古賀達也一覧

第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2936話 2023/02/04

富雄丸山古墳被葬者の出身地

富雄丸山古墳は、中央の主槨と盾形銅鏡などが出土した造出部の副槨からなる〝主従形古墳〟です。この被葬者たちについて、多元史観・九州王朝説の視点で考察します。
「洛中洛外日記」2995話(2023/02/03)〝富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地〟で「富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣(注①)を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要」としたように、南九州出自の有力豪族の可能性が高いように思われます。しかも同古墳が円墳としては日本最大(直径109m)ですし、出土した蛇行剣も最大(2.37m)のものですから、南九州地方トップクラスの有力家系の出身と見ることができます。
こうした南九州の豪族が畿内へ進出(恐らく銅鐸圏への侵攻)は九州王朝の指示によるものと思われますから、その侵攻ルートは瀬戸内海経由ではなく、黒潮に乗って四国南方から紀伊半島方面へと進んだ海上武装軍団だったのではないでしょうか。というのも、難所が多い豊後水道や多島海の瀬戸内を通るよりも、黒潮に乗りストレートに紀伊半島方面に進む方が圧倒的に早くて安全だと思うからです。
この理解が当たっていれば、宮崎県南部や鹿児島県志布志地方の大型古墳群(西都原古墳群、生目古墳群、唐仁古墳群など。注②)が注目されます。この地域であれば宮崎県北部地域よりも、黒潮に乗り紀伊半島方面に進出するのは容易です。
以上の考察に基づけば、富雄丸山古墳出土の「隼人の盾」に似た盾形銅鏡や南九州発祥とされる蛇行剣が出土したことを説明できるのではないでしょうか。更にこの進行方向の矢印(南九州から畿内へ)を重視すれば、従来言われてきたような西都原古墳群中の「畿内型前方後円墳」という呼称は不適切であり、逆に奈良県・大阪府の「南九州型前方後円墳」とするのが穏当となります。

(注)
①主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。
②吉村靖徳『九州の古墳』(海鳥社、2015年)による。


第2935話 2023/02/03

富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地

奈良新聞に掲載された富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡を見て、その形状と文様が平城京跡出土の「隼人の盾」(注①)に似ていることに気付きました。ともに「盾」と称されているのですから、形状が似ていることは当然ですが、盾形銅鏡の上下にある「鼉(だ)龍鏡」文様と「隼人の盾」の逆S字文様も似ています。
鼉龍鏡とは国産鏡の一種で、乳と呼ばれる突起の周りを想像上の動物「鼉龍」が巻き付いた文様のあるのが特徴です。盾形銅鏡には上下二つの鼉龍鏡文様がありますが、その「鼉龍」の巻き方向が上下で反対方向になっています。「隼人の盾」の逆S字の字体も、上と下とで文字のラインの巻き方向が異なります。   更にいえば、盾形銅鏡には鋸歯文があり、「隼人の盾」にも鋸歯文が上下にあります。このように、両者には形状と文様に共通の要素があります。もちろん、両者の年代(四世紀と八世紀)や材質(銅と木材)は異なり、偶然の類似という可能性も否定できません。
しかしながら、わたしは両者の関係は偶然ではないように思います。富雄丸山古墳からは蛇行剣も出土しているからです。この蛇行剣の出土は南九州が最も多く、当地で発祥したと考えられています。「ウィキペディア」では蛇行剣について次のように説明しています。

〝蛇行剣(だこうけん)は、古墳時代の日本の鉄剣の一つ(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身が蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしているため、こう名づけられている。
〔概要〕
西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている。古墳や地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がりをみせている。(後略)〟

以上のように、「隼人の盾」と蛇行剣の発祥の地(注②)が九州地方(南九州)であることから、富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要ではないでしょうか。

(注)
①「ウィキペディア」には次の説明がある。
〝隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾。『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代の考古資料である。
〔概要〕
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。(後略)〟
②主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。


第2934話 2023/02/02

富雄丸山古墳出土「盾形銅鏡」の用途

先日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から奈良新聞(1月26日付)をいただきました。一面には、富雄丸山古墳出土の「盾形銅鏡」のカラー写真が大見出し「類例のない盾形銅鏡」「蛇行剣は国内最大」とともに掲載されていました。関連記事は2面、3面、そして8面(全面カラー写真)にもあり、さすがは地元紙。奈良県民をはじめ、古代史ファンや研究者には貴重な記事と写真が満載でした。
この大ニュースを「洛中洛外日記」で紹介したいと思いましたが、あまりに類例のない出土であり、それを古田史学・多元史観によりどのように解説してよいのかもわかりませんでした。そのため困惑してきたのですが、触れないわけにもいかず、わたしなりに感じている疑問点についてだけでも紹介することにします。
記事によれば、盾形銅鏡や蛇行剣の埋納を〝「辟邪」を期待か〟(同紙3面)との見出しで、和田晴吾さん(兵庫県立考古博物館長)や福永伸哉さん(大阪大学教授)の「辟邪」思想の現れとするコメントを掲載しています。このような捉え方も理解できますが、この「類例のない盾形銅鏡」の本来の用途は「辟邪」だったのでしょうか。橿原考古学研究所の調査によれば、「極めて細かいミクロレベルの研磨痕跡が確認され、鏡と同じ鏡面を作っていることがわかった」とあり、同品を〝鏡〟としてよいようです。しかし、わたしが知りたいのは、この鏡面が通常の銅鏡と同様の凸面なのか、それとも凹面や平面なのかという点です。もし、盾形銅鏡が埋納を前提とした「辟邪」用の特注品であれば、太陽光を拡散反射できる凸面鏡に作ると思うのですが、この大きさ(高さ64㎝、最大幅31㎝、重さ約5.7kg)ですから、日常的実用品として作ったのであれば、被葬者が生前に愛用した〝姿見〟だったととらえることもできそうです。その場合、鏡面は平面か凹面になっていると思われます。ですから、この鏡面の形式を知りたいのです。引き続き、報告書や報道に注視します。(つづく)


第2933話 2023/02/01

『東京古田会ニュース』No.208の紹介

『東京古田会ニュース』208号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』」を掲載していただきました。同稿は本年1月14日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマに対応したものです。同紙にはこのところ和田家文書関連論稿を掲載していただいています。次の通りです。

206号 和田家文書に使用された和紙
207号『東日流外三郡誌』公開以前の史料
208号『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―

209号には「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を投稿しました。併行して、東京古田会主催の和田家文書研究会にもリモートで研究発表をさせていただいています。今月に続いて3月11日(土)も発表予定です。この機会に、三十年前に古田先生と実施した津軽行脚の記録を整理・紹介したいと考えています。
拙稿の他に皆川恵子さん(松山市)の「田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その3 前編」が掲載されています。秋田孝季と同時代の江戸期の史料『赤蝦夷風説考』工藤平助著などが紹介されており、勉強になりました。


第2926話 2023/01/24

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2)

藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が興味深い研究を発表しています(注②)。その論稿中の指摘を要約し紹介します。

(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。

(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。

(3) 七曜紋も粒が大きい。

(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。

(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。

(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。

(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。

この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。阿部さんは富夲銭を九州王朝の貨幣としていますから、藤原宮は九州王朝の天子のために造営されたとする仮説(西村秀己説、注④)からすると、古いタイプの富夲銭を代々秘蔵してきた王権は九州王朝となるのかもしれません。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
④西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから唱えてきた仮説。


第2925話 2023/01/23

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (1)

近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から最多出土した富夲銭に次いで注目されるのが、藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭です。古代国家の中枢建築物の地鎮具として、この様式は示唆的です。すなわち、須恵器壺(平瓶 ひらか)の中に9本の水晶と水が入っており、その口の部分を9枚の富夲銭により塞ぐという様式を持つこの地鎮具には、新王朝(大和朝廷)のどのような国家意思が込められたのでしょうか。わたしはこの様式について、次のようなアイデアを持っています。

(1) 封入された水晶と、口の部分を封鎖している富夲銭の数がどちらも9個であることは偶然ではなく、何らかの意味を持つ数字と考えるのが穏当である。
(2) そこで思い浮かぶのが、古代国家における「九州」という概念である。古代中国では天子の直轄支配領域を九つに分けて統治するという政治思想があり、その国家自身も「九州」と称するようになった。
(3) 倭国(九州王朝)もこの制度・呼称を採用したと考えられ、その遺称地名として「九州」(九州島のこと)がある(注②)。
(4) こうした政治思想を反映した様式であれば、平瓶内に水没している9個の水晶は、当時(七世紀末から八世紀初頭)の倭国(九州王朝)の姿を表現しているのではあるまいか。
(5) そうであれば、その口の部分を封鎖するように置かれた9枚の富夲銭は、貨幣の持つ力(霊力)で〝倭国(九州王朝)を意味する9個の水晶の復活を阻止する〟という大和朝廷の国家意志を表現したものと思われる。

以上のような作業仮説を考えているのですが、前王朝の貨幣である富夲銭を使用した理由や、その富夲銭と飛鳥池出土の富夲銭とは、品質や重量、銭文の字体などが異なっている理由、飛鳥池遺跡でなければどこで鋳造したのかという新たな疑問が次から次へと浮かび上がります。こうしたことについて論じた優れた論文を阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が発表されています(注③)。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。


第2924話 2023/01/22

多元史観から見た飛鳥池出土「富夲銭」

 「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』では和同開珎が大和朝廷(日本国)最初の貨幣と主張しています(注①)。ですから、七世紀以前の貨幣として出土が知られている無文銀銭と富夲銅銭(注②)は九州王朝(倭国)の貨幣と考えざるを得ません。
このことは史料事実に基づいた論理的帰結(論証)ですが、他方、出土事実を子細に見ますと、富夲銭の出土中心が飛鳥池遺跡であることが着目されます。同遺跡は、後の大和朝廷となる近畿天皇家の中枢領域ですから、当地を出土中心とする富夲銭を九州王朝貨幣と見る、先の論証結果とは整合していません。学問研究では、自説に最も不利な史料事実を真正面から受け止めることが大切ですので、この飛鳥池出土の富夲銭について考察を続けています。

フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、飛鳥池出土「富本銭」について次の解説(一部要約しました)があります。

 〝1999年(平成11年)1月、飛鳥池工房遺跡から33点の富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成品に近いものには、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した鋳張りなどが残っている。

 富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』天武12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあることなどから、奈良国立文化財研究所は、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表した。
その後の調査では、不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。〟

この解説で示された重要な事実は次の4点です。

(1) 七世紀頃の近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から富夲銭が最多出土している。
(2) その出土層位は687~700年とされ、富夲銭鋳造が天武期末頃から持統期にかけてなされている。これは藤原宮(新益京)の造営期~完成期に相当する。
(3) 当遺跡での富夲銭鋳造推定量は9000枚とされており、この推定値が正しければ、富夲銭を貨幣として流通させることを意図していたと考えることができる。
(4) 富夲銭のアンチモン含有率が初期の和同開珎とほぼ同じである。

以上の出土事実と、そこから導き出される事象は次のようなものです。

(a) 七世紀第4四半期(恐らく680年代から)の飛鳥では、当地の権力者により本格的な貨幣(富夲銭)鋳造が進められていた。
(b) 富夲銭とその鋳造跡が出土した飛鳥池遺跡からは、「天皇」木簡とともに「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」「大友」など天武の子供達の名前を記した木簡が出土していることから、富夲銭鋳造は「天武天皇」とその「皇子」らにより主導されたと考えざるを得ない。
(c) 同時期に、律令による全国統治のための朝堂院様式の藤原宮(朝廷)と、その中央官僚群(約八千人。注③)の受け入れが可能な巨大条坊都市(新益京)の造営を飛鳥の近傍で進め、701年の王朝交代の準備を行っている。

 このような天武らによる〝国家的事業〟が七世紀の第4四半期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に行われていることは、701年の王朝交代の実像に迫る上で重視すべき現象です。(つづく)

(注)
①新日本古典文学大系『続日本紀 一』(岩波書店、1989年)に次の記事が見え、「和同開珎」(銀銭・銅銭)のことと見られる。
「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。
②「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2922話 2023/01/20

『東日流外三郡誌』

   研究の推奨テキスト (3)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多く、それは埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっているためであることに、わたしよりも早く気づいた人たちがいました。八幡書店版の編纂に携わった同社の関係者たちです。『東日流外三郡誌 別報6』(注②)に次の記事が見えます。

〝市浦版・北方新社版に共通する欠点としては、図版が底本とは似て否なるものであることや勝手に「左」が「右」に訂正されて図版が挿入されたり、その箇所にはない図版が割り込まれたりしていること。埋蔵金などの財宝に関する資料の時にはなぜか伏字が使用されていることなどが判明した。〟

ここにあるように、八幡書店版は先行した市浦村史版(注③)や北方新社版の問題点も把握したうえで、それよりも丁寧な編纂作業が行われていました。同社版が最も優れた校本であると古田先生が指摘された通りでした(注④)。この史料情況の論文発表を古田先生から止められたのですが、その事情を先生は次のように記しています。

〝この「埋蔵金」問題は、土地の人に(青森県西部地方)の関心を“ひそかに”ひきつけつづけていたようです。当然のことでしょう。
その“証拠”に、最初に公刊された『東日流外三郡誌』として知られる「市浦村史資料編」版では、この「埋蔵金」関連かとみられる個所は「脱字」扱いにされているようです。
この点、すぐれた研究者として次々各方面に研究業績をしめしておられる古賀達也さん(京都市)が、すでに早く気づき、これを論文化して発表したい、とのこと。その御意向を知り、その時点では、わたしはあえて「反対」しました。
なぜなら、その当時、いわゆる「偽作説」が世間で話題を奪っていた最中でしたから、その上にこの「埋蔵金」問題が話題となれば、一段と“論点”が混迷し、当事者(和田喜八郎氏も存命中)も“迷惑”するのではないか、と心配したのです。それで、もう少し「発表時期をのばす」ことを提案しました。古賀さんも、賛成してくださったのです。
しかし、もう、時期は変わりました。喜八郎さんに次ぎ、長男の孝さんも亡くなられました。一般の書籍や文庫本、雑誌などでも、「すでに『東日流外三郡誌』の偽書であることは確定した」かに(虚報を)叙述するものも、次々と現われています。その意味では「偽作論争」のさかりの時期は“過ぎた”ようです。
その上、何よりも、この「埋蔵金」問題が、『東日流外三郡誌』の真相を探る上で、不可欠のテーマであること、今まで述べたことでお判りの通りです。
ですから、古賀さんも近く、その所論を発表されることと思います。〟(注⑤)

当論稿をわたしは失念していました。この〝近く古賀から発表される所論〟が未発表のままであることを、今回、秋田市在住の読者Tさん(注⑥)からのお電話で思い出しました。古田先生に「伏せ字」問題の存在を報告した日から20年以上を経て、ようやく「洛中洛外日記」で概要を発表することができました。お問い合わせいただいたTさんに感謝いたします。

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②森克明「『東日流外三郡誌』の編纂を終えて」『東日流外三郡誌 別報6』八幡書店、1990年。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 別報2』八幡書店、1989年。
⑤古田武彦「浅見光彦氏への“レター”」『新・古代学』第8集、新泉社、2005年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html
⑥2023年1月14日に開催された和田家文書研究会(東京古田会主催)で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を古賀はリモート発表した。このとき、青森県弘前市でリモート聴講されていた「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)にTさんは出席されていたとのこと。


第2921話 2023/01/19

『東日流外三郡誌』

    研究の推奨テキスト (2)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多いことに気づき、わたしは欠字部分の調査を行いました。八幡書店版(注②)と比較すると、虫食いや破損による欠字ではなく、埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっていることがわかりました。そこで北方新社版を編集された藤本光幸さん(故人、藤崎町)にそのことを問い合わせると、〝埋蔵金の記事や地図をそのまま掲載すると、埋蔵金探しの発生が懸念されたので、意図的に欠字にした〟とのことでした。実際に、それまでもそうした動きがあり、たとえば和田さん親子(元市さん、喜八郎さん)が炭焼きのために山に入ると、多くの人がぞろぞろと後をつけてきたこともあったとのことでした。「東日流外三郡誌」に記された遺跡の荒廃を防ぐため、藤本さんの配慮により北方新社版には欠字が多かったのです。
更に精査すると興味深い内容が八幡書店版にもありました。同社版『東日流外三郡誌 第六巻〔諸項篇〕』の末尾に掲載されている「底本編成」によれば、「東日流外三郡誌」の第六十三巻・第六十八巻・第七十七巻(ロ本)・第七十八巻・第二百巻付の五冊のみが底本を〔市浦本〕としています。すなわち、八幡書店版編集時にはこの五冊が紛失していたため、先に出版された市浦村史版(注③)を底本に採用したのです。五冊の中身を見ると、埋蔵金や財宝の隠し場所や遺跡を記した地図が収録されていました(注④)。これは偶然による散逸ではなく、埋蔵金の地図が記されていたことが紛失の理由ではないでしょうか。すなわち、その五冊を〝持ち去った〟人物は、「東日流外三郡誌」を偽書とは考えていなかったと思われます。
そこで、わたしは紛失した五冊の所在を調査しました。その結果、「東日流外三郡誌」明治写本を持っている人がいて、財宝探しをしているという情報がNさんから寄せられました。Nさんは津軽調査でお世話になった方で、当地の地理にも詳しい方です。しかし、それ以上の具体的なことは、事情があるようで、教えてはいただけませんでした。
こうした『東日流外三郡誌』刊行時の事情が徐々に分かってきたのです。当時、現地の関係者は「東日流外三郡誌」を偽書とは捉えておらず、むしろ、書かれていることは事実に基づいており、貴重な文書と受け取られてきたようなのです。偽作キャンペーンへの反証として、このことを論文発表しようと古田先生に調査概要を報告しました。ところが、先生からは論文発表を止められました。(つづく)

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④次の「地図」が収録されている。
「宇蘇利国図」「東日流中山図」(第六十三巻)、「安倍蒼海陣記及蒼海諸城図」「蒼海城図追而」(第六十八巻)、「安倍一族秘宝之謎」(第七十七巻ロ本)、「桧山勝山城図」「松前大館之図」(第七十八巻)、「東日流六郡之秘跡」(第二百巻付)。


第2920話 2023/01/18

『東日流外三郡誌』研究

     の推奨テキスト (1)

先週の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただいたのですが、早速、お電話やメールで質問や感想が寄せられ、関心の高さを感じました。青森県弘前市からリモート参加された「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)のTさんからは、『東日流外三郡誌』研究の推奨テキストに関連したご質問をいただきました。
研究会では、『東日流外三郡誌』には次の三つの活字テキストがあり(注①)、(c)八幡書店版が最も優れていると推奨しました。

(a)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
(b)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された(注②)。
(c)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。

(a)市浦村史版は『東日流外三郡誌』約350冊の三分の一程度の収録ですから、研究のテキストとするには不十分です。(b)北方新社版と(c)八幡書店版を比較すると、なぜか欠字が多い(b)北方新社版よりも(c)八幡書店版が優れていると、わたしは判断したのですが、古田先生も早くから同様の見解を示されていました。

「今年(平成元年)は、和田家古文書の全貌が白日のもとにさらされるべき、研究史上、記念すべき年となるであろう。豊島勝蔵・小舘衷三、そして藤本光幸さんや妹、竹田侑子さんたち、研究上の礎石を築かれた諸先輩の驥尾に付し、今年から、新たな研究開始の扉を開かせていただくこと、わたしは今、心を躍らせているのである。
今回、最も本格的にして厳密な校本として、この八幡書店版の刊行の開始されたこと、わたしはこれを無上の幸いとし、全巻の完結を鶴首待望している。(八幡書店版は東日流中山史跡保存会編、一九八九年一月、第一巻刊行。)
(一九八九年二月二八日稿)」(注③)

それではなぜ北方新社版には欠字が多いのか。わたしはこの史料情況に着目し、欠字部分の調査を行いました。その結果、昭和22年に和田家天井裏から落下した和田家文書と、和田家に降りかかった運命の一端を垣間見ることができたのです。(つづく)

(注)
①この他、『車力村史』(1973年)に『東日流外三郡誌』の一部が収録されている。
②同書「補巻」の小舘衷三氏による解題に次の説明がある。
「六巻を刊行した後に、和田家に外三郡志の一部とされる文書類が若干残っていることがわかり、追而編、日下領国風(景)画全八十八景、天真名井家文書の三つを合せて、補巻として刊行することにした。」
③古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 第二巻 別報』八幡書店、1989年。


第2919話 2023/01/17

『九州倭国通信』No.209の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.209が届きました。同号には拙稿「『ヒトの寿命』は38歳、DNA研究で判明」を掲載していただきました(注①)。拙稿は、二倍年暦の傍証になりそうな理系研究の紹介を主内容としているため、当初から横書き掲載を想定して執筆したものです。というのも、わたしの英文論文“A study on the long lives described in the classics”(注②)を紹介するので、横書きにせざるを得ませんでした。

 今回の209号は、横書きの論稿が拙稿や表紙を含め7.5頁を占め、全14頁の過半数を超えています。『九州倭国通信』は横書き主流の新時代に入ってきたようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2839話(2022/09/18)〝「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明〟
②http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf