年間(白鳳10年)であることを指し示し、更にだめ押しのような正木さんの「水碓」記事の発見が加わったことにより、観世音寺白鳳10年創建説は揺るぎないものになったのではないでしょうか。
 なお、わたしの観世音寺・大宰府政庁II期に関する論文と正木さんのこの発見については「古田史学の会報」6月号に掲載予定です。


第409話 2012/05/06

「竈門山旧記」の太宰府

ゴールデンウィークは外出せずに自宅で論文を書いたり、本を読んですごしました。その中で、太宰府の北東の宝満山(竈門山・御笠山とも呼ばれる)にある竈門神社の記録「竈門山旧記」(五来重編『修験道史料集』?)におもしろい記事を見つけましたので、ご紹介します。
それは太宰府に天智天皇の時代に都が造られたという次のような記述です。
「天智天皇ノ御宇、都ヲ太宰府ニ建玉ウ時、鬼門ニ當リ、竈門山ノ頂ニ八百萬神之神祭リ玉ヒ」
「太宰ノ府ト申ハ水城ヲ以テ惣門トシ片野ヲ以テ後トス。今ノ太宰府ハ往昔ノ百分一ト可心得、内裏ノ四礎今ニ明ケシ。」
天智天皇の時代に太宰府に都が造られ、水城が惣門にあたり、当時は今の百倍の規模で、内裏の礎が今も明確であるというものです。
太宰府に都があったという伝承が記された貴重な記録です。この「竈門山旧記」の成立年代は不明ですが、「延寶八年」(1680)までの記事が記されてい ますから、成立はこれ以後となります。おそらく当地には九州王朝に縁源する文書がまだ他にもあるのではないでしょうか。


第405話 2012/04/18

太宰府編年の再構築

 今日は仕事で長野県岡谷市に行ってきました。天候にも恵まれ、JR中央本線「特急しなの」の車窓から見える山々の冠雪や満開の桜がとてもきれいでした。
 このところ「古田史学会報」用論文の執筆に打ち込んでいます。題は「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」というもので、太宰府編年の整理と再構築がテーマです。九州王朝の王都太宰府については、古田学派内でも様々な編年観があるようですが、七世紀の九州王朝研究の深化のためにも、一度きちんと論文に まとめ直す必要を感じていました。
 というのも、わたし自身も当初の編年観が誤っていることに気づき、修正を重ねているからです。その修正ができたのは、二人の井上さんのおかげなのです が、一人は井上信正さん(太宰府市教育委員会)、もうお一人は井上馨さん(古田史学の会会員、山梨県在住)です。
 考古学者で太宰府遺構の調査研究にたずさわられている井上信正さんは、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺・朱雀大路よりも条坊区画の方が先に造営されており、その時期を七世紀末とする新編年を発表されました。
 当初わたしは九州王朝の王宮である大宰府政庁Ⅱ期と条坊都市は共に九州年号「倭京」年間(618~622)に造営されたものと理解していました。ところが、両者の中心軸はずれており、造営にあたり使用された基準尺も異なっていることを井上信正さんは発見されたのです。この指摘は衝撃的でした。この井上説に立てば、我が国最初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が先に造営されたことになりかねないからです。少なくとも同時期となってしま うのです。このため、九州王朝説の立場に立っても太宰府編年の見直しがせまられたのです。
 次に井上馨さんですが、昨年送っていただいた『勝山記』のコピーを読み、観世音寺の創建年が白鳳10年(「白鳳十年鎮西観音寺造」とあります)と記録さ れいることに気づいたのです。観世音寺創建年については、『二中歴』では「白鳳年間(661~683)」とされているのですが、それ以上の具体的年次が不 明でした。ところが『勝山記』のおかげで、白鳳10年(670)であったことがわかったのです。
 観世音寺創建年が670年のこととわかったおかけで、大宰府政庁Ⅱ期も同時期の造営となることから、太宰府編年研究が一気に進んだのです。こうした、二人の井上さんの「ご協力」に基づいて、太宰府編年研究を再構築すべく原稿を執筆しています。「古田史学会報」次号でご紹介できると思います。


第336話 2011/09/03

『勝山記』の観世音寺創建記事

 大型の台風12号の接近のため、今日は外出を控えて終日原稿執筆の予定ですが、昨日、山梨県の会員で井上さんからお便りが届き、九州年号史料としても有名な『勝山記』のコピーが同封されていました。
 『勝山記』は今から20年ほど前に読んだことがあるのですが、現在は当時よりも九州年号研究もはるかに進展していますし、問題意識も深まっていますので、送られたコピーを見ましたところ、いくつかの面白い記事が目にとまりました。
 その一つが観世音寺の創建に関する記載でした。『勝山記』の白鳳10年(670)の項に、「鎮西観音寺造」と記されているのですが、鎮西の観音寺とは太宰府の観世音寺のことと考えられ、その創建年次が具体的に記された史料としては管見では『勝山記』だけなのです。
 『二中歴』年代歴には白鳳年間の細注として、「観世音寺東院造」とあるのですが、白鳳の何年かまでは記されてはいません。従って、『勝山記』のように白鳳10年という具体的年次のわかる史料は貴重なものです。もちろん、『勝山記』の史料批判も含めて今後の課題として残されており、この白鳳10年記事が 歴史事実かどうかは総合的に判断しなければなりませんが、観世音寺の創建年次を記した史料として貴重なものであることに違いはありません。
 今回、『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事に、わたしが興味を引かれたのには、ある理由がありました。それは、『二中歴』の白鳳年号細注の「観世音寺東院造」の読み方として、わしは「観世音寺を東院が造る」と解し、東院を人名とする読みが有力と考えているのですが、そうではなく「観世音寺の東院を造る」と読み、東院を建物とする理解も可能であり、そちらが正しいとする見解もあるからです。
 もちろん読み方としてはどちらも可能なのですが、年代歴の九州年号細注の記載方法として、「倭京二年難波天王寺聖徳建」という記事があり、こちらは「難波天王寺を聖徳が建てた」と読まざるを得ません。ですから同様の表記ルールで読むのが史料批判上まっとうな方法ですから、観世音寺の場合も東院という人物が造ったと読むべきですし、それに何よりも、もし東院とは別に観世音寺本体が創建されていたのなら、年代歴にはそちらが記載されるべきなのではないでしょうか。『二中歴』九州年号細注には「始めて~」という記載が多く、その始めての事例を記載することが目的のような年代歴なのですから、観世音寺本体の創建を記さず、その「東院」の創建記事のみを記したとは考えにくいのです。
 更にいうなら、白鳳年間に観世音寺の東院を造ったと読みたい論者の目的は、観世音寺創建年代を更に古くしたいということにあるようです。従って、『二中歴』の白鳳の記事を、その表記ルールを無視して、「白鳳年間に創建されたのは観世音寺の東院」としなければ、都合が悪かったのです。
 しかしこうした理解は、表記ルールだけでなく、考古学的にも無理があります。今までも度々指摘してきましたが、観世音寺創建瓦の「老司1式」は7世紀中頃から後半の瓦とされていますので、『二中歴』の白鳳年間創建でぴったり一致しています。その上、観世音寺遺構とは別に「東院」伽藍のような遺構は発見されていません。
 このように、『二中歴』年代歴の表記ルールや考古学的事実からも、観世音寺は白鳳年間に創建されたと理解せざるを得ないのです。その上で、今回「発見」した『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事は、こうした理解を支持する史料根拠となるのです。他にも九州年号を用いた年代記に観世音寺創建記事が見つかるかもしれません。更に調査したいと思います。『勝山記』コピーを送っていただいた井上さんに感謝申し上げます。


第294話 2010/11/30

九州国立博物館の「大宰府政庁」

 7世紀後半創建説

 11月27日、母校の久米高専で開催されたバリアフリー研究会で、「北部九州にあった大和朝廷以前の王朝と年号」というテーマで講演しました。古田史学の真髄ともいえる邪馬壹国説や九州王朝説について解説したもので、参加者からは驚きをもって賞讃の意見や熱心な質問が寄せられました。
 参加者の多くは久留米高専の教官やOBなど理系の人々でしたが、久留米市役所・大野城市役所からの参加者や佐賀大学・熊本学園大学の先生も見えておら れ、 業種を超えた同研究会の多彩な顔ぶれを前にしての講演は、わたしにも刺激的な経験となりました。招いて頂いた恩師の鳥井先生を初め関係者の皆さまに感謝申 し上げます。
 翌日、久留米市を後にしたのですが、来春に迫った九州新幹線全面開通に備えてリニューアルされたJR久留米駅の観光案内のフロアで、「九州国立博物館& 太 宰府天満宮」(監修・協力 太宰府天満宮・九州国立博物館・太宰府市・太宰府観光協会)というパンフレット(無料)を手に取ったのですが、そこに興味深い 紹介記事がありました。
 それには写真入りで「大宰府政庁」が紹介されており、その解説として、「7世紀後半、九州の政治の中心地、防衛と外交の拠点としての役割を担って創建された大宰府政庁。」とあったのです。恐らくはパンフレット監修に関わった九州国立博物館の見解に基づいた解説と思われるのですが、一元史観による従来説では、大宰府政庁は8世紀初頭に大宝律令下の役所として創建されたとするものでしたから、明らかに従来説とは異なった解説となっているのです。
 しかも7世紀後半の創建とするのであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京と同時期かそれよりも早い創建となります。さらに、井上信正氏の研究によれば、大宰府政庁よりも太宰府条坊の方が早いことが明らかになっていますから、日本最初の条坊都市は藤原京ではなく太宰府であることを認めたことになるのです。こ のことを意識した上での解説なのかどうかはわかりませんが、太宰府条坊編年の最新研究を地元の九州国立博物館が知らないはずがありませんので、観光案内用と はいえ、このパンフレットは通説に一撃を加える貴重な「宣言」と言えるのではないでしょうか。思わず、「頑張れ、九州国立博物館。九州王朝説まであと一歩 だ」とエールを送りたくなるパンフレットでした。


第288話 2010/10/29

永納山山城を見る

10月23〜24日に四国へ行って来ました。23日は、合田さん(古田史学の会全国世話人)や今井久さん(古田史学の会・四国)のご案内で、永納 山山城を見学しました。四国で発見されたただ一つの神籠石山城とされていますが、今回実見した結果、いわゆる北部九州の神籠石山城との共通点や違いを確認 できました。
考古学界や古代史学界で、神籠石山城の定義が合意形成されているようには思えませんが、おおよそ次のような特徴が指摘できます。
(1)直方体状に加工された列石に囲まれており、その列石上に土塁がある。あるいは、柵なども設置されている。
(2)その列石と土塁の内部に水源があり、列石と水路の交点には石積みの水門がある。
(3)同じく内部に倉庫跡などがあり、「逃げ城」的性格が見て取れる。

永納山山城は列石が切石ではなく自然石であることが、この定義からは外れますが、その他は共通しているようです。従って、あえて定義命名するならば、「自然石利用型」神籠石山城と呼べるかもしれません。しかし、よく考えると「神籠石山城」という名称もあまり学問的論理的名称とは言えないのではないでしょうか。もともと、学界で長く続いた「神域説」と 「山城説」の論争があり、その神域説に基づいた名称が「神籠石」と呼ばれた歴史的背景だったからです(福岡県久留米市の高良山では学界論争以前から「神籠 石」という名称がありました。戦国末期の成立とされる『高良記』に「神籠石」と記されています)。その論争も発掘調査の結果、「山城説」で決着しているの ですから、神籠石山城という名称は論理的に矛盾しているのです。
そこで、より学問的な名称は無いものかと、永納山山城を見ながら考えたのですが、たとえば大野城などのような積石式山城が、「朝鮮式山城」と朝鮮半島の 古代山城との類似から呼ばれていることに倣えば、北部九州式山城と呼ぶのも一案ではないでしょうか。あるいは、九州王朝説の立場を明確にするのであれば、 ズバリ「九州王朝式山城」も良いかも知れません。その形状に着目するのであれば「列石・土塁式山城」というのもイメージしやすくて、考古学的な名称とは言 えないでしょうか。
これらを叩き台にして、まずは古田学派内での合意形成が図れればいいですね。なお、古田先生におたずねしたところ、「神籠石」というのは当て字であり、本来「コウゴイシ」には別の意味があったとされています。いずれ先生から詳しく発表されると思います。


第277話 2010/08/15

太宰府の鬼門

 お盆明けには仕事で関東・新潟 へ出張するので、今日、そのお土産を買いに近所のお漬物屋さん出町野呂本店に妻と二人で行ってきました。その帰り道に「幸神社」と刻まれた石柱に気づき、何と読むのか妻に訊ねたところ、「さいのかみ神社」と呼ばれており、お猿さんの人形があるとのこと。すぐ近くなので寄ってみました。
 小さいがなかなかしっかりとした作りの神社で、北東の角に猿の彫り物が掲げられていました。幸神社はちょうど御所の鬼門(北東)に当たるため、鬼門封じの猿が社殿の北東に掲げられていたのです。
 京都御所の紫宸殿の塀の北東(猿ケ辻)に猿の彫り物が掲げられていることは有名ですが、ここにもあったのです。ちなみに御祭神は猿田彦大神で、天武天皇の白鳳(九州年号)年間に創建されたと案内板に記されていました。更に、ここは「出雲路」という地区で、歌舞伎の「出雲の阿国」もこの付近に住んでいて、幸神社の巫女をしていたことがあるとも記されていました。わたしは「出雲の阿国」はその名前から出雲(島根県)出身と勝手に思い込んでいたので、ちょっと意外でした。
 そしてその帰り道で、ある疑問が脳裏を横切りました。それは、北東を宮殿や都の鬼門とする風習は平安京から始まったのだろうか。もしかすると九州王朝の太宰府でも同様の鬼門守護の風習が先行して存在したのではなかったのか、という疑問です。
 自宅に戻ると早速調べてみました。すると思わぬ大発見に遭遇したのです。京都の鬼門守護の山は比叡山ですが、太宰府も同様に宝満山が鬼門に当たり、その麓と山頂には竃門(かまど)神社が鎮座しています。そして社伝によれば白鳳四年(664)に天智天皇が大宰府政庁守護のために鬼門に位置するこの地に竃門神社を創建したとされているのです。
 一元史観の通説では大宰府政庁(2期遺構)は8世紀初頭の造営とされているのですが、わたしは『二中歴』に記されている観世音寺の創建時期(白鳳年間)と両者の瓦の編年(観世音寺は老司1式、大宰府政庁2期は老司2式)を根拠に白鳳年間頃であると主張してきました。 今回知った竃門神社の現地伝承は通説ではなく、私の説と一致していたのです(第273話「九州王朝の紫宸殿」等参照下さい)。
 白鳳四年(664)に太宰府(九州王朝の都)の鬼門守護として竃門神社が創建されたのであれば、王宮造営もそれと同時期と考えざるを得ないからです。この社伝の出典は調査中ですが、『筑前国続風土記附録』には天智天皇が筑紫下向の時に太宰府に皇居を造り、あわせて鬼門に位置する竃門山(宝満山、御笠山とも言う)の地で八百万神を鎮祭したと記されていますから、白鳳年間に竃門山は鬼門とされていたことになり、社伝と一致しています。
 このように近畿天皇家一元史観による太宰府編年は考古学的にも文献的にも現地伝承からも完全に否定されていることが、一層明かとなったのでした。今後の課題としては、竃門神社でも京都と同じようにお猿さんが王都守護しているのか確認したいと考えています。現地の人でご存じの方がおられれば、御教示いただ けないでしょうか。


第273話 2010/07/31

九州王朝の紫宸殿

 今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」された西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名について、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)が考察を進められています。今日も何度がお電話をいただき、九州王朝の紫宸殿についてわたしの見解を申し上げました。
 そこでの主なテーマは、九州王朝はいつから自らの天子の宮殿を紫宸殿と称するようになったか、ということでした。下限ははっきりしています。大宰府政庁跡に現存する字地名「紫宸殿」の時代です。大宰府政庁第2期遺構が九州王朝の紫宸殿に相当しますから、その時期は太宰府条坊成立よりも後の7世紀後半です。もう少し厳密に言うならば、老司1式瓦が出土した観世音寺創建よりもやや後れる頃、恐らくは白鳳年間(661−683)以後と推定しています(大宰府政庁2期は老司2式瓦が主)。『二中歴』によれば観世音寺の建立は白鳳期とされているからです。
 ですから、7世紀第4四半期頃には九州王朝は大宰府政庁遺構を紫宸殿と称していたと推定できます。それではそれ以前はどうだったのでしょうか。わたしが九州王朝の副都としている前期難波宮にも紫宸殿と呼ばれる宮殿があったのではないかと考えています。
 九州年号の白雉改元(652年)の儀式の様子が『日本書紀』では2年溯った650年に記されていますが、前期難波宮で行われたと考えられる白雉改元の儀式において、その宮殿の門が「紫門」と記されています。中国では天子の位を「紫宸」とし、その宮殿を紫宸殿とすることが『旧唐書』などに見えますから、「紫」は天子を表す色であり、「紫門」は天子の宮殿の門のことであり、とすればその奥にある天子の宮殿は紫宸殿と称された可能性が高いように思われます。
 更に言えば、前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。
 このように、九州王朝の紫宸殿は副都である前期難波宮が初めてではないかと考えていますが、いかがでしょうか。


第262話 2010/05/08

大野城築城の時期

 第260話などで紹介しました赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、さすがに現地の専門家らしく、参考にすべき知見が数多く含まれた示唆的な論文でした。
 たとえば、大野城の築城時期についても、出土した「孚石部」刻銘木柱が年輪年代測定から最外層が648年であり、伐採年もその付近と考えられ、従って大 野城築城時期も『日本書紀』記事の664年(天智4年)よりも溯ることを考慮すべきとされています。
 なかなか鋭い指摘と思われました。もっとも、わたしは大野城の築城開始時期はもっと早いと考えていますが、「孚石部」刻銘木柱の年輪年代測定結果を知りませんでしたので、赤司氏の指摘も参考にすべきと思いました。
 なお、「孚石部」刻銘は「孚石都」である可能性が高いと思うのですが、この「孚石都」の字義については、故飯田満麿さんの優れた考察があります。「大野城太宰府口出土木材に就いて」(『古田史学会報』75号2006年8月)という論文です。当ホームページにも掲載されていますので、この機会にご一読いただければ幸いです。
 このテーマ以外にも赤司論文には、大宰府政庁1期下層の整地層に6世紀後半〜末頃の土器が多く含まれていたことも紹介されています。赤司氏はその時代の 古墳群や丘陵が切り崩され、整地層に混入したためとされていますが、単純に考えれば、6世紀後半〜末頃の土器を多く含んだ整地層の上に大宰府政庁1期が立 てられたのなら、その建てた時期は7世紀初頭と考えるべきではないかと思います。太宰府条坊都市=倭京の建都を九州年号の倭京元年(618年)とする、あ るいは九州年号の定居(611−617)年間に整地したと考えれば、わたしの説にピッタリですが、いかがでしょうか。


第260話 2010/05/05

一元史観からの太宰府「王都」説

 わたしが注目した『古代文化』2010年3月VOL.61に掲載された赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、良く読むと最終的に主張したい結論が明確には記されていません。しかし、「朝倉橘廣庭宮の記憶」というサブタイトルに示されているように、従来通説では天智の頃とされていた大宰府政庁1期の遺跡(正確には1−1期)を斉明天皇の頃へと時代を引き上げようとされているのです。その論拠の一つとして井上信正説を「大変魅力的な説」として紹介されたのです。
 しかも、赤司氏の狙いはそれだけには留まっていません。大宰府政庁1−1期を斉明天皇の朝倉橘廣庭宮に関係するものと位置付け、従来朝倉市とされてきた朝倉橘廣庭宮の比定地に対して、大宰府を朝倉橘廣庭宮とする説や史料の存在にも触れ、あたかも大宰府が朝倉橘廣庭宮であるとしたいような筆致が見られます。恐らくは続稿ではそこまで進まれるのではないかと、わたしは予想しています。
 そのことは次の文からもうかがえます。斉明天皇の筑紫行きに対して「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。政庁1−1期の建物は、この遷都と何らかの関係があったとみられる。」とされ、更には「その軍事的な中心であった大野城の南麓に大宰府の官衙が威容をなす景観の出現を想像すると、その磁場の中心が筑紫大宰と解することにいささかの躊躇を覚える。」と、水城や山城に防衛された城塞都市太宰府を一地方長官の筑紫大宰の役所とすることに「躊躇」を示されています。そして、「7世紀末に筑紫大宰が、現在地で確立されたことは認められるが、溯って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」とまで述べられているのです。
 「核心的存在に相応しい権力の発現」とはすごい表現だとは思いませんか。大和朝廷一元史観にとっての「核心的存在に相応しい権力」とは大和朝廷の天皇のこと以外にあり得ません。その「発現」が城塞都市太宰府だと言われているのです。すなわち、太宰府建設の基本計画は大和朝廷の天皇のための「王都」建設だと言っているのと同じなのです。ですから、先に紹介した「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。」などという表現が用いられているのも理由があったのです。
 わたしには赤司氏や太宰府当地の研究者が、こうした見解、太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至らざるを得ない理由はよくわかります。列島内に類例を見ない巨大防衛施設の水城、そして太宰府を取りまくように配置されている山城群(大野城・基肄城・阿志岐山城)を日夜目にしている現地の研究者であれば、その地が抜きん出たただならぬ地であることは一目瞭然だからです。
 たとえば、九州歴史学の重鎮、田村圓澄氏も率直に次のような疑問を呈されていました。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁1期の頃:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 太宰府現地の研究者が太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至ろうとしていることは学問的にも歴史的にも画期的な動きです。何故なら、太宰府「大和朝廷の王都」説は九州王朝説とほとんど紙一重の距離にまで近づいているからです。太宰府が大和の天皇のための都か、現地九州の天子のための都かという、その一線を越えられるか否かの位置にある仮説なのです。
 天動説から地動説へ移り変わった時代と同じように、大和朝廷一元史観から九州王朝・多元史観への一線を、勇気ある研究者が自らの良心に従い飛び越えようとする歴史的瞬間を間近にした時代をわたしたちは生きているのです。