史料批判一覧

第2452話 2021/05/08

水城の科学的年代測定(14C)情報(2)

 水城の第35次発掘調査(2001年)で発見された敷粗朶層のサンプルの炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)でした。最上層と坪堀とでは約200~400年の差があることから、「調査報告書」(注①)には、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。その追加測定が既に実施されており、報告書(注②)も出されていたことを知りましたので紹介します。
 水城には東西二つの門があり、その西門付近北東側が平成十九年(2007年)の第40次調査で発掘されました。そこから敷粗朶の木片と炭化物が採取され、14C年代測定が行われました。それらの暦年較正年代(1σ)は、共に675~769ADの範囲に含まれることがわかりました。そして、報告書には次のように説明されています。

 「記録では水城の建設は664ADとされているので、堤体基底部の敷粗朶の年代値がこれより21年以上新しい理由として、1)年代値は30年程度の誤差を持っている、2)664AD以降も建設が行われた、3)678ADの筑紫地震で水城堤体が部分的に崩壊しその跡を修復した、の3つが考えられる。この年代値の暦年較正年代グラフは時間軸に対する傾きがゆるく変動幅が大きく出やすいことから、1)の可能性が強いと考えられる。」『水城跡 ―下巻―』(注③)

 このように考察され、『日本書紀』天智三年是歳条(664年)の水城築城記事と矛盾しないと判断されています。すなわち、前回紹介した第35次調査での敷粗朶最上層の測定中央値660年と同様の年代観が示されたわけです。
 次に、第38次調査(2004年)に出土した木杭の外皮と、比較検討のため第35次調査(2001年)で出土した植物遺体(粗朶1点、葉2点)3点が測定されています。第38次調査は西土塁丘陵付近の調査で、丘陵取り付き部に版築状積土が確認されました。その積土層の下層から1条の杭列が出土し、そこから採取した木杭の外皮ですから、ほぼ伐採年を測定できる理想的なサンプルです。それら4サンプルの暦年較正年代(1σ)は、木杭(38次調査、外皮)がcalAD777~871年、粗朶(35次調査)がcalAD540~600年、葉calAD653~760年、葉calAD658~765年と報告されています(注④)。
 木杭(38次調査、外皮)の測定値が8世紀後半~9世紀後半を示していることから、水城西端部修築時の木杭と思われます。『続日本紀』天平神護元年(765年)三月条に「修理水城専知官」任命記事が見えますから、水城修理の痕跡ではないでしょうか。
 比較用に測定された第35次調査の粗朶は、天智三年(664年)の水城築城記事よりも100年ほど古い値ですので、使用された敷粗朶に古いものもあったことをうかがわせます。葉2点の測定値は7世紀後半築造を示すものです。
 以上のように、今回紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持するものと思われます。

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
③同②、259頁。
④同②、328~329頁。

※1σ(シグマ)とは、ばらつきの幅に関する数学的定義で、ある測定値のばらつきが正規分布する場合、その約68%が収まる区間を1σとする。すなわち、1σ区間に収まる確率が約68%であることを意味する。


第2450話 2021/05/06

「倭王(松野連)系図」の史料批判(12)

 ―系図を伝えた松野氏の多元的歴史観―

 本テーマの最後に、「倭王(松野連)系図」を伝えてきた松野氏の歴史認識について考察します。
 「倭王(松野連)系図」の特徴は次のような点で、こうした祖先の系譜と伝承を歴代の松野氏は「是」として伝えてきたということが、フィロロギーの視点からは重要です。

(1)呉王夫差を始祖とする一族が日本列島に渡来し、あるときから火国(肥後)に土着した。
(2)その祖先には『日本書紀』景行紀に記された人物(厚鹿文、取石鹿文、市鹿文、他)がいた。
(3)その後、『宋書』に記された「倭の五王」「倭国王、哲」らが続く。
(4)更に、7世紀中頃になると筑紫の夜須評督になり、7世紀後半には松野連姓を賜った。
(5)8世紀には、律令官僚として大和朝廷に仕えた(注)。

 概ね、以上のようです。自家の系図を造作するときは始祖を近畿天皇家や藤原鎌足などの歴史上の権威者にすることはよくあるのですが、松野氏の場合は中国の周王朝に繋がる呉王夫差を始祖とし、近畿天皇家との繋がりは全く見られません。他方、『宋書』に見える「倭の五王」やその次代の「哲」に「倭国王」と傍注を付けて、自らを倭国王の裔孫としています。これは不思議な現象で、この系図を伝えてきた歴代の松野氏は、近畿天皇家と「倭の五王」「倭国王、哲」を別の家系と認識していたことがわかります。このような歴史認識が松野氏内に連綿と続いていたわけで、これはとても珍しい多元的歴史認識ではないでしょうか。
 このような「倭王(松野連)系図」が示す歴史認識は、近畿天皇家の時代の8世紀以後、『日本書紀』成立以降に造作できるものではありませんし、そのメリットもありません。ですから、こうした〝多元史観の系図〟を伝えた松野家は、ある時代までは九州王朝の歴史的存在を記憶していたと考えざるを得ないのです。その意味でも、研究に値する貴重な系図と言えるのではないでしょうか。(おわり)

(注)同系図には、8世紀の人物「弟嗣」「楓麿」の傍注に「従七位下」「外従七位上」などの律令制官位が見えることからも大和朝廷の官人だったことがわかる。


第2443話 2021/04/28

「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)

 ―倭人伝に周王朝の痕跡―

 古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
 この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。

 「『大夫』については、倭人伝中に
  古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
 とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
 ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁

 この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。

 「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九

 成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
 更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
 こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)

(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
 「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
 「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。


第2442話 2021/04/26

「倭王(松野連)系図」の史料批判(8)

  — 始祖「太伯」説の史料と論理

 『記紀』神話とは異なり、九州王朝・倭王の始祖を周の太伯やその子孫の呉王夫差とする伝承は、国内史料としては「倭王(松野連)系図」の他に、その一端を示す『新撰姓氏録』があります。また中国史料としては、『翰苑』や『翰苑』に引用された『魏略』があり、正史の『晋書』『梁書』もあります。次の通りです。

○「松野連 出自呉王夫差也」『新撰姓氏録の研究』右京諸藩上
○「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
○「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
○「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
○「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 ここで注目されるのが、中国側史料すべてに倭人の風俗として「文身」(いれずみ)が見えることです。特に『翰苑』に引用された『魏略』の記事は重要です。
 『魏略』は『三国志』と同時期に成立した史書であることから、両書は倭国を訪問した魏使の報告書に基づいて記されたと考えられます。そうすると、『三国志』倭人伝には倭王の始祖伝承は記されず、『魏略』は太伯を始祖とする倭人の伝承を記したということになります。これは両書の編纂方針の差によると考えざるを得ませんが、それが何なのかは未詳です。もしかすると、『三国志』の著者陳寿は、倭人の始祖伝承を信ずるに足らずとして、採用しなかったのかもしれません。
 しかし、『魏略』に採用された倭人の始祖伝承は、史実かどうかは別にしても、当時の倭国がそのように認識しており、そのことを魏使に伝えたということは否定し難いのではないでしょうか。わたしは、この始祖伝承は歴史的背景を持つもので、一定の真実を秘めているのではないかと考えています。(つづく)


第2440話 2021/04/22

「倭王(松野連)系図」の史料批判(7)

 ―祖先は天照大神か太伯か―

 多元史観・九州王朝説を支持する、わたしたち古田学派の研究者が「倭王(松野連)系図」を扱いにくかった理由として、史料批判の難しさがありましたが、より根源的には倭王の始祖を呉王夫差とする同系図の基本姿勢が、九州王朝の祖神を天照大神とする古田説と相容れなかったことにあります。すなわち、天孫降臨による〝建国〟なのか、中国からの移動による〝転国〟なのかという歴史の大枠に対する理解の問題があったのです。
 この問題は国家権力側にとっても、自らの権威の正統性にかかわる重要問題です。大和朝廷は『古事記』『日本書紀』で主張しているように、天照大神による「天壌無窮の神勅」(注①)による天孫降臨を自らの権威や支配の正統性の根拠としています。他方、日本の神々や皇祖と異国の君臣が混雑した系図系譜を厳しく取り締まっていることが『日本後紀』(注②)に記されています。

 「勅、倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輙謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進。若有挾情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。」『日本後紀』平城天皇大同四年(809年)二月五日条

 天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されている『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されています。この『倭漢惣歴帝譜図』の始祖伝承は、呉王夫差や太伯を始祖とする「倭王(松野連)系図」や『晋書』『梁書』の記述とは倭漢の関係性が真逆です。このような例もあることから、呉王夫差を始祖としながら、九州王朝の「倭の五王」へと繋がる「倭王(松野連)系図」の信頼性(史実性)を調べる作業、すなわち史料批判は困難を窮めるのです。(つづく)

(注)
①『古事記』「上巻」に次の記事がある。
 「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。」
 『日本書紀』「神代下 第九段(一書第一)」に次の記事がある。
 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌と窮(きわま)り無けむ。」
②『日本後紀』は『続日本紀』に続く正史で、六国史の第三にあたる。成立は承和七年(840年)で、延暦十一年(792年)から天長十年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。全40巻(現存10巻)。


第2439話 2021/04/21

「倭王(松野連)系図」の史料批判(6)

 ―「呉王夫差」始祖伝承の痕跡―

 前話に於いて、「倭王(松野連)系図」の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたとしました。次に、同系図のもう一つの主張、「呉王夫差」始祖伝承について検討します。
 鈴木真年氏の稿本「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」(注①)の冒頭部分には次の人物名が並びます。

 「夫差《呉王》 ― 公子慶父忌 ※― 阿弓《怡土郡大野住》 ― 宇閇《》 ― (後略)」《》内は傍注。
 「※― ○ ― ○― (中略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され、「阿弓」へと繫ぐ。)
 「※― 順《》 ― (八代略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され九代続き、同系図の「卑弥鹿文」の子供の位置に繫ぐ。)

 このように鈴木真年氏の稿本には複数の所伝が書き込まれており、複数の「松野連系図」に基づいて、異伝も加筆書写された姿を示しているようです。このことから、同系図のいずれかが現代も御子孫に伝わっている可能性があります。全国の松野姓の分布状況などを調査すれば、系図をお持ちの御子孫が見つかるのではないでしょうか(注②)。
 鈴木真年氏と親交のあった中田憲信氏による稿本「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」(注③)の冒頭部分は次のようです。

 「松野連 姫氏
 呉王夫差 ― 忌《字慶父》《孝昭天皇三年来朝 住火国山門菊池郡》 ― 順《字去□》《居于委奴》 ― 恵弓 ― (後略)」 《》内は傍注。□の字は、わたしの持つコピーからは読み取れない。

 鈴木真年氏の稿本とは異なっており、別の異本によるのかもしれません。しかし、呉王夫差を始祖とする点は同じですから、九州王朝内にこうした伝承を持ち、それを誇る氏族がいたと考えられます。このことを示唆する史料が中国史書にあります。唐代に成立した『晋書』と『梁書』です。

 「(前略)男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身(顔や身体に入墨)している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。(後略)」『晋書』倭人伝

 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身(入墨)がある。(後略)」『梁書』倭伝

 『晋書』は3~5世紀の西晋・東晋、『梁書』は6世紀の梁を対象とした史書ですが、その著者は『晋書』が房玄齢(578~648年)、『梁書』が姚思廉(?~637年)。成立は『晋書』が648年、『梁書』が629年です。この7世紀前半に成立した両書に、「呉の太伯の後裔」記事が現れ、倭国からもたらされた情報であると記されています。
 史書ではありませんが、同じく唐代成立の『翰苑』(注④)の「倭国」条にも次の記事が見え、同条に引用されている『魏略』(注⑤)にも「自謂太伯之後」の記事があり、それによれば同伝承史料の存在が3世紀まで遡ることになり、注目されます。

 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」

 「(前略)自帯方至女國万二千余里。其俗男子皆黥而文。聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 これらの中国(唐)側の認識に対応しているのが、「倭王(松野連)系図」に記された〝主張〟です。同系図に遺された始祖伝承と通じる伝承(注⑥)が、7世紀前半成立の『晋書』『梁書』に記されていることから、同伝承の成立が7世紀前半以前であることがわかります。このことも、同系図の始祖伝承が後代の造作ではないことを指示しています。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、1頁。
②例えば、柿本人麻呂の御子孫「柿本氏」が佐賀県に分布しており、人麻呂を含む同氏の系図が伝わっている。その内の一つのコピーを古田先生からいただいている。機会があれば「洛中洛外日記」でも紹介したい。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、4頁。
④唐代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は、日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
⑤中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢(ぎょかん)。成立年代は魏末から晋初の時期と考えられている。
⑥呉は中国の春秋時代に存在した国の一つで、国姓は姫(き)である。周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国とされ、紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。従って、「倭王(松野連)系図」で始祖を呉王夫差とすることは、太伯を始祖とすることにもなる。


第2438話 2021/04/18

「倭王(松野連)系図」の史料批判(5)

 ―傍注「評制」記事の証言―

 「倭王(松野連)系図」に記されている傍注記事中に「評」や「評督」が見え、同系図の成立過程の一端をうかがうことができます。先に同系図傍注に次の評制(評督)記事があることを紹介しました(注①)。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
    ※「 」内は人物名。《》内はその傍注。

 これは7世紀頃の人物に付記されたもので、7世紀後半が評制期であることがわかっている現代のわたしたちにとっては当然の表記です。しかし、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に伴い、8世紀から郡制に変更となります。この郡制は近代まで続いており、歴史学上の〝郡評論争(注②)〟以前の人々(系図蒐集者の鈴木真年を含む)には、そもそも評制という歴史概念さえありません。ですから後代(郡制の時代)において、「評」を「郡」に書き換えることはできても、「評」への改変造作は不可能なわけです。従って、同系図に見える「評制」記事は、7世紀後半時点であれば執筆可能な表記であり、すなわち、その記事原文は九州王朝時代に成立した可能性が高いのです。遅くとも、「評」の記憶が系図編纂者に残っている時代の成立と考えざるを得ません。
 こうした視点に立ったとき、同系図の次の傍注にわたしは着目しました。「倭の五王」の三世代前の「宇也鹿文」という人物の傍注です。

 「火国菊池評山門里住」(注③)

 「倭の五王」の三世代前なので、3世紀末から4世紀初頭に相当しますから、地名表記として「火国」は妥当ですが、「菊池評」という評制期の行政区画は存在しません。従って、この傍注は7世紀後半に成立したと考えられます。こうした史料状況により、少なくとも「宇也鹿文」から「牛慈」「長堤」までの系図部分は7世紀後半に成立したと考えることができます。同時に、このような「評制期」記事の後代造作は困難であるため、歴史事実を反映した傍注記事を持つ系図としての評価が可能です。
 こうした理解により、同系図の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたことになります。この理解は、「倭の五王」が近畿ではなく、北部九州(少なくとも肥後から筑後に至る範囲)を拠点とする王権(倭国)であったことを強く示唆します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟。
②7世紀以前の行政区画名が『日本書紀』に見える「郡」とするのか、金石文や古代史料に遺る「評」とするのか、戦後の日本古代史学界で続いた学問論争。出土木簡などにより、650年頃から700年までは「評」、701年からは「郡」であることで決着した。古田武彦先生は、評制を九州王朝(倭国)が制定したものであり、王朝交替により大和朝廷が郡制に変更したとした。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、63頁。「火国菊池評山門里」は熊本県菊池市付近が対応する。『和名抄』に「肥後国菊池郡山門郷」が見え、古代に遡る地名であることがわかる。


第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌


第2379話 2021/02/13

多賀城碑「東海東山節度使」考(4)

―田中巌さんの〝東の国界〟説―

 多賀城碑文の里程距離の齟齬、すなわち多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」と「下野國界」が、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっている問題について、古田先生はそれら里程を両国の〝西の国界〟までの距離とする理解により、距離が妥当になるとする説を『真実の東北王朝』(注①)で発表されました。この古田説に対して、わたしは違和感を抱いてきたのですが、それに代わる仮説を提起できないでいました。そのようなときに田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)による新説(注②)が発表されたのです。
 わたしが理解した田中説(〝東の国界〟説)の要点と論理性は次の通りです。

(1)多賀城から「常陸國界」と「下野國界」への古代官道実距離を求めるにあたり、直線距離や新幹線・高速道路でもなく(非現実性の排除)、複数のルートがある自動車道路でもなく(ルート選択における恣意性の排除)、地方都市を経由しながら進むJR在来線の路線距離を採用した。

(2)それに基づいて、次の距離を算出した。※1里を550mとする(注③)。
○多賀城(国府多賀城駅)から常陸國界(常陸大子駅)までの距離223.6km(406里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→水郡線常陸大子駅〔勿来関より内陸で南へ入る〕
○多賀城(同上)から下野國界(須賀川駅)までの距離148.4km(269里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→在来線須賀川駅
○多賀城(同上)から京(奈良駅)までの距離862.6km(1568里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→東京駅→中央線塩尻駅→名古屋駅→奈良駅

(3)上記(2)の計算里数が碑文の里数と対応している。古田説(〝西の国界〟説)では、「常陸國界」「下野國界」までは1里が約1km、「京」までは約0.5kmとなり、里単位に統一性がない。

《碑文里数》     《田中説による計算里数》
「常陸國界四百十二里」   406里
「下野國界二百七十四里」  269里
「京一千五百里」     1568里

 以上のように、田中説は客観性が担保され、構成論理に矛盾がない唯一の仮説であり、現状では最有力説とわたしは考えています。従って碑文にある「西」の字は、京やこれらの国々(蝦夷國、常陸國、下野國、靺鞨國)が多賀城の「西」にあるということを示しているわけで、そうした理解が最も単純で、碑文を読む人もそのようにとらえると思われるのです。
 また、碑文後段に記された藤原朝獦の官職名が「東海東山節度使」とあることは、東海道・東山道の奥(道の奥)まで東へ東へと侵攻したことを示しているのですから、出発地の「京」を含めて途中の通過地(注④)は多賀城の西にあることを「西」の字は示しているとするのが最も平明な碑文理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
③奈良時代の一里は535mと復原されており、田中説で採用された550mに近い。このことは田中論稿「多賀城碑の里程等について」で紹介されている。
④この場合の「西」とは大方向としての「西」とする古田先生の理解が妥当と思われる。なお、通過地ではない「靺鞨國界三千里」が碑文に記されている理由については今後の研究課題であるが、藤原朝獦にとって何らかの必要性があったのではあるまいか。


第2372話 2021/02/07

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(5)

 『史記』天官書には、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」を総称した「五官」の他に、「官」の字を使った「員官」という用語が二カ所に見えます。その一つは「南宮」の記事中にある次の文です。

 「七星は頸(くび)にして、員官と爲し、急事を主(つかさど)る。」『新釈漢文大系 史記 四』(注①)150頁

 同書の通釈では、「七星は朱鳥の頸で員官として天庭の危急事をつかさどる。」(151頁)とあります。

 『史記会注考証』(注②)には次の引用と考証があります。

 「七星、頸爲員官、主急事。〔索隠〕七星頸爲員宮主急事、案宋均云、頸、朱鳥頸也、員宮、喉也、物在喉嚨、終不久留、故主急事也、〔正義〕七星爲頸、一名天都、主衣装文繍、主急事、以明爲吉、暗爲凶、金火守之、國兵大起、〔考證〕梁玉縄曰、案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、王先謙曰、辰星下云、七星爲員官、則作官者是、査愼行曰、頸*[口素]羽翮四字、多従鳥義、」『史記会注考証 四』20頁

 ここに引用された〔索隠〕〔正義〕とは、唐の司馬貞の『史記索隠』、唐の張守節による『史記正義』のことです。〔索隠〕には「員宮」とあり、「員官」ではありません。もしこの「員宮」が誤写誤伝でなければ、唐の司馬貞は「員宮」と書かれた『史記』を見たのかもしれません。このことについて〔考證〕では、清代の儒学者梁玉縄の「案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、《案ずるに、宮の字を官と作るは譌(あやまり)なり、「索隠」では宮と作る、漢以後の志(ふみ)は皆然(しか)り》」という説を紹介しています。すなわち、「原文」にある「員官」は誤りであり、『史記索隠』のように「員宮」とするのが漢代以後の用語であるとする説です。他方、清代末の儒学者王先謙(注③)の「七星爲員官、則作官者是《七星爲員官、則ち官と作るは是(ぜ)なり》」とする説も紹介しています。
 このように、天官書には「五官」だけではなく、「員官」についても「官」の字を「宮」とする説がありました。そしてそれは唐代にまで遡る可能性があり、清代に至っては諸説論じられていたことがわかりました。(つづく)

(注)
①吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
②滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932年~1934年。
③王先謙について、ウィキペディアに次の解説がある。
 王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年~1917年)。字は益吾。清末の儒学者・郷紳。葵園先生と呼ばれた。
 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、考証学者の阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、嶽麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。ただし改革自体には反対しておらず、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。
 著作『漢書補注』『水経注合箋』『後漢書集解』『荀子集解』『荘子集解』『詩三家義集疏』。

*[口素]:口偏に旁は「素」の字。


第2370話 2021/02/06

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(4)

 『史記』天官書「原文」には「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」とあるのですが、それら五つを総称したものが「五官」であるとその末尾に記されています。次の文です。

 「故に紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危・列宿の部星は、此れ天の五官の坐位なり。」吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)、215頁

 天官書には、紫宮は中宮、房・心は東宮、権・衡は南宮、咸池は西宮、虚・危は北宮とありますから、これらの総称は「五官」ではなく、「五宮」とあるべきところです。そのため、明治書院版『史記』には「五官」は「五宮」の誤りとする次の注があります。

○五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 ここに見える(考証)とは『史記会注考証』(注①)のことで、わが国における『史記』研究の基本文献の地位を占めている優れた注釈書です。そこで、同書を調べることにしました。幸いにも、閲覧できるwebサイト(注②)があり、そこには次の引用と考証が記されていました。

 「列宿部星、此天之五官坐位也。〔正義〕五官列宿部内之星也、〔考証〕猪飼彦博曰、篇中唯此字未訛、方苞云、官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也、」『史記会注考証 四』93頁

 ここで引用された〔正義〕とは、唐の張守節による注釈書『史記正義』のことで、六朝・宋の裴駰(はいいん)の『史記集解』(しきしっかい)、唐の司馬貞の『史記索隠』の注釈とを合わせて『史記』の三家注と呼ばれている有名な注釈書です。その『史記正義』を引用した後、著者滝川亀太郎氏の考証が続きます。
 その考証冒頭には、江戸時代末期の学者猪飼彦博(注③)の説として「篇中唯此字未訛」(篇の中に唯此の字を未だあやまらず)を引用し、次いで中国清代の儒学者方苞(注④)の説「官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也」を引用しています。このように滝川氏は「五官」は「五宮」の誤りとする説を考証で紹介しているわけです。
 これら一連の解説から、唐代の『史記正義』には「五官」とあり、清代の儒家方苞は「五官」を誤りとして「五宮」が正しいと認識していたことがわかります。前話で紹介した、清代の儒家孫星衍の『史記天官書補目』(注⑤)では「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」と『史記』天官書「原文」を改訂(宮→官)していることから、末尾の「五官」の部分はそのままでよいと判断していたのではないでしょうか。このように、清代でも「官」と「宮」について諸説出されていたわけですから、西村さんやわたしの疑問には先例があったわけです。(つづく)

(注)
①滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932~1934年。
②「臺湾華文電子書庫」https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/book/NTUL-0272410/reader
③猪飼敬所(いかい けいしょ) 宝暦11年(1761年)~ 弘化2年(1845年)は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国
出身。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。
④方苞(ほう ぼう)1668年~1749年は、中国清代の儒学者・文人・政治家。字は鳳九、号は霊皋、晩年には望渓と号する。著作に『史記注捕正』などがある。
⑤孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。


第2369話 2021/02/05

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(3)

 『史記』天官書の「中宮」「中官」問題を調査した結果、現在の流布刊本の「原文(漢文)」はいずれも「中宮」とあるため、投稿原稿に『史記』からの引用として「中宮」と表記することは妥当で有り、そのまま掲載しても差し支えないと西村さんに報告しました。原稿採否審査としてはこれで一件落着なのですが、わたしの中ではなぜこのような史料状況が発生したのかという疑問を払拭できないため、西村さんとも意見交換し、自らの勉強にもなるので、『史記』天官書の調査と史料批判を試みることにしました。
 京都府立図書館での調査時も、同様の疑問により史料批判・版本調査の必要を感じていたところ、いつもお世話になっている図書館員の方が一冊の小冊子を書庫から探し出して、「わたしには読めませんが、何か関係はないでしょうか」と『史記天官書補目』(注)なる本を見せていただきました。
 同書は、『史記』天官書に見える用語がどの星座や星に相当するのかなどを記した説明書のような性格の本でした。そして、その説明の冒頭に「中官」と小見出しがあり、「中官」に位置する星座・星の説明(星の数や位置など)が続いています。更にその後に「東官」「西官」「南官」「北官」の小見出しと共に同様の解説が続きます。従って、同書は『史記』天官書について、平凡社版『史記』と同様の表記になっているのです。すなわち、日本の平凡社版だけではなく、中国清代の解説書にも「中官」を採用するものがあったのです。それでは『史記』の原文は本来はどちらだったのでしょうか。わたしの学問的探究心はますますかき立てられていきました。(つづく)

(注)孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。冒頭の著者名部分には「清 陽湖孫星衍撰」とあり、同書成立は清代のようである。
 著者の孫星衍について、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 孫 星衍(そん せいえん、1753年-1818年)は、中国清の官僚・学者。字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県の出身。その著書『尚書今古文注疏』は『尚書』に関する清朝考証学の集大成として知られる。
《生涯》
 曾祖父に明末の礼部代理尚書の孫慎行。孫子の遠い子孫であると自称している。
 1787年に榜眼の成績で進士に及第した。1795年から山東省兗沂曹済道の道員の官についた。1799年に母の喪のために故郷に帰り、浙江巡撫であった阮元の招きにより、杭州の詁経精舎で教えた。三年の喪があけると山東に戻った。1807年に権布政使に昇任し、1811年に病気のため辞任した。
 孫星衍は詩人としても優れ、袁枚は「天下の奇才」と呼んだ。孫星衍は1771年に結婚し、妻の王采薇も詩をよくしたが、わずか24歳で病死した。王采薇の詩集である「長離閣集」は孫星衍の『平津館叢書』に収められている。
《著作》
 孫星衍の代表的な著書は『尚書今古文注疏』30巻で、1794年に作業を開始し、1815年に完成した。閻若璩以来、古文尚書と呼ばれるものが後世の偽作であることが明かになっていたので、古文の部分は『史記』をはじめとする書籍から本来のテキストを復元し、漢代以来の注を集め、さらに疏を加えたもので、現在も『尚書』研究上の重要な文献である。ほかに、『孫氏周易集解』、『孔子集語』、『寰宇訪碑録』などの著書がある。
 孫星衍は蔵書家でもあり、多くの書物を校訂・出版した。孫星衍が編集した叢書に『平津館叢書』・『岱南閣叢書』がある。