古賀達也一覧

第3001話 2023/04/29

多元的「天皇」併存の新試案 (2)

七世紀(九州王朝時代)での「天皇」号研究を始めてから、いくつもの難題に突き当たっています。その一つが『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲天皇」と「越智天皇」でした。「洛中洛外日記」でも考察の一端を発表しましたが(注①)、未だ自信が持てる仮説提起には至っていません。とは言え、「天皇」史料を概観して、ある試案を思いつきました。七世紀、九州王朝の時代には近畿天皇家に限らず、多元的に「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする作業仮説(多元的「天皇」併存試案)です。

この試案に至った背景には、次の史料事実を多元史観・九州王朝説の立場からは、どのような説明が可能だろうかという問題意識がありました。

(a) 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注②)にある「中宮天皇」は近畿天皇家の天皇とは考えにくく、九州王朝系の女性天皇ではないか(注③)。

(b) 筑紫大宰府の他に「吉備大宰石川王」が『日本書紀』天武紀に見えるが、吉備にも「大宰」を名のることを九州王朝から許された「有力者(石川王)」がいた。そうであれば筑紫大宰と吉備大宰が併存していたことになり、「大宰」という役職が九州王朝下に多元的に併存していたことになる。

(c) 愛媛県東部の今治市・西条市に、「天皇」「○○天皇」地名や史料が遺っている(注④)。管見では、このような情況は他地域には見られず、この地域に「天皇」地名などが遺存していることには、何らかの歴史的背景があったと考えざるを得ないのではないか。

このような疑問に突き当たっていたとき、『大安寺伽藍縁起』の「仲天皇」と「袁智天皇」を考察する機会を得て、多元的「天皇」併存試案であれば説明できるのではないかと気付いたのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
②同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟
同「洛中洛外日記」2332話(2020/12/24)〝「中宮天皇」は倭姫王か〟
④合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのことである。


第3000話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (2)

 井上光貞説では、「大宝律令」の編纂開始は文武四年(697)、九州年号の大化三年からとされています。すなわち、「大宝律令」は九州王朝の時代、大化年間に編纂された言わば〝大化律令〟とでも称すべきものなのです。この理解(史実)は様々な問題を惹起します。その一例を紹介します。
『令集解』戸令には下記のように「古記同之」とあることから、古記とされた「大宝戸令」には、行政単位「郡」を採用したことがわかります。

〝凡郡以廿里以下。十六里以上。爲大郡。(中略)〔古記同之。〕〟『令集解』巻第九 戸令一(注①)。〔〕内は細注。

 これは戸令の一部ですが、「大宝戸令」編纂時の七世紀末は九州王朝が制定した行政単位「評」の時代です。ところが、ここでは既に「郡」としていますから、大化三年(697)頃、近畿天皇家は王朝交代後に「評」から「郡」に変更する意志を固めていたことがうかがえます。従って、荷札木簡などが701年以降は全国一斉に「郡」表記に変更されているという出土事実もあり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代がほぼ平和裏に、周到な準備のもとに行われたと理解せざるを得ません。
こうした王朝交代直前の権力移行準備が九州年号「大化」年間に行われていることを考えると、この「大化」という年号の字義「大きく化す」にも注目せざるを得ません。これは王朝交代を前提にした年号かもしれません。そうであれば、「大化」への改元を実質的に決めたのは持統ら近畿天皇家だったのかもしれません。九州年号で見ると、持統の藤原宮遷都が朱鳥九年(694)十二月になされており、その翌年には「大化」へ改元しています。すなわち、大化年間の藤原宮では〝大いなる変化〟=王朝交代へとまっしぐらに突き進んでいたのではないでしょうか。
こうした推定が正しければ、大化九年の翌年(704)に九州年号は「大長」に改元されていますが、この「大長」の字義にも何かいわくがありそうです。もしかすると「大長」は、王朝交代を快く思わない九州王朝の残存勢力により、〝大いに長ず〟という希望を込めた年号だったのでしょうか。しかし、大長九年(712)で九州年号は終わりを告げています。その年に九州地方で反乱があり、大和朝廷により鎮圧された痕跡が『続日本紀』に見えます(注②)。その後も九州王朝の残影が『万葉集』などに遺されているようです(注③)。稿を改めて紹介したいと思います。(おわり)

(注)
①『国史大系 令集解 第二』吉川弘文館、昭和四九年(1974)。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③赤尾恭司氏(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が「古田史学リモート勉強会(2023年4月8日)」他で、「天平時代の「筑紫」の様相…西海道節度使に関する万葉歌を手掛かりとして」を発表している。


第2999話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (1)

九州王朝律令の研究をしていて、改めて気付いたことがありました。それは、大和朝廷の最初の律令、「大宝律令」は九州王朝の時代、七世紀末に編纂されたという事実です。具体的には九州年号の大化年間(695~703年。注①)、おそらくは文武天皇即位前後の697~700年頃に撰定作業が行われたと考えられています。なお、「大宝律令」が大和朝廷にとって初めての律令であることについて、『古代は輝いていたⅢ』(注②)に古田先生による次の指摘があります。

〝その一つは、大宝元年(七〇一)に「律令を撰定す。是に於て始めて成る」(『続日本紀』文武天皇)の記事であり、その二は、「大宝元年を以て律令初めて定まる」(威奈大村骨蔵器、慶雲四年=七〇七)の金石文だ。両者そろって“七世紀以前に、近畿天皇家制定の律令なし”の事実を、率直に告白していたのである。〟(ミネルヴァ書房版、316頁)

この「大宝律令」の撰定時期について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀 一』(注③)では次のように説明されています。

〝井上光貞は撰定の過程を以下のように整理している(「日本律令の成立とその注釈書」『著作集』一)。大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており、文武四年三月の(1)においてそれを朝廷官人に披露するとともに、大宝律の撰成に入り、同年六月の(2)において大宝令の編纂終了にともなう編纂者への賜禄の儀が行われた。〟(『続日本紀 一』287頁)

ここでの(1)(2)とは次の『続日本紀』の記事です。

(1)文武四年(700)三月甲子、詔諸王臣読習令文。又撰成律条。
(2)文武四年(700)六月甲午、勅浄大参刑部親王、…等、撰定律令。賜禄各有差。

「大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており」とする井上光貞説によれば、文武立太子の持統十一年(697)二月か、即位した文武元年(697)八月の直後に大宝令の編纂が開始されており、その年は九州年号の大化三年に当たります。そして大宝律令編纂を完了したのが文武四年(700)で、これは大化六年に当たります。(つづく)

(注)
①701年の王朝交代後も九州年号「大化七年~九年(701~703年)」「大長元年~九年(704~712年)」が続いたとする次の拙稿がある。
「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』、古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2007年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同上。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年。
「九州年号『大長』の考察」同上。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。
③新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2998話 2023/04/27

「九州王朝律令」復元研究の予察 (6)

古田先生は七世紀の九州王朝律令について、次のように考察しています(注)。本テーマの締めくくりとして紹介します。

〝その半世紀余りあとの多利思北孤の時代、中国の天子のみならず、新羅王も律令制のもとにあった。そのような東アジアの世界の中で、「天子」を自称した多利思北孤が、律令をもたぬはずはない。「天子―年号」と同じく、「天子―律令」もまた、いわば必然のセットだったのである。(中略)
『隋書』俀国伝によると、次のようにのべられている。
其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは皆死し、盗む者は贓(ぞう)を計りて物を酬(むく)いしめ、財無き者は、身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。……争訴罕(まれ)に、盗賊少なし。
(中略)
また右の文中には「死」「贓」「没」「流」「杖」といった用語が点綴されている。これらはいずれも律令用語だ。すなわち俀国の律令なのである。〟(ミネルヴァ書房版 153~154頁)

史料に見える九州王朝律令の断片を紹介されたものですが、もっとも重要な指摘は、中国南朝律令の影響下に九州王朝律令が成立したとする次の指摘です。

〝以上と対照すれば、中国側の法概念と同類の法概念が倭国側にもまた存在したこと、それを疑うことはできにくい。(俀国側は、磐井系列であるから、南朝系の法概念であろう)。
すなわち北朝系の「日没する処の律令」と同じく、南朝系の「日出づる処の律令」もまた、筑紫の地に存在していたのである。〟(ミネルヴァ書房版 154~155頁)

〝このような新視点に立つとき、唐制に依拠したはずの「大宝律令」に南朝系の条句が見られるという、法制史上著名の難問も、何の苦もなく解決しうるであろう。なぜなら、九州王朝系の律令は、当然ながら南朝系の律令を核心としていたからである。先にあげたように、「浄御原朝廷」(持統朝)は、九州王朝系の「令」に依存しており、大宝律令も、これを准正とした旨、『続日本紀』大宝元年項に明記されているからである。〟(ミネルヴァ書房版 317頁)

以上の古田先生の指摘によれば、九州王朝律令復元研究には中国南朝律令の研究も重要であることがわかります。(おわり)

(注)古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2997話 2023/04/26

多元的「祝詞」研究の画期、正木説

 昨日、奈良市で開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(注①)を拝聴しました。テーマは〝倭国から日本国へ ⑤盗まれた「広瀬神・竜田神」の祭礼、他〟で幅広いテーマを扱った講演でした。わたしが最も刮目したのが、「広瀬神・竜田神」祭礼の淵源を九州王朝(筑後・肥後)とする仮説でした。それは、「龍田風神祭」祝詞の内容「悪しき風」が、肥後地方の地名(立野)や風害(まつぼり風。穀物を枯らせ、甚大な被害を与える肥後地域〈立野火口瀬周辺〉特有の強風)に見事に対応していることなどを明らかにするものでした。

〝五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこ)なふ〈略〉悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ、〈略〉吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾が宮は定め奉り〟「龍田風神祭」祝詞『延喜式』

 この正木さんの新説を知るまで、わたしは同祝詞を奈良県の龍田神社近辺で成立したものとばかり思い込んでいました。それが本来は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の周辺で成立したものということに驚きました。
古田史学では、古田先生による「大祓の祝詞」研究(注②)が著名です。「六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)〈十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〉」の祝詞が、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中域。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峰近辺)において作られたとする研究です。今回の正木説は、古田先生以来の祝詞研究で、画期をなすものと思いました。正木説に刺激されて、多元的祝詞研究が更に進むことと期待されます。

(注)
①古代大和史研究会(原幸子代表)主催、奈良県立図書情報館。毎月一回の開催で、今回で50回を迎えたとのこと。
②古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年。


第2996話 2023/04/25

多元的「天皇」併存の新試案 (1)

 古田説では「天皇」号について、(A)九州王朝(倭国)の天子をナンバーワンとして、九州王朝が任命したナンバーツーとしての「天皇」(701年の王朝交代前の近畿天皇家)という概念と(注①)、(B)九州王朝の天子が別称として「天皇」を称するケースを晩年に提起(注②)されました。すなわち、九州王朝時代における天子(上位者)と天皇(下位者)という位づけ「天子≠天皇」(A)と、[天子=天皇(別称)」とする(B)の概念です。わたしは(A)の概念(旧古田説)を支持していますが(注③)、古田学派内では(B)を支持する見解(注④)もあり、まだ論議検討中のテーマです(注⑤)。
他方、古田武彦著『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』(注⑥)には、古代史料に見える「天皇」号について次のように述べています。

〝(前略)日出処天子というのは筑紫の天子です。
それに対して近畿天皇家のほうは大王です。その点については七世紀前半の史料と思われる法隆寺の「薬師仏造像記」をみると、はっきりわかります。ここでは用明天皇のことを「天皇」、推古天皇を二回にわたって「大王天皇」といっています。中国の『資治通鑑』という史料をみると唐代のところで第三代の天子の高宗は「高宗天皇」と表現されています。天皇というのは「殿下」などのような敬称なのです。その上にくるものが問題なので、高宗天皇といえば天子に対する敬称であり、大王天皇といえば大王に対する敬称となるのです。つまり「大王は天子ではない」のです。しかし七世紀前半に多利思北孤は天子を称していました。〟ミネルヴァ書房版、143頁。

 この古田先生の解説は難解です。前半では、用明や推古の「天皇」「大王天皇」号を多利思北孤(天子)の下位・ナンバーツー「天皇」表記で、古田説(A)に対応しています。ところが後半では、「天皇」は「殿下」などのような敬称とされ、天子(高宗)でも大王(用明、推古)でも使用できるとするものです。この理解ですと、位付けとは直接関係のない、「殿下」のような一般的な敬称として「天皇」号が使用できることとなり、その場合は(A)の「天皇」号とは異なる概念になるのではないでしょうか。したがって、「天子の別称」とする(B)に近いのかもしれません。いずれにしても難解な解説ですので勉強を続けます。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」朝日新聞社刊、1985年。
②古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
同『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、2014年。
③古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年6月。
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
④西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」『古田史学会報』162号、2021年。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「九州王朝の天皇はどう呼ばれたか」『東京古田会ニュース』208号、2023年。
⑤九州王朝のナンバーワン称号を「法皇」とする次の論稿がある。
日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。
⑥古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、1993年。ミネルヴァ書房より復刊。


第2995話 2023/04/24

待望の復刊、

 『関東に大王あり』(ミネルヴァ書房)

 三月の「古田史学の会」関西例会に、古田先生のご子息の古田光河(こうが)さんが参加され、例会終了後の懇親会にもお付き合いいただきました。亡き先生の思い出話に花が咲きました。ご家族でなければ知らないような先生の一面をお聞きでき、とても楽しい一夕でした。
そのとき、ミネルヴァ書房から復刊される先生の著書のことを聞くことができました。出版不況の最中、古田武彦の本でも復刊が難しく、光河さんのご尽力により、ようやく復刊に至ったとのことでした。それが、この度、ミネルヴァ書房より刊行された『関東に大王あり 稲荷山鉄剣の密室』(注)です。同書は1979年に㈱創世記から出版され、2003年には新泉社から「新版」として復刊された好著です。今回は新泉社版を底本に復刊したことが、光河さん(復刊編集責任)の解説にあります。
本書の中心は、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣銘の多元史観による読解です。その結果、関東にあった古代王権の実在を論証され、論は、熊本県江田船山古墳出土の鉄剣名、関東の金石文明、『宋書』倭国伝へと及びます。
古田学派の研究者に、是非、読んで頂きたいのが巻末の「学問の方法」です。わたしは古田先生から〝学問は方法が大切です。学問の方法を間違えば、結論も間違うからです〟と厳しく言われ続けました。古代史ファン、古田ファンの皆さんに、この一冊を推奨します。

(注)古田武彦『関東に大王あり 稲荷山鉄剣の密室〈古田武彦古代史コレクション28〉』ミネルヴァ書房、2023年。


第2994話 2023/04/23

『九州倭国通信』No.210の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.210が届きました。同号には拙稿「巨勢楲田朝臣の灌漑伝承 ―新撰姓氏録の中の九州王朝―」を掲載していただきました。拙稿は、『新撰姓氏録』「右京皇別 上」に見える、巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)による七世紀中頃の灌漑事業記事(注①)を、浮羽郡における九州王朝系伝承としたものです。「九州古代史の会」は福岡県を中心として活動する団体ですので、わたしはなるべく九州地方に関係した論稿の投稿を心がけています。
当号には兼川晋さんのご逝去(本年二月五日没)を悼む記事が掲載されており、同氏が亡くなられたことを知りました。兼川さんは福岡市のテレビ局(テレビ西日本)で活躍され、「九州古代史の会」の前身「市民の古代研究会・九州支部」創設者のお一人です。古くからの古田先生の支持者で、古代史の本の編訳(注②)もされています。「市民の古代研究会・九州支部」はわたしが「市民の古代研究会」事務局長時代に創設されたこともあり、古田先生をお招きして創立記念講演会を福岡市で開催したことは懐かしい思い出です。
古くからの古田史学支持者や古田ファンが次々と物故され、寂しい限りです。残された者の使命として、古田先生の学問・学説、そしてその学問精神を過たず後世に伝えなければと、改めて決意しました。兼川さんのご冥福をお祈り申し上げます。

(注)
①『新撰姓氏録』右京皇別上に次の記事が見える。
「巨勢楲田朝臣
雄柄宿禰四世孫稻茂臣之後也。男荒人。天豊財重日足姫天皇〔諡皇極〕御世。遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長楲。川水灌田。天皇大悦。賜楲田臣姓也。日本紀漏。」
②李鍾恒著・兼川晋訳『韓半島からきた倭国』新泉社、1990年。


第2993話 2023/04/22

「九州王朝律令」復元研究の予察 (5)

 大和朝廷と九州王朝の戸令のように類似していたと推定できるものがある一方で、恐らくは大きく異なっていたであろうと思われるものもあります。それは軍防令です。
『養老律令』には七十六条からなる「軍防令第十七」があります。それらはいわゆる陸軍・陸戦・陸地での行動などに関する条文で、海軍や海戦に関係する条文は見えません。すなわち、大和朝廷の軍事行動(戦闘行為)が陸上で行われることを前提にした律令なのです。言い換えれば大和朝廷は海上武装軍団を有していないことの証でもあります。このことは、白村江戦を戦ったのは大和朝廷ではないということを示唆しています(注①)。
それに比べると、九州王朝(倭国)は663年の白村江戦(注②)を筆頭に、『宋書』に見える倭王武の上表文に「渡平海北九十五國」とあるように朝鮮半島に何度も軍事侵攻していますから、渡海のための輸送船団や海戦のための海軍を有していたことを疑えません。あるいは『万葉集』に見える「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」(注③)の歌からも、倭国軍は海戦を戦ってきたことがうかがえます。
以上の考察により、九州王朝は強大な海軍を有していたと考えられ、そうであれば軍防令には海軍の兵士・水夫の訓練、海戦・輸送を担う船舶の維持管理に関する条文があったはずです。従って、九州王朝と大和朝廷の軍防令には大きな差異があったと思われるのです。(つづく)

(注)
①このことを中小路俊逸氏(故人、追手門学院大学元教授)からお聞きした。
②『三国史記』新羅本紀によれば千艘の倭国海軍が白村江(白沙)で唐・新羅軍と戦い、敗北を喫している。『旧唐書』劉仁軌伝には、倭舟四百艘が白江の戦いで焼かれたとある。
③『万葉集』巻十八の「賀陸奥国出金詔書歌」、大伴家持作。


第2992話 2023/04/21

「九州王朝律令」復元研究の予察 (4)

670年(白鳳十年)に庚午年籍が全国的に造籍されていることから、九州王朝律令には造籍方法を定めた戸令が含まれていたと考えられます。恐らく、律令による全国統治の都として造営された前期難波宮(難波京)創建時にはこの戸令があったはずです。戸籍は律令制統治にとって重要なシステムだからです。しかも一度造れば終わりというものではなく、定期的な造籍による人名や年齢、家族関係などの把握が必要です。ですから大和朝廷は6年ごとの造籍を戸令で規定していますが、九州王朝も同様であったと考えられます。
九州王朝が6年ごとに造籍していたことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
「甲申(十九日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

大化二年(646)に、初めての造籍・班田収授之法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したとあり、このとき初めての造籍が開始されたことがうかがえます。この646年と庚午年籍(670年)の間隔24年が6で割り切れることから、6年ごとの造籍「六年一造」(注①)と整合します。この理解が妥当であれば、九州王朝による最初の全国的造籍は646年のこととなります。この最初の戸籍をわたしは九州年号を用いて「命長七年籍」と命名しました(注②)。
他方、大化元年(645)八月五日条の「東国国司詔」は、九州年号の大化元年(695年)のこととする正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の有力説があり(注③)、その場合は、大化二年正月条の造籍記事も大和朝廷による初めての造籍(持統十年籍・696年、九州年号の大化二年)と捉えるべきかもしれません。この問題は古田学派内でも諸説あり(注④)、やや難解ですので、別の機会に詳述したいと思います。(つづく)

(注)
①「大宝律令」戸令には「戸籍、六年一造~」とあったと復元されている。
②古賀達也「洛中洛外日記」2163~2165話(2020/05/30~31)〝造籍年間隔のずれと王朝交替(1)~(3)〟
「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立―」『古田史学会報』159号、2020年。
③正木裕「盗まれた国宰」『古田史学会報』91号、2009年。
「『東国国司詔』の真実」『古田史学会報』101号、2010年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2555~2566話(2021/09/04~13)〝古田先生との「大化改新」研究の思い出(1)~(9)〟


第2991話 2023/04/20

5月の津軽調査の目的と準備

 「洛中洛外日記」2979話(2023/04/05)〝来月、津軽へ調査旅行します〟で紹介した津軽(弘前市)での和田家文書調査に備えて、「東日流外三郡誌」を久しぶりに精読しています。調査報告と研究成果については、5月の和田家文書研究会(注①)や「古田史学の会」関西例会(5月20日)で発表の予定です。
今回の調査の目的は次の3点です。
(1)現存する和田家文書の精査、
(2)当地の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんとの交流、
(3)藤本光幸さん(注②)の墓参です。

 同氏は、わたしが30年前に和田家文書調査を始めたときからお世話になった恩人で、竹田侑子さんの実兄にあたります。なお、藤本さんの父方は天内(あまない)家ご出身とのことで、「東日流外三郡誌」や和田家文書の「天内家文書」にも記された一族です。同「天内家文書」を藤本邸で見せて頂きました。古田先生67歳、わたしが38歳のときの懐かしい想い出です。そのときの先生と同じ年齢になったわたしが、藤本さんのお墓参りをすることに不思議な縁(えにし)を感じます。「東日流外三郡誌」が、津軽へ、真実へと、わたしを導いているのかもしれません。

 これからの和田家文書研究テーマの一つとして、実現したいことがあります。それは和田家文書史料批判のアプローチとして、同史料群の分類とその方法論の確立です。具体的には、次のようなグループ分けが可能なのか、適切なのかを検討しています。

【和田家文書群の分類(試案)】

(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行し始めた機械梳き和紙が主流。

(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。大福帳などの裏紙の再利用が多いようである。

(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数である。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出しているものによく見られるようだ。

 この他に「寛政原本」など江戸期成立と鑑定された史料が少数あり(注③)、これらの貴重史料は(S群)に分類しようかと考慮中です。こうした分類が可能であれば、次は分類ごとに史料批判を行い、その史料がどの分野の研究に有効であるかの検討へと進み、最終的には史料の内容がどの程度の信頼性を有しているかの検証作業になります。

 まずは上記分類の可能性と妥当性について検討を続けます。こうしたことも「秋田孝季集史研究会」や「和田家文書研究会」に提起できればと、調査旅行の準備に明け暮れています。

(注)
①東京古田会が隔月で開催。本年1月から和田家文書調査報告をリモート発表させていただいている。次回、5月13日には「『東日流外三郡誌』の考古学」を発表予定。
②藤本光幸氏(2005年10月没)は『東日流外三郡誌』を世に紹介した人物で、北方新社版『東日流外三郡誌』の編集者。次の遺稿と拙稿を参照されたい。
藤本光幸「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察1」『古田史学会報』71号、2005年。
同「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察2」『古田史学会報』72号、2006年。
同「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察3」『古田史学会報』73号、2006年。
「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察4」『古田史学会報』75号、2006年。
古賀達也「洛中洛外日記」39話(2005/10/25)〝故・藤本光幸さんのこと〟
③古田武彦氏が「寛政原本」として発表された「東日流内三郡誌」など6史料で、笠谷和比古氏(国際日本文化研究センター研究部教授)の鑑定による。


第2990話 2023/04/19

「九州王朝律令」復元研究の予察 (3)

「九州王朝律令」復元のためにはどのようなアプローチが有効なのか、いろいろと考えています。その発端となったのは、四月二日に橿原市で開催されたシンポジウム「徹底討論 真説・藤原京」(注①)で講演したとき、会場から「九州王朝律令とはどのようなものか」というご質問があったことです。わたしは次のように返答しました。

「九州王朝律令は現存せず、内容は不明です。古田学派にとっても復元研究はこれからの課題ですが、七世紀の状況や断片史料などから推定できることはあります。例えば、670年に庚午年籍が全国的に造籍されており、従って、造籍方法を定めた戸令が九州王朝律令に含まれていると考えられます。」

このような返答にとどまったこともあり、基礎的調査だけでも行っておこうと、本テーマの連載を始めました。
『養老律令』では戸籍を6年毎に造籍することや、三十年間経過したら廃棄すること、庚午年籍だけは永久保管することなどを定めています(注②)。恐らく九州王朝律令の戸令でも同様の規定があったと考えています。なぜなら、『日本書紀』に6年毎の造籍の痕跡が見えることと(注③)、九世紀段階でも庚午年籍が全国的に保管されていることから(注④)、九州王朝戸令で永久保管を命じていたので、701年の王朝交代時まで廃棄されることなく遺っていたと考えざるを得ないからです。

(注)
①「シンポジウム 徹底討論 真説・藤原京」古代大和史研究会(原幸子会長)主催、古田史学の会後援。
②養老戸令に次の条文が見える。
「凡そ戸籍は、六年に一たび造れ。(中略)凡そ戸籍は、恒に五比(30年)留めよ。其れ遠き年のは、次に依りて除け。近江の大津の宮の庚午の年の籍は、除くことせず。」『律令』(日本思想大系、岩波書店、1976年)による。
③古賀達也「洛中洛外日記」2163~2165話(2020/05/30~31)〝造籍年間隔のずれと王朝交替(1)~(3)〟
「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立―」『古田史学会報』159号、2020年。
④『続日本後紀』承和六年(839)正月条には、諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことが記されている。