史料批判一覧

第3136話 2023/10/15

九州と北海道に分布しない

        「テンノー」地名

 今日、上京区枡形商店街の古書店で『地名の語源』(注①)を購入しました。46年前に出版された本ですが、地名研究の方法や地名の発生経緯まで論じた優れものでした。早速、研究中の「天皇」地名(注②)の項を読んでみると、次のような興味深い説明がありました。

 「テンノー (1)天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ。(2)*テンジョー(高い所)と同義のものもあるか。九州と北海道以外に分布。〔天王・天王寺・天皇・天皇田・天皇原・天皇山・天王山・天野(テンノ)山〕」

 わたしが驚いたのが「九州と北海道以外に分布」という説明部分です。なぜ九州に分布しないのか、その理由はわかりませんが、古代九州王朝と関係するのでしょうか。それにしても、天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ「天王」地名もないということですから、不思議な現象です。

(注)
①鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟


第3129話 2023/10/02

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)

八王子セミナー(11月11~12日、注①)の開催日が近づいてきました。同セミナーで討議予定の藤原宮(京)研究において、特に注目されている〝もうひとつの藤原宮〟問題、「長谷田土壇」について論究することにします。

藤原宮の所在地については江戸時代ら大宮土壇(橿原市高殿)が有力視されてきましたが、喜田貞吉(注②)が長谷田土壇説(橿原市醍醐)を発表し、その根拠や論理性が優れていたため、論争へと発展しました。その後、大宮土壇の発掘が開始され、大型宮殿遺構が出土したことにより、この論争は決着がつき、今日に至っています。

しかし、わたしは喜田貞吉の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注③)で表明しました。

〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられた大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。〟(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②喜田貞吉(きた・さだきち、1871~1939年)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。法隆寺再建論争で、再建説を主張したことは有名。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3125話 2023/09/28

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (2)

 九州王朝の故地、北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、当地の地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。ところが、愛媛県東部地域には「天皇」地名が少なからず遺っています。これは偶然ではなく、何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。このことを多元史観・九州王朝説の視点で考察してみます。
まず「天皇」地名成立のケースとして、次の可能性が考えられます。

(A)須佐之男命を祭神とする「牛頭天王」社が、後に「天皇」と表記され、その地の地名になった。
(B)近畿天皇家の天皇が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(C)九州王朝の天子(天皇)が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(D)九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下の当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗ったことにより、「天皇」地名が付けられた。
(E)当地の権力者の意思とは関係なく、あるとき誰かが勝手に「天皇」地名を付け、周囲の人々もその地を「天皇」と呼ぶようになった。

 以上のような可能性を考えられますが、恐らくは一元史観に基づく(A)の解釈が有力視にされていると思われます。たとえば、『朝倉村誌』(注①)には、「野田・野々瀬の須賀神社 朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)」と説明されています。〝大和朝廷の天皇以外に天皇はなし〟という一元史観では、こうした解釈を採用するしかないのでしょう。

 (B)のケースは、同じく『朝倉村誌』に見える「與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事 (中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也」(下巻、1731頁)があります。しかし、この説明は後代の大和朝廷の時代になってから造作されたものではないでしょうか。この点、後述します。

 (C)のケースとしては、久留米市の大善寺玉垂宮にあったと記録されている「天皇屋敷」があります。
「〔御船山ノ社官屋敷ノ古圖〕に開祖安泰東林坊〈大善寺等覺院座主職なり今は絶て其跡天皇屋敷といふなり〉(後略)」『太宰管内志』(注②) ※〈〉内は細注。

 この「天皇屋敷」の由来は未調査ですが、筑後地方は九州王朝の中枢領域であり、「倭の五王」時代には筑後地方に遷宮していたと思われますので(注③)、九州王朝の天子(天皇)との関係を想定してもよいかと思います。しかし、この場合でも地名が「天皇」と名付けられたわけではありませんので、朝倉村の地名としての「天皇」のケースと同じではありません。

 (D)のケースに相当するのが、朝倉村など愛媛県東部地域に散見する「天皇」地名ではないかと考えています。この点、後述します。

 (E)は検証困難な仮説ですし、一介の人物が権力称号「天皇」を地名に採用し、それを周囲も使用するということは起こりえない現象と思われますので、今回の検証作業からは除外することにします。(つづく)

(注)
①伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)〈歴史図書社、1969年(昭和44年)、中巻162頁〉
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第3119話 2023/09/21

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (2)

次の中国史書(正史)に百済伝があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』(注①)。百済王の名前については次のように記されています。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
○『南斉書』:「百済王牟大」「大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「王須」、「王餘映」、「王餘毗」、「慶」(餘毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟太」「太」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『南史』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟大」「大」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『魏書(北魏)』:「百済王餘慶」「餘慶」。
○『周書(北周)』:「王隆」、「昌」(隆の子)。
○『隋書』:「王餘昌」「昌」、「餘宣」(餘昌の子)、「餘璋」「璋」(餘宣の子)。
○『北史』:「王餘慶」「餘慶」、「隆」、「餘昌」(隆の子)、「餘璋」(餘昌の子)。
○『旧唐書』:「王扶餘璋」「璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。
○『新唐書』:「王扶餘璋」「璋」「百済王扶餘璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘豊」「豊」(旧王子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。

この中で、百済王の姓について具体的に記されているのが『周書(北周)』と『北史』です(注②)。

○『周書(北周)』:「王姓は扶餘氏(注③)、於羅瑕と号し、民は鞬吉支と呼んでいる。」
○『北史』:王姓は餘氏、於羅瑕と号し、人々(百姓)は鞬吉支と呼んでいる。」

扶餘は百済の故地とされており(注④)、その国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかります。例外としては『南斉書』の「牟大」「牟都」、『梁書』の「牟都」「牟太」、『南史』の「牟都」「牟大」で、何故かこの二人の百済王は「牟」を姓としているように見えます。(つづく)

(注)
①使用した版本は次の通り。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『新唐書』は汲古閣本、『旧唐書』は百衲本。
②訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)による。
③百衲本による。汲古閣本は「大餘」とする。
④『魏書(北魏)』には「百済国其先出自扶余」とある。
『周書(北周)』は「百済者其先蓋馬韓之属国扶餘之別種」とあり、百済国を扶餘国の別種とする。
『旧唐書』は「百済国本亦扶餘之別種」とする。
『新唐書』は「百済扶餘別種也」とする。


第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。


第3112話 2023/09/13

〝興国の大津波〟の

     伝承史料「前代御系譜」

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した『津軽系図略』(注②)、『津軽古系譜類聚 全』(注③)は、いずれも国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」にあるものですが、〝興国の大津波〟についての記事はその「前代御系譜」(注④)にも見えます。残念ながら編纂年次は不明ですが、冒頭に「先年御布告 前代御系譜」、末尾に「口達」「四月」「御家老」という記載がありますので、江戸期成立と推定されます(注⑤)。同系図の初代は「秀郷」で、「大織冠藤原鎌足之裔左大臣魚名第四男伊豫守藤成之曾孫」との説明が記されています。〝興国の大津波〟記事は、十四代目「秀光」の次の傍注に見えます。

 「左衛門尉、或左衛門佐、従五位上、又左馬頭。小字藤太。時有海嘯、大圯外濱之地。十三ノ城、亦壊。故城于大光寺居之。正平四年十二月五日卒、年五十五、葬于宮舘」〔句読点は古賀による〕

〔釈文〕左衛門の尉(じょう)、或いは左衛門の佐(すけ)、従五位上、又、左馬頭。小字は藤太。時に海嘯有りて、外濱之地を大いに圯(こぼ)つ。十三ノ城、亦壊れる。故にここ大光寺を城とし、之に居す。正平四年(1350年)十二月五日卒、年五十五、ここ宮舘に葬る。〔古賀による〕

 この記事では「秀光」の没年齢を「五十五」としており、「五十一」とする他史料(『津軽系図略』『津軽古系譜類聚 全』)とは異なります。また、海嘯の発生により、「外濱之地」(津軽半島の北東部)も大きな被害があったとしています。これも他史料(同前)には見えません。

 更に微妙な問題として、海嘯の発生年次が記されていないことがあります。「東日流外三郡誌」の場合はほとんどが「興国二年(1341)」、『津軽系図略』には「興国元年(1340)」とされています。そして、『津軽古系譜類聚 全』には「秀光」の治世中を意味する「此時」とあり、具体的な年次は記されていません。もしかすると、それら史料の編纂時には、海嘯発生を興国元年とする史料と興国二年とする史料が併存していたため、どちらが正しいのか不明なため、具体的年次を記さない系図が成立したのではないでしょうか。他方、秀光の没年は「正平四年」と具体的に書いていることを考えると、年次に複数説があり、どちらが正しいのか判断できない場合は、「此時」という幅のある表記を採用したのではないかと思います。

 なお、秀光の没年齢が「五十五」であり、他史料の「五十一」とは異なっていますが、その理由が誤記誤伝なのか、もし誤記誤伝ならば、なぜそうしたことが発生したのかは未詳です。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
④「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。
⑤長谷川成一「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」(『季刊 邪馬臺国』53号、梓書院、1994年)では、「『前代御系譜』は文化九年の写であると推察される。」とする。


第3110話 2023/09/11

興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)に、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が紹介されています。この〝興国の大津波〟については、他の史料にも記されています。和田家文書「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンには、〝興国の大津波〟は「東日流外三郡誌」のみに見られる記事であり、史実ではないとする主張もあるようです。しかし、管見では〝興国の大津波〟は他の史料中にも見えます。その一つ、「津軽系図略」(注②)を紹介します。

 「津軽系図略」は明治十年に編集発行された津軽氏の系図です。初代を藤原秀榮(ヒデヒサ。同系図には藤原基衡の第三子秀衡の舎弟とあります)とし、弘前津軽家の大浦為信(津軽為信)を経て、明治九年に没した昭徳(アキヨシ)まで記されています。冒頭の8代は次のようです。

○秀榮 ― 秀元 ― 秀直 ― 頼秀 ― 秀行 ― 秀季 ― 秀光 ― 秀信 ―(以下略)

 7代目の秀光の傍注に次の記事が見えます。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」

〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れた。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 海嘯(かいしょう)とは、地震による津波、あるいは満潮の影響で河口に入る潮波が河を逆流する現象です。「十三城が壊る」とあるのは、13の城が壊れたということではなく、十三湊にあった居城(十三城・トサ城)が壊れたと解されます。というのも、初代秀榮の傍注に「康和中陸奥國津軽、江流澗郡、十三ノ港城ヲ築テ是ニ住ム」とあり、その後、秀光が平賀郡の大光寺に築城するまで、居城が代わったという記事が同系図には見えないからです。

 同系図の傍注記事で注目されるのは、〝興国の大津波〟が「東日流外三郡誌」に見える興国二年(1431)ではなく、興国元年(1430)とされていることと、「八月」や「これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。」と、内容が具体的であることです。津軽藩主の遠祖からの系図ですから、いわば〝津軽家公認〟の史料に基づく系図と思われ、民間で成立した「東日流外三郡誌」とは史料性格が異なっています。そうした双方の史料中に〝興国の大津波〟が伝承されていることから、興国年間に津軽が大津波に襲われたことは史実と考えざるを得ません。起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要など考えにくいのです。

 以上の考察から、「東日流外三郡誌」は津軽の貴重な伝承史料集成であり、研究に値する史料であると考えられます。常軌を逸した偽作キャンペーンにより、学界がこうした史料群の研究を避けている状況は残念と言うほかありません。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。


第3109話 2023/09/10

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (3)

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)には、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が引用されています。次の通りです。

〝3.津波の史料・伝承
「東日流外三郡誌」は全6巻の活字体で刊行されており(八幡書院(ママ)、東京大崎)、十三湊の津波に関する史料はその一部分である。都司(1989)は詳しく検討し、「人為的な虚構で補われたとみられる記事が、本来の伝承と渾然一体となって記され、史料の価値を低下させている」と論評した。史料の一つとして、安部水軍四散録には次のようにある。
「興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安部水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く、(中略)波浪に亡命生存のあてもなく惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や亦、鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さなが(ママ)の生地獄なり」(注②)とある。後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。(中略)
そのほか、水戸口での地変の記事が注目される。地震による地殻変動または津波で起こされた漂砂か、近年の津波でも港口付近でときどき起こる現象である。
中世には、十三湊の集落は地盤高2m前後の低地にあったことが検証され、現在よりも津波災害を受けやすい状態であったようだ。壇臨寺は、津波で流出したと伝えられている。湖面を基準にハンドレベルで測ると、跡地の地盤高は約1.5mである。津波の高さが4m程度に達すれば、流出の可能性があろう。〟

 以上のように、羽鳥さんは「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の描写を「後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。」と、伝承すべき貴重な史料と捉えています。地震学者のこの警鐘を、和田家文書偽作説により埋もれさせてはならないと思います。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②この記事の出所を調べたところ、『東日流外三郡誌2』(八幡書店版)の「安倍水軍四散禄」(509~510頁)であった。若干の文字の異同・脱字があるため、八幡書店版の記事を転載する。
「安倍水軍四散禄
興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安倍水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木と埋土に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く再びその安住地を求め何処へか去りにけり。
亦、波浪に亡命生存のあてもなき惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や、亦鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さながらの生地獄なり。
安倍一族が栄えし十三湊、今は昔に復すこと叶ふ術もなし。」


第3108話 2023/09/09

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (2)

 地震学者の羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)はフィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという研究者で、「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注①)との〝格言〟を遺しました。この格言を自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして、『東日流外三郡誌』を論文に紹介しています。それは、「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注②)という論文です。論文冒頭の「1.はじめに」には、次のように記されています。

 〝青森県北津軽郡市浦村の十三湖周辺には、縄文時代の石器土器のほか、中世のころの国内各地の陶器や韓国・中国製の清(ママ)磁・白磁の器が大量に出土し、城跡や社寺の史跡が点在する。十三湊(とさみなと)は、鎌倉時代から室町時代にかけて地方豪族安藤(安東)氏が支配し、貿易都市として繁栄していたという。それが「地震と津波で消滅」という伝承が、地元で根強く語り伝えられている。十三湖口には、1983年日本海中部地震を記念する「津波の塔」が建てられ、興国の津波で死亡十万余人の文字が刻まれている。
(中略)最近、歴史民族(ママ)博物館・富山大学による発掘調査では、集落跡の遺構に津波の痕跡が見当たらず、津波説を否定した。
一方、筆者らは(羽鳥・片山、1977)日本海沿岸での津波調査の一環として、初めて興国津波を取り上げた。出典は、江戸中期に津軽地方の歴史・地誌を収録した「東日流外三郡誌」によったのである。同誌は明治時代に創作が加えられ、都司(1989、1994-5)は歴史家の評価と同じく偽書と断定し、津波を疑問視している。(中略)
本稿では十三湖近海に波源域を想定して津波の挙動を検討し、問題点を整理してみる。〟

 このあとの「3.津波の史料・伝承」で、「東日流外三郡誌」に記された興国2年の大津波の記事が紹介されます。(つづく)

(注)
①「思則有備」(https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)では、羽鳥氏の格言の出典を、読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」と紹介している。
②羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。


第3107話 2023/09/08

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)

 今回は古代史から離れて、地震学者の羽鳥徳太郎さんについて紹介します。羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)は東京大学地震研究所で活躍された歴史地震学者で、古田先生と同世代の方です(注①)。専門は歴史津波・津波工学とのこと。和田家文書の研究をしていて、偶然、羽鳥さんのことを知りました。
なお、東大の地震研究所とは、少々御縁があります。古田先生が立ち上げた国際人間観察学会(注②)の会報「Phoenix」No.1(2007)を、同研究所に所属する津波歴史地震研究室で発行していただいたことがあります。同誌には拙論「A study on the long lives described in the classics」を掲載していただきました。同稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する研究で、「古田史学の会」ホームページに採録されていますので、ご覧下さい。

 羽鳥徳太郎さんは、フィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという学風で、それは古田先生の研究スタイルと同じです。その羽鳥さんの格言がWEB上の「思則有備」(同①)で紹介されていましたので、転載します。

 羽鳥徳太郎(1922~2015 / 歴史地震学者・元東京大学地震研究所)の「歴史津波に学ぶ」記事の名言 [今週の防災格言554]
「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注③)

 この格言を羽鳥さんは自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして『東日流外三郡誌』を論文に紹介されました。(つづく)

(注)
①羽鳥徳太郎氏の研究業績と略歴(「思則有備」より。https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)。

 津波規模階級mを提案するなど、生涯にわたり一貫して歴史津波と津波被害の調査・研究を行った人物。特に、北海道の奥尻島に20mの大津波が襲い、対岸の渡島半島の町村にも津波が襲来し、230人が亡くなった北海道南西沖地震(1993年)の発生前となる1984(昭和59)年に、過去に日本海側で起きた津波の発生年や地理的分布や規模を元にその危険性を指摘。また、東北の太平洋沿岸を襲った歴史津波である貞観地震(869年)や慶長三陸地震(1611年)が、東日本大震災(2011年)に匹敵するほどの「最大級の大津波だった」ことを1975(昭和50)年に初めて論文で報告したことでも知られる。

 1922(大正11)年東京生まれ。

 1941(昭和16)年、東京大学地震研究所に入り、高橋竜太郎研究室で津波研究に従事。

 1944(昭和19)年、旧制東京高等工業学校機械科(夜間)を卒業。戦時召集され近衛歩兵第三連隊で終戦を迎え、戦後は地震研究所に戻り研究を続けた。昭和南海地震(1946年)、チリ地震津波(1960年)、新潟地震(1964年)、十勝沖地震(1968年)など各地をまわって津波の現地調査を行い、日本各地の津波の到達時間や波源域図をまとめた。

 1954(昭和29)年技官、1964(昭和39)年助手、1974(昭和49)年講師となり

 1983(昭和58)年東京大学地震研究所を停年退官。退官後も歴史地震の津波調査を続け、亡くなるまで研究を続けた。

 2015(平成27)年12月6日、埼玉県川口市で逝去。93歳。

②国際人間観察学会は古田先生による命名で、会長は百瀬伸夫氏、副会長は荻上紘一氏、特別顧問が都司嘉宣氏。

③「思則有備」に〝格言は読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」より〟と紹介されている。


第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3105話 2023/09/05

好太王碑文の「從抜城」の訓み (2)

 好太王碑文中の「從抜城」の訓みについて、通説では固有の城名と見られているようで、『好太王碑論争の解明』(注)でも同様の釈文が採用されています。碑文第二面の次の文です(便宜的に句読点を付し、改行しました)。

十年庚子。教遣步騎五萬往救新羅。
從男居城至新羅城。
倭滿其中。官軍方至、倭賊退。
□□□□□□□□□背急追。
至任那加羅從拔城、城即歸服。

 文法的には「任那加羅の從拔城に至れば、城はすぐに歸服した。」と読めますので、「從拔城」を固有名とする理解が成立します。他方、「從」を「より」、「拔城」を「城を抜く」の意味もあり、その場合、どのように読めばよいのか難しいところです。文法的には固有名として読む方が穏当ですが、城の名前として「從拔城」などとネガティブな命名をするだろうかとの疑問も抱きました。そこで、碑文中の全ての城名を確認したところ、「敦拔城」「□拔城」(第二面)という名前の城がありました。したがって、「從拔城」も同様に固有名と考えてもよいようです。

 なお、城名にネガティブな漢字(卑字)が使用されていることについては、攻略した百済などの城に対して卑字使用が高句麗側によりなされたと考えることもできそうです。なぜなら次のように卑字の「奴」を持つ城名があり、あるいは「仇天城」などという物騒な城名も碑文にあるからです。ちなみに、碑文では百済のことを「百殘」「奴客」と記しており、あきらかに高句麗側による卑字使用(書き変え)が認められます。

○「豆奴城」(第一面)
○「閨奴城」「貫奴城」(第二面)
○「巴奴城」(第三面)
○「豆奴城」「閏奴城」(第四面) ※第一、二面の「豆奴城」「閨奴城」と同じ城と思われる。

 以上の考察から、「從拔城」は固有名と考えた方が妥当との結論に至りました。「多元の会」のリモート研究会では〝固有名とは考えにくいのではないか〟と発言しましたので、ここに訂正させていただきます。

 なお、通説の読みでも「至任那加羅從拔城」は難解です。なぜなら、「從拔城」が任那にあるのか加羅にあるのか、わかりにくいからです。この点、今後の課題です。

(注)藤田友治『好太王碑論争の解明』新泉社、1986年。314頁。