史料批判一覧

第2997話 2023/04/26

多元的「祝詞」研究の画期、正木説

 昨日、奈良市で開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(注①)を拝聴しました。テーマは〝倭国から日本国へ ⑤盗まれた「広瀬神・竜田神」の祭礼、他〟で幅広いテーマを扱った講演でした。わたしが最も刮目したのが、「広瀬神・竜田神」祭礼の淵源を九州王朝(筑後・肥後)とする仮説でした。それは、「龍田風神祭」祝詞の内容「悪しき風」が、肥後地方の地名(立野)や風害(まつぼり風。穀物を枯らせ、甚大な被害を与える肥後地域〈立野火口瀬周辺〉特有の強風)に見事に対応していることなどを明らかにするものでした。

〝五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこ)なふ〈略〉悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ、〈略〉吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾が宮は定め奉り〟「龍田風神祭」祝詞『延喜式』

 この正木さんの新説を知るまで、わたしは同祝詞を奈良県の龍田神社近辺で成立したものとばかり思い込んでいました。それが本来は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の周辺で成立したものということに驚きました。
古田史学では、古田先生による「大祓の祝詞」研究(注②)が著名です。「六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)〈十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〉」の祝詞が、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中域。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峰近辺)において作られたとする研究です。今回の正木説は、古田先生以来の祝詞研究で、画期をなすものと思いました。正木説に刺激されて、多元的祝詞研究が更に進むことと期待されます。

(注)
①古代大和史研究会(原幸子代表)主催、奈良県立図書情報館。毎月一回の開催で、今回で50回を迎えたとのこと。
②古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

 多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2940話 2023/02/10

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)

 本日の「多元の会」リモート古代史研究会で、井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から興味深いことを教えていただきました。これまでも井上さんからは、九州年号史料として貴重な『勝山記』のコピーを頂くなど、何かと研究を支援していただきました。

 今回、教えて頂いたのは、山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺の創建が推古二年(594年)とする見解があるということでした。わたしは、推古二年創建寺院が山梨県(甲斐国)にあることに関心を抱きました。というのも、推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、その年に九州王朝が各国に「国府寺」建立を命じたことがわかっていたからです(注①)。ですから、推古二年創建伝承を持つ醫王山楽音寺は、九州王朝時代の国府寺だったのではないかと考えたからです。

 ちなみに、甲斐国分寺跡は同じ笛吹市一宮町国分にあり、そちらは八世紀の聖武天皇による国分寺と思われます。すなわち、甲斐国には九州王朝と大和朝廷の新旧二つの国分(府)寺があったことになります。管見では摂津国と大和国も新旧二つの国分(府)寺があり、こうした現象は多元史観・九州王朝説でなければ説明がつきません(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
同「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
②古賀達也「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
同「洛中洛外日記」1676~1679話(2018/05/24~26)〝九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔(1)~(4)〟


第2921話 2023/01/19

『東日流外三郡誌』

    研究の推奨テキスト (2)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多いことに気づき、わたしは欠字部分の調査を行いました。八幡書店版(注②)と比較すると、虫食いや破損による欠字ではなく、埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっていることがわかりました。そこで北方新社版を編集された藤本光幸さん(故人、藤崎町)にそのことを問い合わせると、〝埋蔵金の記事や地図をそのまま掲載すると、埋蔵金探しの発生が懸念されたので、意図的に欠字にした〟とのことでした。実際に、それまでもそうした動きがあり、たとえば和田さん親子(元市さん、喜八郎さん)が炭焼きのために山に入ると、多くの人がぞろぞろと後をつけてきたこともあったとのことでした。「東日流外三郡誌」に記された遺跡の荒廃を防ぐため、藤本さんの配慮により北方新社版には欠字が多かったのです。
更に精査すると興味深い内容が八幡書店版にもありました。同社版『東日流外三郡誌 第六巻〔諸項篇〕』の末尾に掲載されている「底本編成」によれば、「東日流外三郡誌」の第六十三巻・第六十八巻・第七十七巻(ロ本)・第七十八巻・第二百巻付の五冊のみが底本を〔市浦本〕としています。すなわち、八幡書店版編集時にはこの五冊が紛失していたため、先に出版された市浦村史版(注③)を底本に採用したのです。五冊の中身を見ると、埋蔵金や財宝の隠し場所や遺跡を記した地図が収録されていました(注④)。これは偶然による散逸ではなく、埋蔵金の地図が記されていたことが紛失の理由ではないでしょうか。すなわち、その五冊を〝持ち去った〟人物は、「東日流外三郡誌」を偽書とは考えていなかったと思われます。
そこで、わたしは紛失した五冊の所在を調査しました。その結果、「東日流外三郡誌」明治写本を持っている人がいて、財宝探しをしているという情報がNさんから寄せられました。Nさんは津軽調査でお世話になった方で、当地の地理にも詳しい方です。しかし、それ以上の具体的なことは、事情があるようで、教えてはいただけませんでした。
こうした『東日流外三郡誌』刊行時の事情が徐々に分かってきたのです。当時、現地の関係者は「東日流外三郡誌」を偽書とは捉えておらず、むしろ、書かれていることは事実に基づいており、貴重な文書と受け取られてきたようなのです。偽作キャンペーンへの反証として、このことを論文発表しようと古田先生に調査概要を報告しました。ところが、先生からは論文発表を止められました。(つづく)

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④次の「地図」が収録されている。
「宇蘇利国図」「東日流中山図」(第六十三巻)、「安倍蒼海陣記及蒼海諸城図」「蒼海城図追而」(第六十八巻)、「安倍一族秘宝之謎」(第七十七巻ロ本)、「桧山勝山城図」「松前大館之図」(第七十八巻)、「東日流六郡之秘跡」(第二百巻付)。


第2920話 2023/01/18

『東日流外三郡誌』研究

     の推奨テキスト (1)

先週の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただいたのですが、早速、お電話やメールで質問や感想が寄せられ、関心の高さを感じました。青森県弘前市からリモート参加された「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)のTさんからは、『東日流外三郡誌』研究の推奨テキストに関連したご質問をいただきました。
研究会では、『東日流外三郡誌』には次の三つの活字テキストがあり(注①)、(c)八幡書店版が最も優れていると推奨しました。

(a)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
(b)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された(注②)。
(c)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。

(a)市浦村史版は『東日流外三郡誌』約350冊の三分の一程度の収録ですから、研究のテキストとするには不十分です。(b)北方新社版と(c)八幡書店版を比較すると、なぜか欠字が多い(b)北方新社版よりも(c)八幡書店版が優れていると、わたしは判断したのですが、古田先生も早くから同様の見解を示されていました。

「今年(平成元年)は、和田家古文書の全貌が白日のもとにさらされるべき、研究史上、記念すべき年となるであろう。豊島勝蔵・小舘衷三、そして藤本光幸さんや妹、竹田侑子さんたち、研究上の礎石を築かれた諸先輩の驥尾に付し、今年から、新たな研究開始の扉を開かせていただくこと、わたしは今、心を躍らせているのである。
今回、最も本格的にして厳密な校本として、この八幡書店版の刊行の開始されたこと、わたしはこれを無上の幸いとし、全巻の完結を鶴首待望している。(八幡書店版は東日流中山史跡保存会編、一九八九年一月、第一巻刊行。)
(一九八九年二月二八日稿)」(注③)

それではなぜ北方新社版には欠字が多いのか。わたしはこの史料情況に着目し、欠字部分の調査を行いました。その結果、昭和22年に和田家天井裏から落下した和田家文書と、和田家に降りかかった運命の一端を垣間見ることができたのです。(つづく)

(注)
①この他、『車力村史』(1973年)に『東日流外三郡誌』の一部が収録されている。
②同書「補巻」の小舘衷三氏による解題に次の説明がある。
「六巻を刊行した後に、和田家に外三郡志の一部とされる文書類が若干残っていることがわかり、追而編、日下領国風(景)画全八十八景、天真名井家文書の三つを合せて、補巻として刊行することにした。」
③古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 第二巻 別報』八幡書店、1989年。


第2909話 2023/01/06

舒明紀十一年条「伊豫温湯宮」の不思議

「古田史学の会」会員や「洛中洛外日記」読者から、毎日のように情報や質問が届き、とても勉強になっています。昨年末には、白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から興味深い質問が届きました。それは、舒明紀十一年(639年)十二月条に見える「伊豫温湯宮」を天皇の宮殿と考えてもよいかというもので、ちょっと意表を突かれました。

「十二月の己巳の朔、壬午(14日)に、伊豫温湯宮(いよのゆのみや)に幸(いま)す。」

翌年の夏四月、伊豫からの帰還記事が見えますから、これらの記事が正しければ舒明は四ヶ月も伊豫温湯宮にいたわけで、飛鳥の宮を留守にしていたことになります。

「夏四月の丁卯の朔、壬午に(16日)、天皇、伊豫より至(かへ)りおはしまし、便(すで)に厩坂宮(うまやさかのみや)に居(ま)します。」舒明紀十二年(640年)夏四月条

岩波の『日本書紀』頭注によれば、伊豫温湯宮を「松山市道後温泉にあった宮」、厩坂宮については「大和志は古蹟未詳とする」とあります。伊豫温湯宮とあることから、伊予国内の温泉地にある宮と解さざるを得ませんので、道後温泉にあった宮とすることは理解できますが(注)、そのような近畿天皇家の宮殿の造営記事は見えませんし、近畿には有馬温泉があるのですから、わざわざ船旅を経て伊予の温泉に行く理由も不明です。この記事が、九州王朝系史料からの転用であったとすれば、九州には太宰府の近隣に二日市温泉があり、豊後には別府温泉があるのに、わざわざ豊予海峡を渡り、伊豫温湯宮に四ヶ月も天子(天皇)がいた理由が、やはり不明です。
このように、白石さんが着目された「伊豫温湯宮」は不思議な記事なのです。そもそも、伊豫温湯宮に四ヶ月もいた天皇とは誰なのでしょうか。その天皇が帰ったとされる厩坂宮はどこにあったのでしょうか。おそらく九州王朝系の「天皇」と「厩坂宮」に関する記事の転用ではないかと思いますが、それでも九州王朝の天子の行動としては、その理由がよくわかりません。もしかすると九州王朝の天子(ナンバーワン)の下の天皇(ナンバーツー)の行動記事(湯治か)かもしれません。その場合、伊予を拠点としていた当地の(九州王朝から任命された)「天皇」と解すれば、有馬温泉でも別府温泉でもなく、伊豫温湯宮だったことの説明がしやすくなりますし、四ヶ月の長期滞在もあり得ることです。
なお、天皇の伊予来湯伝承を九州王朝によるものとする合田洋一さんの先行研究(『葬られた驚愕の古代史』他)があります。これからの白石さんの研究を待ちたいと思います。

(注)愛媛県には道後温泉の他にも古い温泉(西条市本谷温泉、今治市鈍川温泉)があり、「伊豫温湯宮」を道後温泉と断定するものではありません。


第2900話 2022/12/25

「正税帳」に見える「番匠」「匠丁」

 吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)による、上田市に遺る神科条里と当地に遺存する「番匠」地名の研究(注①)に触発され、古代史料中の「番匠」記事を調べましたので紹介します。
 『寧楽遺文 上』(注②)を精査したところ、次の「番匠」とその構成員である「匠丁」を見いだしました。

○尾張國正税帳 天平六年(734年)
 「番匠壹拾捌人、起正月一日盡十二月卅日、合參伯伍拾伍日 單陸阡參伯玖拾人」

○駿河國正税帳 天平十年(738年)
 「匠丁宍人部身麿從 六郡別半日食爲單參日從」

○但馬國正税帳 天平十年(738年)
 「番匠丁粮米壹伯陸斛肆斗 充稲貳仟壹伯貳拾捌束」
 「匠丁十二人、起正月一日迄九月廿九日、合二百六十五日、單三千百八十日、食料米六十三斛六斗、人別二升」

○出雲國計會帳 天平六年(734年)
「  一二日進上下番匠丁幷粮代絲價大税等數注事」
 「三月
    一六日進上仕丁厮火頭匠丁雇民等貳拾陸人逃亡事
      右差秋鹿郡人日下部味麻充部領進上、」
 「四月
    一八日進上匠丁三上部羊等參人逃亡替事
      右差秋鹿郡人額田部首眞咋充部領進上、」

 これらの記事によれば、尾張国・駿河国・但馬国・出雲国から都(平城京)へ「番匠」「匠丁」が送られたことがわかります。都でどのような工事に携わったのかは未調査です。
 「番匠」の最初が九州年号の常色二年(648年)頃であったとする記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」が『伊予三島縁起』に見えます(注③)。九州年号の白雉元年(652年)に大規模な前期難波宮が完成していることから、このときの番匠は難波に向かい、九州王朝の複都難波宮の造営に携わったと考えられます。こうした九州王朝による「番匠」制度を大和朝廷も採用したのであり、その痕跡が上記史料に遺されていたわけです。

(注)
①吉川八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会主催「古代史の会」、2022年10月。
②竹内理三編『寧楽遺文 上』昭和37年版。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2881話 2022/11/22

「イシカ・ホノリ・ガコ」の語源試案

 11月18日(金)に開催された「多元の会」主催の「古代史の会」にリモート参加させていただき、淀川洋子さんの研究発表「三つ鳥居巡り 和田家文書をしるべに」を拝聴しました。そのなかで、『東日流外三郡誌』など和田家文書に見える「イシカ・ホノリ・ガコ」という神像(土偶)の紹介がありました。この「イシカ・ホノリ・ガコ」は「イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ」と記される場合もあり、古代からの東北地方の神様のようです。和田家文書ではイシカを天の神、ホノリを地の神、ガコを水の神と説明されており、この名称が中近世のアイヌ語なのか、古代縄文語まで遡るのかについて関心がありました。今回の淀川さんの発表を聞き、この語源について改めて考察する契機となりました。
 全くの思いつきに過ぎませんが、「イシカ」「ホノリ」「ガコ」がアイヌ語に見当たらないらしく、もしかすると倭語ではないかと考えたのです。まず、イシカは石狩(イシカリ)由来の地名で、たとえば佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)・碇(イカリ)のように、地名接尾語の「ガリ」「カリ」が付いたとすれば、本来はイシカ里であり、語幹はイシあるいはイシカとなります。同様にホノリもホノ里ではないかと考えたわけです。
 ガコはちょっと難解ですが、和田家文書では「水の神」とされていることから、川(カワ)の古語ではないかと推定しました。すなわち、黄河の河(ガ)と揚子江の江(コウ)です。たとえば久留米市には相川(アイゴウ)という地名があります。島根県にも江の川(ゴウノカワ)・江津(ゴウツ)があり、いずれも江・川のことを古語でゴウと呼んでいたことの名残です。このように川のことを「ガ」「コウ」と呼ぶのは倭語であるとされたのは古田先生でした。こうした例から、水の神「ガコ」とは河江(ガコウ・ガコ)のことではないかと考えたのです。
 以上の推定(思いつき)が当たっていれば、「イシカ・ホノリ・ガコ」とはイシカという地域のホノ里を流れる河と考えることができそうです。残念ながらイシカやホノの意味はまだわかりませんが、アイヌ語というよりも、倭語あるいはより古い縄文語ではないでしょうか。
 なお、ウィキペディアでは、「石狩」地名の由来は諸説あり、未詳とされているようで、「アイヌ語に由来する。蛇行する石狩川を表現したものとする考え方が大勢だが、解釈は以下のように諸説ある。」として次の説が紹介されています。

イ・シカラ・ペッ i-sikar-pet – 回流(曲がりくねった)川(中流のアイヌによる説、永田方正『北海道蝦夷語地名解』より)
イシ・カラ isi-kar – 美しく・作る(コタンカラカムイ(国作神)が親指で大地に川筋を描いた)(上流のアイヌによる説、同書より)
イシ・カラ・ペッ isi-kar-pet – 鳥尾で矢羽を作る処(和人某の説だがアイヌの古老はこれを否定、同書より)
イシカリ isikari – 閉塞(川が屈曲していて上流の先が見えない)〟

 わたしの「イシカ・ホノリ・ガコ」倭語説は、淀川さんの研究発表を聞いていて思いついたものであり、たぶん間違っている可能性が大ですが、いかがでしょうか。


第2878話 2022/11/16

京都市埋蔵文化財研究所

   ・深草収蔵庫を訪問

 今日は京都市埋蔵文化財研究所・深草収蔵庫を訪問しました。同研究所の高橋潔さんにお会いするためです。高橋さんは、35年にわたり京都市域の遺跡発掘に携わってきた現役の考古学者です。来年1月21日(土)、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催する新春古代史講演会で講演していただけることとなり、その打ち合わせを行いました。
 講演テーマは「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」です。このテーマは3年前に開催された展示会(注①)と同じ内容で、七世紀に建築された京都市域の古代寺院の発掘成果に関するものです。同展示をわたしも拝見したのですが、これほどの大型寺院群が『日本書紀』にも記されておらず、この地に存在していたことに驚きました。おそらく、近畿天皇家とは別の勢力の影響の下に創建されたものと推定しています(注②)。
 新春講演会の詳細はこれから検討を進めますが、おそらく多くの皆さんにとって、初めて聞く講演内容と思います。ご期待ください。

【令和5年新春古代史講演会】
□日時 2023年1月21日(土) 午後1時~5時を予定
□会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170名
□主催 古田史学の会・他
□高橋潔さんのご紹介
 公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長。
 1963年京都市生まれ。1988年京都市埋蔵文化財研究所入所、以後京都市内の遺跡、平安京跡をはじめ、多くの遺跡の発掘調査を実施、京都市考古資料館副館長を経て、2022年より現職。
 主な著作:「山背国時代の寺院」(共著)『平安京提要』角川書店、1994年。『上里遺跡Ⅰ ―縄文時代晩期集落遺跡の調査―』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第24冊、2010年。「遷都以前の山背国」『恒久の都 平安京(古代の都3)』吉川弘文館、2010年。他。

(注)
①2019年、京都市考古資料館(上京区)で開催された特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」。
②古賀達也「洛中洛外日記」1885~1890話(2019/05/05~09)〝京都市域(北山背)の古代寺院(1)~(6)〟
 同「山城(京都市)の古代寺院と九州王朝」『東京古田会ニュース』188号、2019年。


第2877話 2022/11/15

「学説」「学派」が存在しえない領域「数学」

 荻上紘一先生とは、大学セミナーハウスを離れる14日の朝も対話が続き、そこでも数学が持つ興味深い性格を教えていただきました。たとえば次のようなことです。

 〝数学には「学説」というものもないし、たとえば古田「史学」とか多元「史観」という概念が存在しませんから、「学派」も存在し得ません。証明された定理があるだけですから。〟

 今回の〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟で触れた数学が持つ学問的性格の一端を知り、数学者が実行委員長を務める同セミナーは良い刺激を受け、異なる領域ではありますが、古田史学・古田学派でもエビデンスと論証や論理性を更に重視する研究が増えるのではないでしょうか。あわせて、通説(近畿天皇家一元史観)を支持する論者をも説得できるエビデンスの明示と論証力を身につけるためにも、数学の持つ性格を学ぶことは大切と思いました。
 実は荻上先生との懇談の席で数学の話しを持ち出したのはわたしからでした。というのも、日本古代史学でも数学のような簡明で美しい定理や命題というもので諸仮説の評価・位置づけなどを表現できないかと、最近、わたしは考えていたからです。このテーマを哲学や論理学に詳しい茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部。注①)にたずねたことがありました。茂山さんの返答は次のようなものでした。

 〝それはできないと思います。数学にはそれを表現できる「美しい言語」がありますが、歴史学は人や人の行動を対象とするため、どろどろとした用語しかありませんので、数学のような定義はできません。〟

 この茂山さんとの対話内容を荻上先生に紹介したところ、今回のような数学の説明がなされたものです。このことに触れた「洛中洛外日記」2875話〝数学の「証明」と歴史学の「証明」〟や2876話〝自説が時代遅れになることを望む領域〟が読者から注目されているようで、メールやFacebookにコメントが寄せられましたので、西村秀己さん(注②)から届いたメールを最後に紹介します。

【西村秀己さんからの「個人的感想」】
 数学が他の、歴史学や化学や物理学と違うのは論証の基礎となる素子が自己完結であることです。分かり易く言うなら、数学のルールは数学が決めている、ということ。従って一度証明された事は決して覆る事は無い。ところが数学以外の学問は自己完結ではないので、証明された(と思った)瞬間から新しい素子(発見された事実)に晒される。これが、数学とそれ以外の学問との違いかと。

(注)
①大学で哲学を専攻。「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。用いたテキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)。
②「古田史学の会」全国世話人で同会会計担当、『古田史学会報』編集担当、高松市在住。


第2876話 2022/11/14

自説が時代遅れになることを望む領域

 〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟終了後、わたしと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)は大学セミナーハウスにもう一泊し、荻上紘一先生(大学セミナーハウス理事長、注①)・和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)と懇談しました。特に荻上先生とは数学と歴史学、科学の学問的性格の違いについて議論でき、とても勉強になりました。
 数学の持つ〝一旦証明されたら、全員が賛成し、未来にわたり変わることはない〟という性格に比べると、古代史学(社会科学)や化学(自然科学)はマックス・ウェーバーの次の言葉に表される領域です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁。注②)

 科学者は、自説の発表と成立は他者の旧説を時代遅れにするという一面を有し、そうであれば自説にもいずれは他者の新説により時代遅れになるという宿命が待ちうけていることを経験的に理解しています。思うに、ここで最も大切なことは〝時代遅れとなることをみずから欲する〟という点にあります。学問研究を志す者には、自説が時代遅れになることを〝自ら望む〟ことができるかが問われるのです。〝自ら望まない〟人は、例えば音楽や芸術、歴史小説などの分野で能力を発揮できるように思います。(つづく)

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田先生が教鞭をとられた長野県松本深志高校の出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長などを歴任され、2021年には瑞宝中綬章を受章。
②マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。


第2875話 2022/11/13

数学の「証明」と歴史学の「証明」

 昨日から〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟(注①)に参加しています。今回のテーマは〝「聖徳太子」と「日出づる処の天子」〟で、刺激的な発表や仮説を聞くことができました。その中でも、「刺激的」をはるかに超える「衝撃的」な発言がありましたので、最初にそのことについて紹介します。
 同セミナー予稿集冒頭には荻上紘一実行委員長(注②)の挨拶文〝「聖徳太子」と「日出づる処の天子」の時代〟があり、次の見解が示されています。

 「一般に、2人が同一人物であることを証明するのは非常に難しいのですが、異なる人物であることの証明は簡単です。一致しない属性が一つでもあれば同一人物ではありません。」
 「古代史学においては、科学的な「史実」の確認が基本であり、その作業は客観的且つ evidence-based でなければなりません。」

 精緻な根拠と厳格な論理を追究する数学者らしい一文です。その荻上先生が閉会の挨拶で次のようなことを述べられました。

 〝わたしは証明されたことしか真実とは認めません。なぜなら数学者だからです。数学では一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認めます。ある人は認め、別の人は反対するということはありえません。他方、歴史学での「証明」とはせいぜい「仮説」に過ぎません。〟

 この話を聞いて、わたしは衝撃を受けました。わたしが専攻した化学では、実験により証明され真実と見なされた学説は、常に新たな優れた研究により否定されるものだったからです。錬金術の昔から様々な仮説が提起され、やがてはそれが誤りであることがわかり、言わば化学(科学)の歴史は間違いを繰り返し、新仮説を積み重ねながら、より真実(と思われるもの)に近づいてきたからです。したがって、〝自説はいずれ間違っているとされるはずだ〟と化学(科学)者は考えますから、〝一旦証明されたら、全員が賛成し、未来にわたり変わることはない〟という数学の持つ性格を知り、このような学問領域があるのかと衝撃を受けたのです。(つづく)

(注)
①八王子市の公益財団法人大学セミナーハウスが主催している一泊二日のセミナーで、21018年から毎年開催されている。「八王子セミナー」と通称されており、古田説支持者による研究発表と外部講師による講演を中心とするセミナーである。2022年は大山誠一氏の講演があった。
②大学セミナーハウス理事長で数学者。古田先生が教鞭をとられた長野県松本深志高校の出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長などを歴任され、2021年には瑞宝中綬章を受章。