史料批判一覧

第594話 2013/09/12

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(4)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の歴史・位置・地勢が明確に書き分けられており、当時の唐の官僚たちは日本列島に倭国と日本国が存在したという認識を持っていたことを疑えません。そして、そうした情報を唐の官僚たちは、日本列島に派遣した使者や、日本列島からの遣唐使から得たことも 疑えません。更には歴代中国史書の記録も参考にしたことでしょう。そこで、最後のテーマとして『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記されている倭国と日本国の人 名について検討してみることにします。
 倭国伝にはただ一ヶ所だけ次のように人名が記されています。

 「その王、姓は阿毎氏なり。」

 『隋書』に記されている「阿毎多利思北弧」の「阿毎」です。近畿天皇家の歴代天皇の姓が「阿毎」だったという記録は『日本書紀』や『古事記』には見られず、近畿天皇家とは別の「王」と考えざるを得ません。
 日本国伝になると、逆に「王」の名前は記されずに、次のような遣唐使の人名が記録されています。

 長安三年(703) 大臣朝臣真人(粟田朝臣真人)
 開元(713~741)の初 朝臣仲満(阿倍仲麻呂)
 貞元二十年(804) 学生橘免勢 学問僧空海
 元和元年(806) 高階真人(高階遠成)

 このように日本国伝にはわが国の国史に残る著名な人物が登場していることから、この日本国が近畿天皇家の王朝であることは自明です。他方、肝心の天皇家の姓や名前を記さないという史料状況は不思議です。この点、これからの研究テーマとなるでしょう。
 こうした日本国伝の人名記事もすべて701年以後の記録として登場することは重要な問題点です。すなわち、九州王朝から近畿天皇家へと列島の代表者が交代した「ONライン」以後に近畿天皇家の人物名が日本国伝に記録されていることとなり、この点も古田説と見事に一致するのです。
 その点、701年以前の九州王朝を対象とした倭国伝に倭国からの遣唐使の人名が記載されていないという史料事実も注目されます。『旧唐書』編纂時にそれらの記録が散逸して残っていなかったという可能性もあるかもしれませんが、『旧唐書』編纂方針に関係するのかもしれません。この点も、今後の研究課題で す。
 以上四回にわたり、『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の解説を行ってきましたが、より本格的な史料批判、すなわち『旧唐書』全体に登場する「倭国」と「日本国」の全数調査に基づいた研究が必要です。既に古田先生が多くの著書で論究されているところですが、先生に続く古田学派の研究者の登場が待たれます。


第593話 2013/09/11

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(3)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の位置や地勢情報が記されています。次の通りです。

(倭国)
 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。」「四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する。」

 ここでのキーポイントは「新羅東南の大海の中にあり」「山島に依って居る」「四面に小島」というように、倭国が「島国」 であることが明確に認識されていることです。「新羅東南の大海の中」という概略だけでは倭国が九州島なのか近畿なのかは断定しにくいのですが、「山島」で あり、「四面に小島」があるということから、倭国は九州島と考える他ないのです。なぜなら、近畿とするならば「本州島」が明確に「島」と断定されるために、津軽海峡の存在が当時の倭国や唐に認識されていなければなりません。しかし、そのような痕跡は見あたらず、やはり倭国は島国である九州島という選択肢 が最有力なのです。あえて言えば、四国も「島国」として候補地になりそうなのですが、四国の南側に「小島」があるとは言いにくいので、「四面に小島」とい う記述には合致しません。これが九州島であれば、問題なく「四面に小島」があるという表現に適応するのです。

(日本国)
 「その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。」「その国の界、東西南北各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。」

 日本国の場合は島国の倭国とは異なり、西と南は大海だが、東と北は大山があり、その先は倭人ではなく「毛人の国」と記されています。『旧唐書』東夷伝には「毛人国伝」はありませんから、この「毛人国」と唐は正式な国交がなく、情報も限られていたと想像されます。また、「そ の国日辺にある」という記述から、日本国は倭国よりも東に位置していることも推定できます。こうした点から、この日本国の地勢記事は近畿がふさわしいものとなります。より正確に言えば、関東もその候補になりえます。あるいは、当時の唐の認識としての日本国は近畿や関東を含む領域としていた可能性もありそうです。
 以上のように『旧唐書』に記された倭国と日本国の位置や地勢記事は、両者は明らかに別国という認識に基づいており、倭国は島国(中心領域)としての九州王朝であり、日本国は近畿地方の天皇家の王朝と見なされるのです。この史料事実も古田先生の多元史観・九州王朝説を強力に支持しているのです。
 なお、倭国伝中の「京師を去ること一万四千里」や「東西は五月行、南北は三月行」という記事の史料批判も必要ですが、別の機会に詳しく説明したいと思います。簡単に言えば、これらは『三国志』や『隋書』の影響を受けた表記であり、特に「一万四千里」は短里と長里を混在させた合計里程と思われ、興味深い問題を内在しています。(つづく)


第592話 2013/09/08

正木さんの「34年遡上盗用」説の真髄

 多元的古代研究会(安藤哲朗会長)の会誌『多元』117号に正木裕さんの論稿 「九州王朝説と通説との分水嶺 — 盗用を認めるか・否か」が掲載されました。正木さんの「34年遡上盗用」説がコンパクトにまとめられ、この仮説の検証が古田説の正しさを証明することにもなるということが示された好論でした。ちょうど良い機会ですので、この正木説の論証方法と真髄について説明したいと思います。
 正木さんも当論稿で明確に述べられていますが、『日本書紀』の天武紀や持統紀に34年前の記事が盗用されており、それらの事例を示されたうえで、「勿論 個々の事例について『絶対的な根拠』などあるはずもない。(それがあるなら通説はとっくに瓦解している)しかし、『通説では不審な記事だが゛九州王朝の史書からの盗用″なら合理的に説明できる』事例を積み重ね、かつ『何故そのような盗用を行ったのか』を検討する」と正木論証の性格と目的について記されてい ます。
 この「絶対的根拠」はないが通説では不審な記事が合理的に説明できる、という論証性格こそ、わたしが「相対論証」と命名した論証方法なのです。すなわち、史料根拠に基づいて他の可能性を論理的に排除できる「絶対論証」に対して、同じく史料根拠に基づきながらも他の可能性を排除できないが、他の仮説よりも合理的に説明できる「相対論証」に相当するのが正木さんの「34年遡上盗用」説なのです。わたしはこのような論証方法があることを古田先生から学びまし た。古田説にもこの「相対論証」に相当する論証が少なくありません。
 従って、「絶対論証」と「相対論証」の差は、直接証拠に基づいているとか、間接証拠にもとづいているとかの史料根拠の違いではなく、他の仮説を排除できる論理性を有しているのか、他の仮説を排除はできないものの他の仮説よりも相対的に合理的であるという論理性を有しているかの違いなのです。直接証拠が圧倒的に少ない古代史学では、必然的に「相対論証」を多用せざるを得ないのは当然でもあるのです。
 しかし、今回特筆したいのは正木説の根幹・真髄についてです。その真髄とは「何故34年なのか」の説明に成功されたことなのですが、正木説に反対する人だけではなく、賛成する人にも理解を深めていただければと思い、このことについて説明します。
 正木さんが「34年遡上盗用」説を関西例会で発表されてから、何故33年でも35年でもなく34年前の記事から移動盗用されたのかの説明ができなけれ ば、恣意的との反論を免れないと、わたしは度々批判してきました。そうすると、正木さんはこの34年の理由を九州年号史書から年号ごとに移動させた結果、 34年のずれになったと説明されたのです。すなわち、白鳳の23年間、朱雀の2年間、朱鳥の9年間の合計が34年であることから、たとえば白鳳の前の白雉 の9年間の記事を34年移動させると、白雉元年(652)の記事が朱鳥元年(686)へと、同じ「元年」から「元年」へと記事が移動することになるので す。同様に白雉2年の記事は朱鳥2年への移動となり、その差はやはり34年なのです。
 このように九州年号による編年体史書の九州王朝系記事が、『日本書紀』の天武紀・持統紀に九州年号の34年差のまま移動盗用されたとする仮説に、正木さ んは到達されたのです。この「何故34年なのか」という疑問に答えられる仮説の発見こそ、正木説の本質であり真髄なのです。この点にご留意いただき、これ までの正木論文を読み直してみてください。正木説の真の凄さがご理解いただけると思います。

韓国・扶余出土木簡の衝撃 — やはり『書紀』は三四年遡上していた 正木裕
(古田史学会報94号)

(追記)本日早朝のニュースで2020年の東京オリンピック開催が決まったことを知りました。小学生の時にテレビで見た東京オリンピックをもう一度見ることができそうです。皆さんとともに喜びたいと思います。


第591話 2013/09/07

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(2)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝にはそれぞれの国の「歴史」が記録されています。おおよそ次の通りです。

 「倭国」は古の「倭奴国」。すなわち志賀島の金印を漢からもらったあの倭奴国が倭国であると、倭国伝冒頭から記されています。金印が出土したのは北部九州の博多湾岸ですから、倭国が九州王朝であることを実は冒頭から『旧唐書』は示唆しているのです。言い換えれば唐王朝の「倭国」認識が示されているわけです。
 次に「世世、中国に通ず」とあり、古の倭奴国から今(唐の時代)の倭国まで連続した王朝であり、歴代中国王朝と交流が続いていると記されています。近畿天皇家一元史観でも「倭奴国」は博多湾岸とされているのですから、「倭国」もそれと同じ国ということになり、一元史観の立場でも「倭国」を北部九州の国家と考えざるを得ないことは重要です。すなわち、一元史観の認識・立場を誠実に貫くと、倭国は九州王朝のこととなり、自らの一元史観を否定するという学問的 矛盾に陥るのです。この論理性を理解できる「賢い」一元史観論者が古田史学との論争を忌避するのも、こうした事情に気がついているからなのかもしれませ ん。
 その後、倭国との交流について『旧唐書』には、貞観5年(631)に倭国が唐に遣使を派遣し、その後、唐からも倭国へ使者(高表仁)が派遣されますが、 その使者が倭国の王子と「礼を争う」と記されています。そして、貞観22年(648)に、新羅を介して表を送ったという記事を最後に、倭国伝は終わりま す。

 「倭国伝」に続いて記されている「日本国伝」冒頭には、日本国の出自として「日本国は倭国の別種なり」とあり、日本国は倭国とは別の国という認識が示されています。「別種」の意味は正確にはわかりませんが、倭国と日本国が別国であり、日本列島には倭国と日本国が存在していたという、古田先生が提唱された「多元史観」を是とする立場で『旧唐書』は編纂されているのです。
 更に、倭国と日本国との関係について次の興味深い記事が見えます。「あるいはいう、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、という。」小国だった日本国が 倭国を併合したと記されているのです。倭奴国の昔から歴代の中国王朝と交流していた倭国を小国の日本国が併合したという、日本列島における王朝交代が記録されているのです。
 その交代の時期も、日本国伝から推察できます。『旧唐書』日本国伝に見える唐と日本国の国交記事の最初は長安三年(703)の遣唐使(粟田真人)記事です。従って、倭国伝に見える唐と倭国の最後の交流記事が貞観22年(648)ですから、この648年と703年の間に倭国から日本国への王朝交代があったことになります。古田先生が提起されたONライン(701年)が、まさにこの期間に入っていますので、『旧唐書』の史料事実が古田説を強力に支持していることがご理解いただけるものと思います。(つづく)


第588話 2013/08/31

阿部周一さんからの「鎮西」試案

 第587話「観世音寺と観音寺」に対して、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)より興味深いメールが寄せられましたので、ご紹介します。
 太宰府の観世音寺の創建年を記した史料『日本帝皇年代記』の「鎮西建立観音寺」の読みについて、わたしは「鎮西」を九州という地名表記と見なしたのです が、阿部さんは単なる地名表記ではなく、観世音寺(観音寺)の創建主体、すなわち九州太宰府(九州王朝)のことと理解すべきではないかと提起されたので す。
 その理由として、「鎮西」が「九州の」といった地域特定のための「形容詞的」用法であるなら、「鎮西建立観音寺」ではなく、「建立鎮西観音寺」というように「観音寺」の直前になければならないというものでした。しかし、「鎮西建立観音寺」とあるので、この「鎮西」は『日本帝皇年代記』に見える他の寺院建立記事と同様に読まれるべきで、そうであれば「鎮西」が観音寺を建立したと解さざるを得ないという御指摘をされたのです。
 たしかに「文法的」には阿部さんの言われることはもっともです。そのため、わたしは「検討させていたたきます」とメールで返答しました。学問的検証方法としては、当該史料『日本帝皇年代記』の史料批判、すなわち執筆者の「和風漢文」の「文法」を調べたり、史料中の同じような用例や「鎮西」の抽出と比較解析などが必要と思われます。ただちに阿部試案の当否は判断できませんが、とても興味深く鋭い御指摘ですので、しっかりと検討させていただきたいと思います。
 阿部さんのような優れた研究者がわたしの洛中洛外日記に対して、このような試案を寄せていただくことは有り難いことです。
 なお、太宰府の観世音寺を「観音寺」と表記する史料を新たに見いだしましたのまで、ご紹介します。それは『新抄格勅符抄』という平安時代成立の文書で、 そこに収録されている大同元年(806)の太政官牒に「太宰観音寺 二百戸 丙戌年施 筑前国百戸 筑後国百戸」と記されているようです。ちなみに、この「丙戌年」は朱鳥元年(686)のことと見なされているようですが(『若宮町誌』上巻、2005年)、このことが正しければ、朱鳥元年には観世音寺が太宰府に存在していたことの証拠となります。原本未見ですので、引き続き調査します。


第587話 2013/08/25

観世音寺と観音寺

 太宰府の観世音寺の創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)に見える観世音寺創建記事から、白鳳年間(661~683)であることはわかっていましたが、その後、九州年号史料の『勝山記』(鎮西観音寺造)や『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳10年(670)の創建とする記事のあることが発見され、観世音寺創建が白鳳10年(670)であることが判明しました。
 考古学的にも、創建瓦が7世紀後半頃の「老司1式」であることにも対応しており、考古学編年とも一致しています。こうした文献と考古学の一致から、観世音寺創建白鳳10年(670)説は最有力説だと思うのですが、一つだけ気になっていたことがありました。『二中歴』では「観世音寺」と正式名称が記載され ているのですが、『勝山記』や『日本帝皇年代記』では「観音寺」となっていることです。
 ところが、この疑問は思ったよりも簡単に解決してしまいました。観世音寺は古代から「観音寺」とも称されていたことがわかったからです。それは有名な次の史料です。

 「沙彌満誓、綿を詠ふ歌一首 造筑紫観音寺別當、俗姓笠朝臣麿といふ
 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ」『万葉集』巻三 336番

 『万葉集』の有名な歌ですが、その作者の沙彌満誓を「造筑紫観音寺別當」と紹介しているのです。この記事から、『万葉集』成立期には観世音寺を「観音寺」とも表記していたことがわかるのです。
 更にもう一つ見つけました。これも有名な菅原道真の漢詩「不出門」の一節です。

 「都府楼わずかに見る瓦色
  観音寺は只鐘の声を聴くのみ」

 ここでも道真は観世音寺を「観音寺」と表記しています。ただ七言律詩とするために、三文字の「観音寺」の方を採用したのかもしれません。いずれにしても「観音寺」と詠えば、聴く人にも「太宰府の観世音寺」のことと理解されることが前提(共通認識)となっていたから「観音寺」と作詩したと考えられま す。
 こうして『勝山記』『日本帝皇年代記』の「鎮西観音寺」を太宰府の観世音寺のこととする理解は妥当なものであることが、よりはっきりしました。なお、「鎮西」とありますから、この部分の成立は近畿天皇家の時代となります。恐らく、「観音寺」だけではどこのお寺か判断できないので「鎮西」(九州)という 表記を付け加えたのでしょう。この点、『二中歴』「年代歴」には「観世音寺」だけで、地名表記はありません。これは「年代歴」細注部分が北部九州で書かれ たため、地名をつける必要もなく、「観世音寺」と記すだけで太宰府の観世音寺のことだと、書いた人も読む人もそのように認識するということが前提の表記で す。
 同じ『二中歴』「年代歴」の細注でも、「難波天王寺」(倭京二年、619年)のように「難波」という地名表記があるケースとは対照的です。すなわち、北部九州の読者には「難波」と地名表記をつけなければ、どこの天王寺か特定できなかったからと思われます。したがって、この「難波」は北部九州ではなく、摂津難波の「難波」と理解することが最も穏当な理解となるのです。
 観世音寺を「観音寺」と表記するものは他の史料にもありそうですので、引き続き探索したいと思います。


第585話 2013/08/22

「九州年号」の証明

 第584話「天智天皇の年号『中元』?」に 対して、水野さん(古田史学の会・代表)より、ちょっと意表をつかれた御指摘が寄せられました。それは、「白鳳」など『二中歴』などの諸史料に見える一連の古代年号が九州王朝(倭国)の年号であるという証明が必要ではないか、という御指摘です。今まで、それらの年号が九州年号であることは自明のことと考え てきましたので、水野さんの御指摘を受けて、改めて「九州年号」の証明について考えてみることにしました。
 とりあえず、水野さんには『襲國偽潜考』に「善記」から「大長」までの諸年号は『九州年号』という古写本より引用したと、著者の鶴峯戊申が記していますので、この「九州年号」という名称は、6~7世紀において「九州」地方で公布使用されていた「年号」ということを意味しているので、「九州年号」という名称こそ、九州王朝の年号であることを指し示していると返答しました。しかしながら、『襲國偽潜考』自体は江戸時代に成立した史料ですので、もっと古代まで遡った史料根拠に基づいた証明(論証)を考えてみたいと思います。(つづく)


第581話 2013/08/16

古田先生自伝刊行記念講演会のご案内済み

 この二ヶ月ほど出張が連日のように続き、かなりバテています。円安による輸入原材料価格高騰の影響で、価格改定交渉のため全国を飛び回ってきまし た。お盆明けには鹿児島・宮崎出張や上海出張も予定されており、体力回復に努めています。早く本来業務のマーケティングや開発に戻りたいものです。
 本日、ミネルヴァ書房の神内冬人さんが拙宅までみえられ、古田先生の研究自伝『真実に悔いなし』刊行記念講演会の案内チラシをいただきました。明日の「古田史学の会」関西例会で配布します。内容は次のとおりです。是非、お越しください。

「真実の歴史を求めて -私の歩んで来た道、歩み行く道-」

 講師 古田武彦

 講演内容
 ○これまでの学究生活を振り返る
 ○最新の研究成果、発見について
 ○『真実に悔いなし』(シリーズ「自伝」my life my world)「古田武彦・歴史への探究」刊行を機に

 ※講演終了後、質疑応答、書籍販売(サイン本も有)を予定しています。

 とき 9月21日(土)13時30分~16時

 ところ 京都教育文化センター
     京都市左京区聖護院川原町4-13
        電話075-771-4221

 定員 350名(先着順に座席をご用意しております)

 参加費 1000円(当日受付でお支払い下さい)

 主催 ミネルヴァ書房

 

(お問い合わせ・お申し込み)

 電話・FAX・はがき・Eメールでお申し込み下さい。先着順にて受け付けますので、定員になり次第、締め切りとさせて頂きます。
 氏名・住所・電話番号・参加人数を連絡して下さい。
 〒607-8494 京都市山科区日ノ岡堤谷町1番地
 株式会社ミネルヴァ書房内 古田武彦講演会「真実の歴史を求めて」事務局:石原

 電話 075-581-0296
 FAX 075-581-0589
 E-mail eigyo@minervashobo.co.jp


第565話 2013/06/21

第565話 2013/06/21

「i-siteなんば」に古田先生をご案内します済み

 6月16日に「i-siteなんば」で「古田史学の会」会員総会を開催しました。総会に先立って、竹村順弘さんと正木裕さんによる記念講演が行わ れました。両氏ともプロジェクターでスクリーンに映し出された画像を駆使した、わかりやくインパクトのある講演でした。古代史の講演もIT機器を使用する 時代となったものです。講演テーマは次の通りでした。

○竹村順弘さん 古田武彦著作集で綴る史蹟百選・九州編
○正木 裕さん 周王朝から邪馬壱国、そして現代へ・・倭人伝の官職名と青銅器・・

 午前中は古田史学の会・全国世話人会を開催しました。北海道からは今井俊圀さん、四国からは合田洋一さんに遠路はるぱるお越しいただきました。 「古田史学の会・東海」は当日同会の総会が重なったため、今回は残念ながら欠席されました。昼食は「i-siteなんば」3階ライブラリーにある「古田武 彦書籍コーナー」の前でとりました。このコーナーには古田先生の著書がほとんど集蔵されており、今後の古田史学研究の拠点として有意義に活用されることで しょう。
 正木裕さんの発案で、古田先生を「i-siteなんば」にお連れして、「古田武彦書籍コーナー」をご案内することとなりました。日時は6月29日(土) の午後で、2時頃からは古田先生を囲んで、著書の思い出などを語っていただけることになりました。ご都合のつかれる方は、是非ご参加ください。


第564話 2013/06/12

『古田史学会報』116号の紹介

 今日は金沢駅前のホテルに宿泊しています。明日は名古屋に向かいます。仕事柄、出張が多いので、出張先のご当地の歴史や旧跡に触れたいのですが、なかなかそうした余裕はありません。
 『古田史学会報』116号が発行されました。今回も古田先生から原稿をいただきました。古谷さんからは中国史書に見える「短里」の発見報告がなされました。その後も周代の史書からの「短里」発見の投稿が続いています。順次、掲載したいと思います。掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』116号の内容〕
○「古田史学」の理論的考察  古田武彦
「古田史学」の論理的考察を改訂。「学問論」の理論的考察(東京古田会NEWS No.150 May2013)と『言素論』の理論的考察(TAGEN No.115 May 2013 多元的古代研究会)の二稿とワン・セットです。(2013.6.26訂正)

○「消息往来」の伝承  京都市 岡下英男
○白雉改元の宮殿 — 「賀正礼」の史料批判 京都市 古賀達也
○「放生会」は九州王朝の儀式 — それは利歌彌多弗利の創設だった 川西市 正木裕
○「元興寺」と「法隆寺」(2)「勅願寺」としての性格の同一性と「斑鳩寺」の存在と関係  札幌市 阿部周一
○『文選』王仲宜の従軍詩 『三国志』蜀志における里数値について  枚方市 古谷弘美
○会報原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○古田史学の会・会員総会と記念講演会の案内
○編集後記


第558話 2013/05/19

古代ギリシアの「従軍慰安婦」

 昨日の関西例会で、わたしは古代ギリシアの「従軍慰安婦」というテーマでクセノポン著『アナバシス』にギリシア人傭兵部隊に娼婦が多数従軍していたという記事があることを紹介しました。
 ソクラテスの弟子であるクセノポンが著した「上り」という意味の『アナバシス』は、紀元前401年にペルシアの敵中に取り残されたギリシア人傭兵1万数 千人の6000キロに及ぶ脱出の記録です。クセノポンの見事な采配によりギリシア人傭兵は故国に帰還できたのですが、その記録中に娼婦のことが記されてい ます。アルメニア山中の渡河作戦の途中に次の記事が突然現れます。

 「占者たちが河(神)に生贄を供えていると、敵は矢を射かけ、石を投じてきたが、まだこちらには届かなかった。生贄が吉 兆を示すと、全軍の将士が戦いの歌を高らかに唱して鬨の声をあげ、それに合わせて女たちもみな叫んだ−−隊中には多数の娼婦がいたのである。」岩波文庫 『アナバシス』(169頁)

 この娼婦たちはギリシア本国から連れてきたのか、遠征の途中に「合流」したのかは不明ですが、将士の勝ち鬨に唱和して叫んでいることから、前者ではないかと推定しています。
 昨今、物議を醸している橋下大阪市長による「慰安婦」発言もあったことから、いわゆる「従軍慰安婦」が紀元前400年頃の記録に現れている例として紹介 しました。この問題は他国への侵略軍・駐留軍が避けがたく持つ「性犯罪」「性問題」が人類史的にも根が深い問題であり、ある意味では橋下市長の発言を契機 に、より深く考える時ではないかと思います。「建前」だけの議論や、単なるバッシングでは沖縄の米兵による性犯罪をはじめ、世界各地の侵略軍・駐留軍により恐らくは引き起こされているであろう各種の問題を解決できないことは明白です。歴史学や思想史学が机上の学問に終わらないためにも、真剣に考えるべきテーマではないでしょうか。
 5月例会の発表は次の通りでした。なお、6月例会は「古田史学の会」会員総会・記念講演会などのため中止となりました。

 

〔5月度関西例会の内容〕
1). シキの考察−−西村説への尾鰭(大阪市・西井健一郎)
2). 古代に忌み名(諱)の習俗はあったのか(八尾市・服部静尚)
3). 歩と尺の話(八尾市・服部静尚)
4). 古田史学会インターネットホームページ運営報告(東大阪市・横田幸男)
5). 古代ギリシアの「従軍慰安婦」(京都市・古賀達也)
6). 和気(京都市・岡下秀男)
7). 「室見川の銘板」の解釈について(川西市・正木裕)
8). 「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の距離について(川西市・正木裕)
8). 味経宮のこと(八尾市・服部静尚)
9). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・会誌16集編集遅れ・新東方史学会寄付金会計報告の件・行基について・その他 


第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。