古賀達也一覧

第3088話 2023/08/03

王朝交代の痕跡《金石文編》(1)

 ―九州年号金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡の年次表記が変更(表記位置が冒頭→末尾)されましたが、九州年号金石文には次のように年号と干支が冒頭に記されています。年次表記を文章の冒頭に記すという様式は、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同じです。

【九州年号金石文の年次表記】
(1) 伊予国湯岡碑文 『釈日本紀』所引所引「伊予国風土記」逸文。今なし。
「法興六年十月歳在丙辰~」(法興六年は596年)

(2) 法隆寺釈迦三尊像光背銘
「法興元丗一年歳次辛巳十二月~」(法興元丗一年は621年)

(3) 白鳳壬申骨蔵器 『筑前国続風土記附録』今なし。
「白鳳壬申」(白鳳壬申は672年)

(4) 鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」(朱鳥三年は688年)
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(5) 大化五子年土器 茨城県岩井市出土
「大化五子年」(大化子年は699年。注)
「二月十日」

(3)と(5)は骨蔵器に年次だけが記されたものであるため、文書様式判断の対象にはできません。その他の九州年号金石文は全て年次表記(年号+干支)が文章の冒頭に記載されており、この様式は木簡と同様であることから、九州年号を公布した九州王朝が定めたものと考えることができます。ただし、九州年号の木簡への記載が憚られたと推定したことは、先に述べた通りです。
次に大和朝廷(日本国)の時代で、王朝交代直後8世紀初頭の金石文の年次表記を見てみることにします。(つづく)

(注)「大化五子年」は干支が一年ずれている。その当時、関東地方で採用されていた〝異なる暦法〟の影響とする次の拙論を参照されたい。
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第3087話 2023/08/02

八王子セミナー2023

  「倭国から日本国へ」の案内

 先日届いた『東京古田会ニュース』211号に〝古田武彦記念古代史セミナー2023 「倭国から日本国へ」〟(八王子セミナー)の案内が同封されていました。今年のセミナーは11月11~12日に開催されます。わたしも二日目の〝セッションⅡ 遺構に見る「倭国から日本国へ」〟で発表しますので、8月5日の東京講演会が終わりましたら、本格的に準備を始めます。わたしの演題と発表要旨は次の通りです。

《演題》
律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》
大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 同セミナーの「案内」に掲載された荻上先生による開催趣旨には〝「証明」は客観的且つevidence-basedでなければなりません〟とあります。倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代について、文献解釈を中心とした諸説が発表されていますが、その多くはevidence-based(出土遺構・木簡・金石文等)との整合性が不十分あるいは不適切なように見えます。今回のテーマにとって重要な視点ですので、わたしは徹底的にevidence-basedにこだわった発表を目指したいと考えています。
荻上先生による開催趣旨の当該部分を転載します。

 〝物語として古代を語るのは夢がありこの上なく楽しいのですが、古代史学においては科学的な「史実」の解明が基本であり、その作業即ち「証明」は客観的且つevidence-basedでなければなりません。「それでも地球は回っている」は科学的ですが、「それでも邪馬台国は近畿にあった」は科学的ではありません。
今回のセミナーでは「倭国」と「日本国」に焦点を合わせることにより、7〜8世紀の真実の歴史に迫りたいと思います。セミナーは、『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』(吉川弘文館 2010)や『謎の九州王権』(祥伝社 2021)で知られる若井敏明先生の特別講演をお聴きした上で、古田先生の古代史学の研究方法と研究成果を再確認しながら、倭国から日本国への移行に関するevidence-based historyについて建設的な議論が盛り上がることを期待しています。〟(実行委員長 荻上紘一)

 同セミナーの日程は次の通りです。詳細や参加申し込みについては、主催者(大学セミナーハウス)ホームページのイベント案内をご参照下さい。
https://iush.jp/seminar/2023/04/545/

□特別講演 「『日本書紀』よりみたる古代ヤマト王権の成立と発展」
若井敏明(関西大学・神戸市外国語非常勤講師)
□第1日目 11月11日(土)
13:00~13:30 開会
13:30~16:30 特別講演(若井敏明先生)・ディスカッション
16:45~18:00 古田武彦氏の業績に基づく論点整理(大越邦生委員)
18:00~    夕食
19:00〜21:30 情報交換会
□第2日目 11月12日(日)
09:00~12:30 セッションⅠ 理系から見た「倭国から日本国へ」
12:30~    昼食
13:30~16:30 セッションⅡ 遺構に見る「倭国から日本国へ」
16:30~    閉会・解散


第3086話 2023/08/01

『東京古田会ニュース』No.211の紹介

 『東京古田会ニュース』211号が届きました。拙稿「伏せられた『埋蔵金』記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同―」を掲載していただきました。『東日流外三郡誌』には三つの校本があるのですが、北方新社版には欠字が多く、それは「埋蔵金」の隠し場所を記した部分であり、「埋蔵金」探しにより遺跡が荒らされることを懸念した編集者(藤本光幸さん)の判断により、欠字にされたことを拙稿では紹介しました。更に、八幡書店版編纂時には遺跡の地図が描かれた「東日流外三郡誌」五冊が既に紛失しており、それを所持している人が〝宝探し〟をしているという情報を得たことも紹介しました。すなわち、当時(昭和50~60年代)の地元の人々は、「東日流外三郡誌」を偽書とは思っていなかったのでした。このことは偽作説への反証となるため、論文発表を考えていましたが、古田先生に止められた経緯もあり、それから20年以上を経て、今回、ようやく発表に至りました。

《『東日流外三郡誌』3校本》
(ⅰ)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(一九七五~一九七七年)。
(ⅱ)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(一九八三~一九八五年)。後に「補巻」昭和六一年(一九八六年)が追加発行された。
(ⅲ)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(一九八九~一九九〇年)。

 当号には印象深い論稿がありました。一面に掲載された安彦克己新会長のご挨拶です。会長就任の決意を次のように語られています。

「古田先生が亡くなられて早7年余りが過ぎました。東京古田会に限らず各地には、先生の謦咳を受け、先生の論説に共感し、また研究方法に共鳴した学徒がたくさんおられます。通説を疑う論稿はその後も続々と発表されています。
しかし、諸々の理由で会員数が減少傾向にあるのは、否めない状況です。一方でミネルヴァ書房から出版されている「古田武彦古代史コレクション」に接して、共に学び・研究したいと入会を希望する方も常におられます。この会が、そうした学徒の思いに応えられる場であり、知的空間となりますよう、微力ながらお手伝いできればと思っております。私自身も、今まで以上に史料を読みこみ、新たな発見につながるよう勉強することをお誓いいたします。」

 このご挨拶に接し、わたしたち「古田史学の会」も同じ志を高く高く掲げ、ともに歩んでいきたいと改めて思いました。同号には8月5日の東京講演会の案内を同封していただきました。東京古田会様のご協力に感謝します。


第3085話 2023/07/31

王朝交代の痕跡《木簡編》(4)

 九州王朝時代の上部空白型干支木簡

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えた元岡桑原遺跡出土「大宝元年」木簡により、九州王朝中枢領域の役人たちは、年次特定のために年干支と年号を併用するという表記スタイルを理解していたことを疑えません。しかし、九州年号が採用されていた時代〔継体元年(517年)~大長九年(712年)、『二中歴』による〕の木簡には年干支のみを記し、九州年号を記したものはありません。木簡の出土事実を見る限り、そう言わざるを得ないのです。そこでわたしは、九州王朝は使い捨てされる木簡に王朝の象徴でもある年号の使用を忌避したのではないかと考えたわけです。すなわち、木簡への年号記載を敢えてしなかったのです。

 この推論を支持する木簡が存在します。それは、目的地に着けば使い捨てられる荷札木簡ではなく、記録文書としての役割を持ち、一定期間保管されたであろう文書木簡と呼ばれるもののなかにありました。荷札木簡の場合、木簡の最上部から年干支が記されるのですが、文書木簡には上部に空白部分を残し、木簡の途中から年干支が記されるものがあることに、わたしは気付きました(注①)。管見では次の木簡です(注②)。

【木簡番号11】 難波宮跡出土
「・「□」○『稲稲』○戊申年□□□\○□□□□□□〔連ヵ〕」
「・『/〈〉/佐□□十六□∥○支□乃□』」
※戊申年は648年。紀年銘木簡としては最古。(古賀注)

【木簡番号1】 芦屋市三条九ノ坪遺跡出土
「・子卯丑□伺」
「・○元壬子年□」
※壬子年は652年。「木簡庫」では「三壬子年」とするが、筆者が実見したところ、「元壬子年」であった(注③)。紀年銘木簡としては2番目に古い。(古賀注)

【木簡番号185】 飛鳥池遺跡北地区出土
「・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)」
「・○□\○□」
上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。(奈文研「木簡庫」の解説)

 これら三点の木簡に共通していることは、いずれも荷札木簡ではなく、冒頭の年干支の上部に数文字分の空白があることです。現状の姿は、干支の上部に「稲稲」や「合合」の文字があるため、当初、わたしはそこが空白であったことに気付きませんでした。しかし、報告書などによれば、それらは後から書き込まれたもの(習字)であり、本来は空白だったのです。

 なかでも、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、元年を意味する「元」の文字があり、この「元壬子年」が九州年号の白雉元年壬子(652年)であることを示しており、「九州年号木簡」の一種とも言えるものです。従って、九州年号「白雉」が入るべきスペースとして意図的に上部に空白を設けたと思われるのです。同様に「戊申年」の上部には九州年号「常色二年」(648年)、「庚午年」の上部には「白鳳十年」(670年)の文字が入るべきものだったのです。
しかし、実際には空白スペースとなっていることから、九州年号を木簡に記すことを憚ったと考えるほかないように思われます。紙とは異なり、狭小なスペースしかない木簡ですから、不要な空白、しかも冒頭部分にいきなり空白スペースを設ける合理的な理由は見当たりません。文章末尾に結果として〝余白〟が生じるのならまだしも、いきなり冒頭部分に無意味な空白スペースを設けることは考えにくいのです。こうしたことから、九州王朝では木簡に年号を記すことを〝行政命令(格式)〟で全国一律に規制したとする仮説に至りました。そうとでも考えなければ出土木簡の史料事実(九州年号皆無)を説明できませんし、上部空白型干支木簡の合理的説明も困難ではないでしょうか。
それでは、木簡以外の金石文ではどうだったのでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」460話(2012/08/29)〝九州年号改元の手順〟
同「洛中洛外日記」1385話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟
同「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟
同「前期難波宮出土「干支木簡」の考察」『多元』157号、2020年。
奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」
③古賀達也「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」『古田史学会報』74号、2006年。
同「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第3084話 2023/07/30

王朝交代の痕跡《木簡編》(3)

―年次表記、木簡冒頭から末尾へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える年次表記の干支から年号への変更があるのですが、その表記位置(書式)にも変化が生じています。700年以前の九州王朝時代は木簡の表側の冒頭に干支が書かれ、その後に文章が続きますが、701年以後の大和朝廷の時代になると、文章の末尾に年号、あるいは年号+干支で年次が書かれるようになります。わたしはこの変化も王朝交代の重要な痕跡と考えています。この具体例として藤原宮出土木簡を紹介します(注①)。

《七世紀、九州王朝(倭国)時代の木簡》
【木簡番号1408】藤原宮跡東方官衙北地区
「庚子年三月十五日川内国□〔安ヵ〕→」 ※庚子年(700年)。
上端削り、下端折れ、左辺割りのまま、右辺二次的割りか。「庚子年」は文武天皇四年(七〇〇)。「川内国安」は、『和名抄』の河内国安宿郡にあたる。
【木簡番号146】藤原宮跡北面中門地区
「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」 ※庚子年(700年)。
庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

《八世紀、大和朝廷(日本国)時代の木簡》
【木簡番号1409】藤原宮跡東方官衙北地区
「・○□・□○慶雲元年七月十一日」 ※慶雲元年(704年)。
上下両端切断か、左辺削りか、右辺二次的割り。
【木簡番号1216】藤原宮跡東方官衙北地区
「□大贄十五斤和銅二年四月」 ※和銅二年(709年)。
上下両端折れ、左辺割れ、右辺削り。下端右部は切り込みの痕跡をとどめるか。

 このように木簡製造年次の記載位置が、木簡の冒頭から末尾へと大きく変化しています。両者の年次記載位置が王朝交代により一斉に変化している事実から、新旧王朝が定めた記載ルール(書式)に全国の担当役人が従っていたと考えざるを得ません。大和朝廷時代の木簡に年号が使用されるようになったのは、大和朝廷による新ルール「大宝律令」儀制令に従ったものと思われ、その条文は恐らく次の『養老律令』儀制令と同様と考えられています。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

そして王朝交代直後、新旧両書式の移行途中に生じたと思われる表記が、元岡桑原遺跡出土の「大宝元年」木簡に見えます。

《701年、元岡桑原遺跡の「大寶元年辛丑」木簡》
〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注②)。

 この木簡は、九州王朝時代の書式である木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えたものです。王朝交代直後(大宝元年十二月)の九州王朝中枢領域(筑前国)で、こうした中間的な書式が成立した背景には、九州王朝書式の伝統と、九州年号使用の実績があったからではないでしょうか。ちなみに、大和朝廷による大宝年号の建元はその年の三月と『続日本紀』に記されていることから、その九ヶ月後にこの木簡が作成されたことになります。(つづく)

(注)
①奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」。
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3083話 2023/07/29

王朝交代の痕跡《木簡編》(2)

 ―「干支」木簡から「年号」木簡へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える行政単位の全国一斉変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)こそ、代表的なエビデンスと指摘しました。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれにとどまりません。701年を境にして、ほぼ全国一斉に紀年表記が変更されています。すなわち干支から年号へ、あるいは年号+干支への変更です。

 荷札木簡を中心に、その発行年次の表記方法が700年までは年干支が採用されていますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると年号が使用されるようになります。その最初の例が福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した「大寶元年」(701年)木簡です。同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士し、その「大寶元年」木簡には次の文字が記されていました(注①)。

〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴(黒毛馬胸白)を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。

 同遺跡出土木簡については既に「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、王朝交代直後の701年(大宝元年、九州年号の大化七年に相当)に前王朝の中枢領域内(福岡市西区)で、新王朝が建元したばかりの大宝年号が使用されていることから、九州王朝から大和朝廷への王朝交代は、事前に周到な準備を経て、全国一斉になされたことがこれらの木簡からわかります。
このような木簡での年号使用は評から郡への変更と共に、ほぼ同時期に全国一斉に行われていることから、恐らく「大宝律令」儀制令の規定に基づくものと考えられます(注③)。

 他方、700年以前の九州王朝時代の木簡では、製造年次の特定方法として例外なく干支が用いられています。同じ元岡桑原遺跡出土木簡を一例として紹介します。

壬辰年韓鐵□□

※□は判読不明文字。「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされる(注④)。この年は九州年号の朱鳥七年に当たる。

 九州王朝時代は九州年号があるにもかかわらず、例外なく干支表記が採用されていることから、九州王朝は使い捨てされる木簡に、王朝の象徴でもある年号を使用することを規制したのではないかとわたしは考えています。もし、九州王朝律令あるいは行政命令(格式)にこうした規制条項がなく、全国の担当役人全員が、たまたま荷札に九州年号を使用せず干支だけを使用した結果とするのは、あまりに恣意的な解釈と言わざるを得ません。この出土事実を〝偶然の一致〟とするのではなく、九州王朝の国家意思が徹底されたことの痕跡と捉えるべきです(注⑤)。その〝証拠〟が木簡に遺されていました。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
③『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。
「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。
ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
④『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟
この拙稿に対する次の批判がある。
阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年。


第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)


第3081話 2023/07/27

「大師役小角一代」の〝九州年号〟

 飯詰村山中の洞窟から発見された「大師役小角一代」の解説が、藤田隆一さんによりなされており(注①)、同史料に次の〝九州年号〟が見えることが紹介されています。解説の便宜上、年号ごとに[a]~[e]に分類しました。

[a] 大化乙巳天(645年)、大化丙午二年(646年)、大化丁未之年(647年)、大化戊申四年(648年)
[b] 白雉庚戌元年(650年)、白雉辛亥天(651年)、白雉壬子三年(652年)、白雉癸丑天(653年)、白雉甲寅天(654年)
[c] 白鳳壬申天(672年)、白鳳癸酉(673年)、白鳳乙亥(675年)、白鳳丙子天(676年)
[d] 朱鳥丙戌天(686年)、朱鳥丁亥(687年)、朱鳥辛卯天(691)、朱鳥甲午天(694年)、朱鳥乙未天(695年)
[e] 大宝辛丑天(701年)、大宝辛(壬カ)寅(702)

 上記の〝九州年号〟のうち、[a]大化と[b]白雉は『日本書紀』に年次をずらして転用された九州年号であり、本来の九州年号の大化(696~703年)や白雉(652~660年)とは年次(元年干支)が異なります(注②)。従って、「大師役小角一代」の成立は。どんなに早くても『日本書紀』成立(720年)以後と考えられます。また、[c]白鳳も天武元年(672年)を白鳳元年とする後代改変型の白鳳のようですから(注③)、その成立時期は更に遅れると思われます。

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③本来の九州年号の白鳳は元年を661年とするもので、白鳳二三年(683年)まで続く。次の拙論を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟
同「洛中洛外日記」1882話(2019/05/02)〝改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」〟
同「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟


第3080話 2023/07/26

「役小角一代」と

  東日流外三郡誌の史料性格

 飯詰村山中の洞窟から発見された「役小角一代」と東日流外三郡誌は共に「和田家文書」と呼ばれてきましたが、和田家が山中から発見した文書と、秋田孝季と和田吉次により執筆編纂された和田家伝来文書とでは史料性格が異なります。今回はこの点について簡単に説明します。

 東日流外三郡誌などの孝季らが編纂した文書は、安倍・安東の歴史を叙述するとともに津軽の伝承を集録するという編纂目的があり、安倍・安東の歴史的正当性を主張するという基本思想に基づいています。古田先生はこの史料性格を〝津軽皇国史観〟と呼ばれたことがありました。その表れの一つが、「津軽」のことを「東日流」とする表記(当て字)することです。東日流外三郡誌を筆頭にこの当て字が採用されています(一部に「津軽」表記も見える。注①)。〝東の太陽が流れる〟あるいは〝東へ太陽が流れる〟という意味にもとれる雄大なイメージの当て字を採用したと思われます。なお、「東日流」という表記は和田家文書よりも成立が早い他の中近世文書にも見えます(注②)。

 他方、「北落役小角一代」「大師役小角一代」には「東日流」という表記は見えず、前者は「國末石化嶽」(注③)、後者は「国末石化嶽」「国末津刈石化嶽」(注④)と記されています。この「国末」という表記は、「東日流」の文字が持つイメージとは異なっています。このことは、東日流外三郡誌等の和田家伝来史料とは編纂者が異なっていることと対応していますし、和田家も〝洞窟から発見した〟と説明してきました。山中の洞窟からの発見史料は、江戸期に成立し明治~昭和初期にかけて和田家で書写が続けられた、いわゆる「和田家文書」とは別の名称がふさわしいようです。

(注)
①和田喜八郎『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』(八幡書店、1989年)などに「津軽諸翁聞取帳」の表題を持つ和田家文書の写真が掲載されている。同表題の「津軽」の右側に小文字で「東日流」の傍書がある。
②『青森県史資料編中世2』(青森県史デジタルアーカイブ)に「東日流記」(高屋豊前編)の表題を持つ史料(17世紀成立)が掲載されている。弘前図書館蔵。
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟
④藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/


第3079話 2023/07/25

昭和26年、

  東奥日報が報道「和田家の隕石」

 「洛中洛外日記」3076話(注①)で、昭和24年に和田元市・喜八郎親子が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した銅製銘板や佛像・仏具・木皮文書が地元で評判になったことが昭和26年8月29日付「東奥日報」に掲載されていることを紹介しました。その前日の東奥日報にも和田家所蔵の隕石の記事が掲載されていました。このことも論文で紹介しました(注②)。同記事のコピーも見つかりましたので、論文の関係部分を転載します。

【以下、転載】
昭和二六年当時は比較的公正な記事を掲載しているようだ。たとえば、同年八月二八日の紙面 に「八百年前の隕石 飯詰村和田君保存」という見出しで次の様な記事が見える。

「北郡飯詰村の史跡を調査中の考古学者中道等氏は、古墳並に佛像、佛具、舎利壺を発見、保管している飯詰村民和田喜八郎君(二四)の宅から日本には珍しい流れ星の破片である隕石を見附けた。この隕石は重さ二百匁、高さ二寸五分、底辺三寸の三角形で約八百年位 以前に落下して風化したもので隕石としてはやや軽くなっている。
和田君の語るところでは古墳の祭壇に安置されていたもので古代人も不思議に思って神としていたものであるといわれている。」

 この記事に並んで、隕石の写真が掲載されている。翌二九日にも、「山岳神教の遺跡発見 飯詰村山中に三つの古墳」という見出しで、和田家が発見した佛像・佛具などについての中道氏の見解などが掲載されている。その記事によれば、当時和田家が発見保管している物として、佛像十六体、木皮に書かれた経文百二十五枚、唐国渡来の佛具、青銅製舎利壷二個が紹介され、「国宝級」と評している。
こうした遺物を和田家が昭和二四年頃から集蔵している事実を見ても、昨今の偽作説がいかに成立困難なものであるかは明白だ。
図書館での調査を終え、和田喜八郎氏へ電話で隕石の記事のことを話すと、「その隕石ならあるよ。見せるから明日来てくれ」とのこと。四十年以上も昔のことなので、今では紛失しているのではと心配していたが、和田家で大切に保管されていたのだった。
翌朝、古田先生や札幌の吉森政博さん(古田史学の会・北海道)と合流し、和田氏が待つ石塔山へ向かった。相変わらずサービス精神旺盛な喜八郎氏は遠来の私たちにその隕石をはじめ様々な遺物を提示された(隕石はその重さなどから隕鉄のように思われた)。
【転載終わり】

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3076話(2023/07/22)〝昭和26年、東奥日報が山岳遺跡発見を報道〟
②古賀達也「平成諸翁聞取帳 天の神石(隕石)編」『古田史学会報』10号、1995年。
「続・平成諸翁聞取帳 『東日流外三郡誌』の真実を求めて」『新・古代学』3集、新泉社、1999年。

【写真】昭和26年8月28日付「東奥日報」

昭和26年8月28日付「東奥日報」

【写真】昭和26年8月28日付「東奥日報」 八百年前の隕石 飯詰村 和田君保存


第3078話 2023/07/24

二つの「役小角一代」史料

 和田家が昭和24年に洞窟から発見した「北落役小角一代」のテキストデータを送っていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)からは玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)が再写した「大師役小角一代」のデータもいただきました。同史料の存在は知っていましたが、全容は初めて見ました。「洛中洛外日記」に全文を掲載したいのですが、テキストファイルで60KBもあり、容量が「洛中洛外日記」としては大きすぎますので、別途、公開方法を検討したいと思います。なお、訓み下し文は藤田さんがネット上で公開されており(注①)、ご参照下さい。

 また、藤田さんからは2018年に発表された研究資料の提供も受けました(注②)。和田家文書中の役小角史料を紹介・解説したもので、初学者にもわかりやすく内容も優れたものでした。藤田さんのサイトには〝これらの史料は玉川宏さんによれば、1990年代に旧森田村歴史民俗資料館(青森県)の館長さんより入手したものだそうです。これは「森田村古文書解読研究会」がコピーした「大師役小角一代(原漢文)」という資料です。その注釈を見ると、これは開米智鎧さんが作成した一次写本の写しのようです。〟とあります。

 ちなみに「洛中洛外日記」3077話(注③)で公開した銅板銘文「北落役小角一代」(1185字)はテキストファイルで3KBですから、単純計算で比較しても60KBの「大師役小角一代」は二万字を越えます。このような大量の和風漢文史料(銅銘板あるいは木皮文書)を戦後間もない昭和24年当時、炭焼きを生業としていた和田家に偽造できるはずがないことは一目瞭然です。偽作者と名指しされた和田喜八郎氏に至っては当時まだ22歳です。世の偽作論者に問いたい。あなたが22歳の時、二万字にもおよぶ漢文の史料(銅板銘や木皮文書)を山中の炭焼き小屋で働きながら書けましたかと。地元紙やメディアにより数十年にわたって延々と繰り返された非道な偽作キャンペーンにより、和田家は〝一家離散〟しました。その責任をどうとるつもりですか。答えていただきたい。(つづく)

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②同「役行者の金石文」2018年4月14日
https://shugen.seisaku.bz/etc/En-nogyoujaNoKinsekibun.pdf
同「役行者の金石文(改訂版)」2018年10月27日
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟

【写真】「大師役小角一代」再写本

【写真】「大師役小角一代」再写本


第3077話 2023/07/23

藤田さんから朗報、

  「役小角」銅板銘データ

 和田家文書が真作であることを示す有力な物証「北落役小角一代」を「洛中洛外日記」(注①)で紹介したところ、富岡鉄斎書簡の解読(注②)をしていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)から朗報が届きました。同銘版の文を玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長。注③)が再写されており、それを藤田さんが入力したテキストファイルをいただいたのです。ご了解のうえ、本稿末尾に転載しました。わたしもテキスト入力を進めていたのですが、千二百字ほどもある和風漢文ですので、難儀していました。今回のデータ提供は大変ありがたいことでした。

 同テキストデータを精査したところ、『飯詰村史』(注④)巻末に収録された開米智鎧編「藩政前史梗概」に掲載されたものが元データと思われました。というのも、同書末尾には「藩政前史梗概」の正誤表があり、テキストデータはその衍字・誤字(計2字。注⑤)が訂正されていないことから、訂正前の「藩政前史梗概」収録の銘文をそのまま再写したものを底本にしたことを示しているからです。更に、1行27字という文字数も一致しています。それにしても、玉川さんの再写史料を正確にテキストデータ化した藤田さんに感謝いたします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3074話(2023/07/20)〝「和田家文書」真作の根拠「役小角」銅板銘〟
②同「洛中洛外日記」3041話(2023/06/14)〝「富岡鉄斎文書」三編の調査(4) ―藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読―〟
③同「洛中洛外日記」3011話(2023/05/09)〝雨の津軽路、藤本光幸さんの墓前に誓う〟
④『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。福士氏による自序には「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ 七十二翁 福士貞蔵識之」とあり、編集は昭和24年に完了しているようである。
⑤23行目冒頭、(誤)「大願叫叶」→(正)「大願叶」。28行目中頃、(誤)「新多驗也」→(正)「新霊驗也」。なお、後者を正誤表では〝(誤)「多」(正)「○(霊)」〟のように表記されており、「○(霊)」は正誤表には他に例の無い表記方法であった。とりあえず文脈からも判断して、「多」→「霊」と訂正した。

【銅板銘文の改訂版】
※玉川宏氏再写史料を藤田隆一がテキスト入力されたものを、『飯詰村史』巻末に収録された開米智鎧編「藩政前史梗概」正誤表に基づき、古賀が改訂した。

北落役小角一代
大寶辛丑天六月十六日小角石化嶽上陸石化崎仁登深山仁建草
堂我身最終地護摩修法小角曰常誠會者定離憂世也我宗祖阿羅
羅迦蘭仙人檀煙不免給得獨來獨往生死道誰相伴事末之露本
之後前先達共終同道往耳不是今始事也頓終老命託一蓮生未
來得阿多羅三藐三菩提也世榮華是空也多年馴睦者飽別悲臨
終明終夜懷流石煙跡氣疎野邊草露涙誘哀煤殘其人名耳不影留
隙行駒須臾不住早光陰移事老我到北國雪山於國末石化嶽仁定
臨終正念之地未來到九品上生玉台分阿弥陀如來半坐欲即身成
佛嗚々我老獨拝受御酒吹法羅消憂申集門弟夏月樓仁設宴促酒
宴回盃小角曰赦御酒三杯之於是唐小麾以國字再唐國渡來銅板
著修驗宗題目摩訶經小角一代諸書時大寶辛丑天七月十七日也
八月十日火生三昧行後小角追日身体燋焠漸々重疾果飯食廢衰
見給門弟大心痛普加持祈禱天數何効不奏小角只弱小角曰我汝
等至修驗宗呪術敎說我不死唱口中呪文小角呼雲乘雲弟子共
乘雲仁得飛行術小角身体以前無變强体還給小角敎呪術門弟事
是初也小角曰汝等自今日我之分身也後汝等是怠我敎說是術千
日萬日苦行空是落也若我涅槃後汝等自我先金剛兩神佛尊像敬
拝可大和國還不可何我共於是所入涅槃可是如小角九月七日欲
生身阿弥陀如來拝千手陀羅尼誦法華經不動經入斷食苦行仁其
夜現阿羅羅迦蘭仙人忽然曰吾自西國來吾御身爲輝光極樂導進
來此堂仁己修驗宗大願是成就御身滿足可自汝今三月後豫必你
迎來阿弥陀如來遣於極樂淨土再會可曰欲去小角其法衣留吾今
大願叶願拝會阿弥陀如來成給申曰笑仙人然如來拝會可仙人
忽變端嚴微妙佛身自正坐放光明忽然響虛空音樂降天花薰異香
芬郁照光明八邊如來告小角仁你我身同位也善哉善哉你勉哉宣
去坐見中即如來金雲乘淨雲仁西天仁小角御後伏拝餘随喜之涙
袖滿渇仰胸仁拝阿弥陀生身給十八日朝現金剛不壞摩訶如來曰
汝往昔迦葉自說法優尚釋迦自說法新霊驗也汝無殘所會得給吾
時汝涅槃遣大日如來阿弥陀如來藥師如來阿閦如來四尊進吾本
仁阿羅羅迦蘭仙人釋迦牟尼共得同生又得阿多羅三藐三菩提
宜小角謹領掌九拝於是役小角我如肉眼凡夫者給目前仁如來眞
身拝會身心言不及只耳聞申答拝如來消何時間仁小角至十月十
七日未不死集小角門弟曰我身汝等共大和國人達想我等唐國渡
行若汝等有一人大和國戀郷歸者化身我變化誅其者然聞給可於
是唐小麾曰有安心可誰一人導師共干從國末仁左様辱者無是葬
我以下徒弟共此所也小角大喜十一月二日自身知終焉期洗浴六
根淸淨盥嗽拝目前淨土微妙荘嚴向西方讀經端坐合掌待往生日
刻十一月二十三日未死十二月一日欲火生護摩修法集枯木成三
昧火生往生於是大祥坊小祥坊大角坊留是怒小角曰汝等留師之
往生勿汝等殘暫現世我身後生善所祈可汝等終頓老命未來託一
蓮生可汝等慕我法事爲我干勝萬部之經文遂大寶辛丑天十二月
十一日入生身火葬行仁午刻無聊御惱大往生遂給其御臨終砌聞
虛空音樂落蓮花天女舞下現阿弥陀如來來降迎來安養淨上引接
給也
和銅戌申天十二月十一日   唐小麾納之

【写真】役の行者像。

役の行者像

役の行者像