九州年号一覧

第1291話 2016/10/28

『続日本紀』の年号認識(1)

 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」のタイトルを持つ『古代に真実を求めて』20集の編集作業も本格的な段階に入りました。九州年号(倭国年号)特集号で、古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)以後の九州年号研究の最先端論文と、多くのコラム記事などにより構成された、読んで面白い一冊となりそうです。
 そこで改めて九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したとき、大和朝廷の年号認識がどのようなものであったのかを精査するため、『続日本紀』編者の年号認識について考えてみることにしました。『続日本紀』の成立は797年ですから、九州王朝が滅び、大和朝廷が列島の代表者になって約百年後です。その頃の近畿天皇家の歴史官僚の年号認識に迫ってみます。
 『日本書紀』には九州年号(倭国年号)の大化・白雉・朱鳥が盗用されていますが、『続日本紀』に一番最初に記されている年号が「白雉」です。文武天皇四年(700)三月条の道照和尚崩伝に見える次の記事です。

 「初め、孝徳天皇の白雉四年、使に従いて唐に入る。」『続日本紀』文武四年三月条

 孝徳天皇白雉四年(653)に道照が唐に渡った記事ですが、このことは『日本書紀』白雉四年五月条に記されています。その記事を『続日本紀』でも採用したものです。すなわち、「白雉」を孝徳天皇の年号とする立場に立った記述です。
 ところが翌年の文武天皇五年(701)の三月に「大宝建元」記事が現れます。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』大宝元年三月条

 「建元」とは王朝にとって初めて年号を制定することで、それ以降の年号変更は全て「改元」です。『日本書紀』の「白雉」年号を記載した翌年に「大宝建元」と表記することの矛盾に『続日本紀』編者が気づかないはずがありません。(つづく)


第1281話 2016/10/04

小杉榲邨と喜田貞吉師弟

 『二中歴』国会図書館本の書写者、小杉榲邨(こすぎ すぎむら)氏については「洛中洛外日記」で紹介してきましたが、法隆寺再建・非再建論争で有名な喜田貞吉氏の東京帝国大学時代の恩師が小杉氏で、両氏は同郷(徳島県)だったことを知りました。
 吉川弘文館から発行されている『本郷』(2016.9 No.125)に掲載された千田稔さん(歴史地理学)の「『論争』の流儀 -喜田貞吉のこと-」を読みました。冒頭は次のような書き出しで、うなづけました。

 「学術研究は、つねに論争がつきまとう。健全なことである。いや健全でなければならない。ところが往々にして、喧嘩めいた様相がただよう。「正しい」「誤っている」という対立からもたらされる感情が研究の論理とは、別のところ刺激するからであろう。その点から見れば、研究上の論争は、まことに人間性をひきずっているとも言える。論敵から向けられた言葉の鋭さに、たじろぐこともある。」

 そして、法隆寺再建・非再建論争に喜田氏が関わったいきさつについて次のように紹介されています。

 「さて、法隆寺再建・非再建の論争のことである。喜田にとって法隆寺には関心がなかったが、明治三八年三月の中ごろ、東京帝国大学時代の恩師小杉榲邨(一八三四-一九一〇)先生を訪問したときに論争を知る。(中略)その場で、喜田ははじめて、再建・非再建について議論があることを知るのだが、喜田は、論点も吟味することなく、再建論の立場にあって、自説が否定されつつある恩師を、なんとか救いあげることに立ち上がるのである。研究者としては、信じがたい胆気である。(中略)喜田は、再建論について有利な論証ができるという自信はなかったが、水掛け論程度になら、引き戻せるであろうと、即日、筆を執って、『史学雑誌』と『歴史地理』に反論を発表する。」

 喜田貞吉氏といえば日本古代史学の大先達であり、古田先生の著作にもしばしば紹介される研究者です。わたしも喜田氏の著作や論文を少なからず読みましたが、法隆寺再建・非再建論争に関わった動機が、恩師への応援だったことに、氏のお人柄を初めて知ることができました。
 執筆者の千田稔さんは最後を次のように締めくくられています。

 「恩師を守るために異論に立ち向かうというような人情を現代の研究者がなくしつつあることに気付かせる。(中略)私は、再建論でよしとするが、それにしても、現法隆寺の施主については、複雑な人脈をたどらなければならないであろう。」

 8世紀初頭の和銅年間に法隆寺は再建されたとする見解が通説となっていますが、それでは金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像などが6世紀末から7世紀初頭のものであることの説明が困難です。やはり現法隆寺は7世紀初頭頃の九州王朝の寺院を8世紀初頭に移築したとする移築説が最有力です。そして、千田さんのいう「複雑な人脈」とは、九州王朝(倭国)から大和朝廷への王朝交代のことなのです。
 この『本郷』No.125は他にも面白い記事が掲載されており、大型書店で無料でいただけますので、お勧めです。


第1274話 2016/09/24

水城の敷粗朶工法と傾斜版築

 『季刊考古学』第136号を読んでいるのですが、水城の築造技術について林重徳さん(佐賀大学名誉教授)が書かれた論稿「水城」はとても勉強になりました。今まで漠然と考えていた水城の築造技術がいかに素晴らしく、当時の最先端技術の粋を集めて築造されたことがよくわかりました。
 水城の築造には版築という種類の異なる土を何層にも突き固める工法が用いられており、その層の間に粗朶が敷き詰められています(水城の下層部分)。この敷粗朶は水城に降った雨水などが土塁に溜まらないように排水する機能があります。これらの技術が水城に採用されていたことは知っていたのですが、林さんの詳しい解説によれば、水城の上部の堤体には鉄分の多い「まさ土」が使用されているため、浸透水の酸素が奪われ、結果として敷粗朶の耐久性が確保されているとのことなのです。敷粗朶工は、堤体下部の引っ張り補強材として作用し、基礎地盤の圧密沈下対策とともに砂質地盤の液状化に対して(地震対策として)も有効であり、「筑紫地震(679年):M=6.7」による大きな被害を被った痕跡も確認されていないそうです。
 この水城の版築は水平ではなく傾斜を持っています。博多側は敵の侵入を防ぐために急斜面になっており、版築も緻密に固められ、その層は太宰府側に低くなり、版築層から排水される水は太宰府側に流れるように設計されています。その結果、博多側の急斜面には水が流れることなく、土塁の崩落を防いでいます。
 このような実に巧みな工法と設計により水城が築造されていることを、林さんの論文により知ることができました。(つづく)

 ※わたしのfacebookに水城の断面図・写真を掲載していますので、ご覧ください。


第1261話 2016/08/23

『二中歴』明治17年写本の調査

 「洛中洛外日記」で紹介してきました『二中歴』国会図書館本(小杉氏写本、明治10年)は、「古田史学の会」関西例会でカラーコピーを杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)からいただき、その存在を知りました。このことが契機となり、『二中歴』の他の写本についても調査したところ、国立公文書館に明治17年書写の『二中歴』があることをつきとめました。同写本はネットでは公開されていないため、いつも史料調査にご協力いただいている斎藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)にご相談したところ、早速、国立公文書館の『二中歴』の「年代歴」部分などの写真を撮影され、送っていただきました。
 現在、精査中ですので最終結論ではありませんが、同写本は前田家尊経閣文庫所蔵「新写本(実暁本)」、すなわち興福寺の実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した「新写本」を明治17年に書写したもののようです。この国立公文書館本には次の奥書があり、明治17年に前田家所蔵『二中歴』を書写したことがわかります。

 「明治十七年二月一日華族前田利嗣蔵書ヲ寫ス
            三級寫字生松本寛茂
  明治十七年四月 五等掌記樹下茂国校 印」

 また別のページにも次のようにあります。

 「明治十七年十二月十日校〔前田利嗣 蔵書ニ拠ル〕
             御用掛前田利鬯 印」

 ※一部、旧字を新字体に改めました。〔〕内は二行の朱書き細注。(古賀)

 これらの内容から前田家蔵書の『二中歴』を書写したことは疑えませんが、前田家にある「古写本」と「新写本(実暁本)」のどちらを書写したのかを更に調べてみたところ、次の理由から国立公文書館本は「新写本(実暁本)」の写本と考えられます。

1.「弘治三年十二月六七両日」に書写したとする実暁による「奥書」が書写されている。
2.「古写本」では虫食いで読めない部分(「不記年号」「明要十二年」の一部分)も、虫食前の字が書写されており、これは「新写本(実暁本)」からの書写でなければ不可能。
3.国立公文書館本を実見された斎藤政利さんの報告によれば、第一巻が「上」「下」の二巻に分けられている。第一巻を「上」「下」で分けているのは「新写本(実暁本)」であり、「古写本」は第一巻としてまとめられている。

 これらの点から、明治17年書写の国立公文書館本は尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」を書写したものと考えられます。同写本の全体を精査したわけではありませんから、現時点での所見として報告しておきます。
 国立公文書館本の「年代歴」部分を見て、次のような感想を持ちました。

1.「古写本」では虫食いにより現在では読めない字があるが、実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したときはあまり虫食いが進んでいなかったようで、そのためその「新写本」を書写した国立公文書館本の「年代歴」もほとんどの文字が書写されている。
2,従来、論点となっていた「年代歴」末尾の「不記年号」の文字もはっきりと書写されており、「古写本」の虫食い前の文字をそのまま書写したと思われる。

 以上のようなことが、国立公文書館本の史料事実から推定されます。こうなると、是非とも尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」も見てみたいと思います。尊経閣文庫に閲覧を申し入れるか、「新写本(実暁本)」の一部を影印本に収録した八木書店にその版元となった「新写本(実暁本)」の写真を見せていただけないか、頼んでみることにします。
 調査にご協力いただきました斎藤さんに改めて感謝申し上げます。


第1258話 2016/08/19

『二中歴』尊経閣文庫の「古写本」と「新写本」

 現存「九州年号群史料」として最も古く、九州年号の原型をよく留めているのが有名な『二中歴』(鎌倉時代成立)です。ただ残念ながら前田家の尊経閣文庫蔵「古写本」(室町時代の写本と見られています)のみが残っており、その他の写本はその「古写本」を再写したものですから、「天下の稀覯本」と称されています。尊経閣文庫には「古写本」と、その「古写本」を興福寺の実暁が弘治3年(1557)に書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した、いわゆる「新写本(実暁本)」が蔵されています。
 最近、わたしが注目した国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』(「国会図書館本」という)は明治10年(1877)に小杉榲邨氏が「影写」したものですが、その底本は尊経閣文庫の「古写本」でした。ただし、「古写本」には一部に欠失があり、その失われた箇所は「新写本(実暁本)」から「影写」されています。
 問題の九州年号が記された「年代歴」は「古写本」に残っており、小杉氏も「古写本」から「影写」されています。たとえば「古写本」に欠失している「侍中歴」の一部分は「新写本」から「影写」されているのですが、その部分は字体やレイアウト(段組)が「新写本」のものに変化しています。これは「影写」(底本の上に薄い紙を置き、底本の字をなぞってそっくりに模写する)ですから当然です。
 この小杉氏の「影写」による「古写本」から「新写本」への字体の変化は、国会図書館本の「侍中歴」部分にも現れており、ネットで閲覧可能です。それは「国会図書館デジタルコレクション」の『二中歴』第1冊のコマ番号72です。その右ページが「古写本」からの「影写」で、左のページは「新写本(実暁本)」からの「影写」です。全く字体もレイアウトも異なっていることがわかるでしょう。左ページ冒頭に、朱筆で「新写本」から写したことを小杉氏は注記しています。
 この国会図書館本の「侍中歴」部分が書き分けられていることは、八木書房『二中歴』からも判明します。というのも、八木書房の『二中歴』も底本は尊経閣文庫の「古写本」で、同じく欠失部分を「新写本」から収録しています。従って、「古写本」と「新写本」の両方の字体を八木書房版により確認することができます。先の国会図書館本の「侍中歴」の当該ページに対応するページも収録されていますので、比較しますと、小杉氏はそれぞれを「影写」しており、そのため字体もレイアウトもあえて統一せず、異なったまま国会図書館本を作成したことがわかります。
 上記の当該ページの写真をわたしのFacebookに掲載していますので、ご覧ください。小杉氏の丁寧な「影写」により、「古写本」と「新写本」の字体の違いなどがよく見て取れます。「新写本」の方が清端な字体とされています。


第1251話 2016/08/12

『二中歴』国会図書館本の旧蔵者

 『二中歴』国会図書館本(小杉榲邨氏影写本)の旧蔵者が著名な蒐集家の大島雅太郎氏だったことがわかりました。昭和12年の尊経閣文庫『二中歴』出版の解説によると「大島雅太郎氏蔵小杉榲邨博士自筆本」と紹介されています。その頃までは大島氏が所蔵しており、戦後の財閥解体により散逸したようです。国会図書館本に押されている丸印が大島氏と関係するものかどうかは、まだ不明です。知られている大島氏の蔵書印とは異なるようです。
 下記はウィキペディアの「大島雅太郎」の解説です(一部修正しました)。

 大島 雅太郎【おおしま まさたろう、新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年/明治元年1月1日) – 1948年(昭和23年)6月9日】は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。
 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。


第1247話 2016/08/06

『二中歴』国会図書館本の書写者と「影写」

 『二中歴』国会図書館本が明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の蔵書であったらしいことをつきとめたのですが、その書写も小杉榲邨氏によるものであることがわかりました。
 「洛中洛外日記」第1242話「『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料」を読まれた齋藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、「国会図書館本の書写は収蔵している古典籍資料室に尋ねたところ、第1冊の最後に書かれている明治10年に東京の小杉さんが書写したと思うと言っていました」とのご連絡をいただきました。わたしは問題の「年代歴」が収録されている第2冊ばかりを集中して読んでいましたので、第1冊末尾に書かれた小杉氏自らによる書写の経緯を記した「奥書」を、迂闊にも見落としていました。
 その「奥書」の冒頭には次のように、小杉氏が前田尊経閣本を書写したことが明記されていました。

 「二中歴十三帖 従四位菅原利嗣君〔舊加賀候前田家〕曽ノ秘蔵シ給フ所ノ古寫本ナリ 今茲明治十年六七月間タマタマ被閲スルコトヲ得テ頓ニ筆ヲ起シテ影寫神速ニ功成了」(後略)
 ※〔〕内は二行細注。一部現代字に改めました。

 そして最後に「九月廿?五日」「於東京駿臺僑居小杉榲邨 識」と、日付と所在地が記されています(?の部分の字は「又」のようにも見えます)。「僑居」とは「仮住まい」のことですので、明治10年に東京の駿河台に小杉氏は住んでいたことがわかります。
 以上から、国会図書館本の書写者が小杉榲邨氏であることが判明したのですが、わたしはこの「奥書」に見える「影寫」という表記に注目しました。「影写」とは、書写するときに底本の上に薄く丈夫な紙を置き、下の字を透かし写す書写方法のことで、「透写」とも呼ばれています。国会図書館本は「影写」技法を用いて前田尊経閣本を書写していたのです。
 このことを知り、わたしはずっと疑問に思っていた謎がようやく解けました。というのも、国会図書館本を初めて見たとき、わたしは前田尊経閣本と思ったのです。特に「年代歴」部分は幾度となく精査しましたから、その筆跡や文字の配置が前田尊経閣本にそっくりだったからです。しかし、全体の雰囲気や細部が異なり、やはり別物だと気づいたのですが、それにしてもなぜこんなにそっくりなのだろうかと不思議に思っていたのです。
 通常、写本は原本の内容を写すのですから、筆跡は書写者のものであり、原本とは異なるのが当然と考えていましたし、実際、これまでの古文書研究に於いて、原本と写本とでは筆跡や文字配置が異なるものばかり目にしてきたからです。
 小杉氏による「奥書」の「影寫」の二字を見て、この疑問が氷解しました。文献史学の醍醐味の一つは原本や写本調査にあります。活字本による研究とは異なり、その時代の筆者の息づかいまでが感じられるのですから。「奥書」の存在を教えていただいた齋藤さんに心より御礼申し上げます。なお、わたしのFacebookに同「奥書」を掲載していますので、ご覧ください。


第1243話 2016/08/01

『二中歴』国会図書館本の履歴

 「年代歴」末尾の「不記年号」問題に決着をつけた『二中歴』国会図書館本でしたが、その成立年代や書写者が不明でした。何とかその履歴を知りたいと思い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている同写本の画像を拡大熟視したところ、「杉園蔵」と読める蔵書印があることに気づきました。
 杉園(すぎぞの)さんという蔵書家のお名前に全く心当たりがなかったため、インターネット検索で調べたところ、杉園(すぎぞの)さんではなく、明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の号、「杉園(さんえん)」のことのようなのです。ネット検索によれば次のようにありました。

「天保5年12月30日生まれ。阿波徳島藩主蜂須賀氏の陪臣。江戸で古典などをまなび、尊攘運動にくわわる。維新後は文部省で「古事類苑」を編集し、明治15年東京大学講師、32年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝国博物館にも勤務し、美術品の調査や保存にあたる。明治43年3月29日死去。77歳。号は杉園(さんえん)。編著に「阿波国徴古雑抄」など。」

 文部省で「古事類苑」を編集されたり、帝国博物館では美術品の調査や保存に関わられたとのことてす。前田尊経閣文庫本の虫喰まで書き写すという国会図書館本『二中歴』の書写方法は、他の一般的な写本とは異なっており、「学術的原型模写」のための書写とすれば、よく理解できます。こうしたことから帝国博物館で美術品の調査や保存に関わっていた小杉榲邨であれば、国会図書館本を所持していたとしても不思議ではありません。ですから「杉園蔵」という蔵書印は『二中歴』国会図書館本の出所が小杉榲邨蔵書であることを示し、学術的模写の痕跡から、おそらくは明治時代に作成されたものと推測できます。
 以上のような『二中歴』国会図書館本の履歴が正しければ、前田尊経閣本の「不記」の虫喰や欠損は明治末年頃から更に進んだことになります。わたしの数少ない経験から考えても、虫喰が進んだ古本の取り扱いはとても難しく、虫喰でボロボロになった部分の破損が書写などの取り扱い時に更に進むことは避けられません。もしかすると国会図書館本作成(模写作業)時に、前田尊経閣本の劣化が更に進んだのかもしれません。そのため、後世になって「不記」論争が発生してしまったようです。
 なお、学問的に真の問題はここから始まります。31個の九州年号を列記した直後の文書になぜ「不記年号」などと史料事実に反しているような記述がなされたのかという問題です。この「不記年号」問題の本質はここにあります。このことに対するわたしの見解(回答)については拙論「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月。ミネルヴァ書房『「九州年号」の研究』に収録)に示しましたのでご参照ください。
 今回の新史料発見について、8月20日(土)の「古田史学の会」関西例会にて発表予定です。


第1242話 2016/07/31

『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料

 6月の「古田史学の会」関西例会にて、わたしは『二中歴』年代歴の九州年号記事末尾の「不記年号」問題を報告しました。この「不記年号」問題とは、『二中歴』の九州年号を列記した最後にある文章中の「不記年号」とされてきた部分が虫喰により「不記」の二字部分が読めないため、「不記」とする説と「記」とする説とで論争が続けられている問題です。
 『二中歴』の古写本は前田尊経閣文庫本があるだけで、他はその再写本という「天下の孤本」です。従って、虫喰などで不明な部分を他の写本で確認することができません。問題の記事は次のようなものです。

「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」

 わたしは虫喰の部分は「不記」とあったと考えており、「以上百八十四年、年号三十一代、年号は記さず。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』」と訓んでいます。詳細は拙稿「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月)をご覧いただきたいのですが、「不記」と理解した根拠は次の点です。

1.八木書店版『二中歴』の写真本を熟視したところ、やはり下半分は「記」と読める。ただし、前後の文字よりも小さな文字であり、従って上半分にも一字あったと見るべき。
2.同古写本は弘治三年(一五五七)興福寺の実暁により書写されており、更に元禄時代にそれを清写した新写本、いわゆる「実暁本」が現存しており、その「実暁本」には、問題の欠字部分が「不記」と記されているので、虫喰前の姿を表していると考えざるを得ない。
3,文章の意味からすれば「丗一代」の九州年号を記した後の文なので、「不記年号」では意味不明。本来「記年号」とあったのなら、わざわざ意味不明となる「不記年号」と書き換えたり、誤写することは考えにくい。従って、元々「不記年号」とあったと考える方が論理的である。

 以上のように尊経閣本の観察と「実暁本」の「不記年号」を重視した結果、わたしは虫喰部分を「不記」と理解したのですが、今回この理解を決定的に証明する新史料の存在を知りましたので、ご紹介します。
 その新史料とは国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている『二中歴』写本です(以下、国会図書館本と記す)。インターネットで閲覧可能ですので確認したところ、同写本は尊経閣本の虫喰の形まで書き込んであり、かなり正確に書写されたもので、まるでコピーのような写本なのです。虫喰の形まで書き込んだ写本など、わたしは初めて見ました。その国会図書館本の当該部分は「不記」とありました。そして、尊経閣本の当該部分と比較したところ、虫喰の形も正確に一致しており、かつ国会図書館本では明確に「不記」と読めるのです。すなわち、国会図書館本はまだ虫喰がそれほど進行していない時点の尊経閣本を書写したものだったのです。
 虫喰以前の姿を書写した国会図書館本の証明力は決定的です。こうして、『二中歴』年代歴の「不記年号」問題は最終的に完全に決着したと思います。なお、国会図書館本について国立国会図書館デジタルコレクションでは解題が付けられていないようですので、誰によるいつ頃の再写本か調査中です。ご存じの方がおられたらご教示ください。

 

 

申し訳ありません。初めに閲覧された方のみ、誤字がございます。
 
「不記年号」とされてきた部分が虫喰により   →  「不記年号」とされてきた部分が虫喰により
デジタルコレクションでは題が   →   デジタルコレクションでは解題が
 

第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1215話 2016/06/21

健軍社縁起の九州年号「兄弟」

 熊本から島原に向かう高速フェリーの中で書いています。午前中に熊本駅に着きましたので、駅の近くの図書館で時間待ちをしました。地震で図書館も被災したようで、開架されているスペースが制限されており、歴史書や地誌はほとんど閲覧できませんでしたが、幸いにも『熊本市史』が並んでいましたので、「史料編 第三巻 近世1」(平成6年発刊)を大急ぎで調べたところ、探していた健軍社縁起「文化五年辰 詫摩健軍社縁起控」が収録されていました。
 その冒頭に次のような興味深い記事が、予想に違わず記されていました。

「健軍大明神縁起
一 天照大神六代之孫神、神武天皇第二之王子阿蘇大明神是也、兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳、保昌国司、阿蘇大明神四社之一社、健軍ニ御建立被成候、」

 この「兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳」の右横に細字で「是年号考ルニ、天平十年ナラン」と書き加えられています。活字本ではなく原文を見てみないと断定はできませんが、「兄弟天正五年」という表記について、干支の「戊寅ノ歳」から「天平十年(738年)」のことではないかと書き加えられたのと思われます。この冒頭の一見意味不明の「兄弟」こそ九州年号であり、558年に相当します。
 この「詫摩健軍社縁起控」は書写が繰り返されたようですので、本来は九州年号の「兄弟元年」とあったものが、書写段階で誤写誤伝されたようです。ちなみに「天正十五年」という表記が同縁起中に散見されることから、別の記事の「天正十五年」という表記が九州年号「兄弟元年」部分に書写段階で混ざり合ったものと思われます。
 他方、健軍神社の創建は欽明19年(558)と紹介されることが一般的ですから、これも本来の伝承は九州年号の「兄弟元年」であったものが、『日本書紀』成立以後に近畿天皇家の『日本書紀』紀年による表記「欽明天皇の19年」に置き換わったことがわかります。
 熊本駅でのわずかな待ち時間を利用しての図書閲覧でしたが、やはり健軍神社は九州王朝により「兄弟元年」に創建されたと考えてよいようです。健軍神社の縁起は他にも残されているはずですから、引き続き調査したいと思います。熊本県在住の方のご協力をいただければ幸いです。

 これからまたフェリーで天草に向かいます。大雨が心配です。


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。