九州年号一覧

第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)


第1113話 2015/12/29

『江の島縁起絵巻』に九州年号「貴楽元年」

 12月の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から九州年号史料の県別分布が報告されました。その上で九州年号史料の「空白」地域があることを指摘され、何か意味があるのではないかとの問題提起がなされました。それに対して、九州年号が記された中近世史料の所在地分布は古代において九州年号が使用されていた分布とは異なるので、分けて考えた方がよいと、わたしは主張しました。
 服部さんが作成された分布図では神奈川県が九州年号史料の空白県となっていたことから、神奈川県在住の冨川けい子さん(古田史学の会・会員、相模原市)が同県藤沢市の『江の島縁起絵巻』(室町時代成立)に九州年号の「貴楽元年壬申」(552)が記されていることを発見され、ご自身のfacebookで報告されました。わたしはこの史料の存在を全く知らなかったので、この地域で「貴楽」という九州年号が使用されていたことに驚きました。『江の島縁起』は平安時代には成立していたようで、今後の古写本の調査と史料批判が期待されます。
 この「貴楽」という九州年号は元年が552年(欽明13年)に相当し、いわゆる「仏教伝来」の年と一元史観の通説ではいわれています。また、この年が「末法時代の始まりの年」とする説もあり、このことと九州年号が貴楽と改元されたことに、何か関係があるのかという点に、わたしは興味を持っているのですが、今後の検討課題です。
 いずれにしましても、まだ発見・報告されていない九州年号史料が各地にあることと思われますので、会員の皆さんによる調査が待たれるところです。


第1107話 2015/12/19

『日本書紀』安閑紀に

 「九州年号建元」記事発見!

 先月公開されたテキサス医科大学の研究者による下記論文は、損傷筋細胞からいわゆる「STAP現象」による幹細胞の発現を確認したというものらしいのですが、ネイチャーの電子版に掲載されています。残念ながらわたしの英語力では全く理解できませんでした。もちろん、門外漢のわたしには当否も判断できません。

 『Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells』
 損傷誘導性による筋肉由来の幹細胞様細胞(iMuSCs)
  http://www.nature.com/articles/srep17355

 願わくは、小保方さんや笹井さんの時のような集団バッシング(マスコミなどによる日本型リンチ)にあうことなく、発表者たちが落ち着いた環境で研究を進められますように。仮に間違っていたり不正確な仮説であっても、自由に発表しあえる学問的寛容性もまた科学を発展させてきたのですから。
 本日の「古田史学の会」関西例会では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、『日本書紀』安閑紀に「九州年号建元」記事発見を報告されました。従来から『日本書紀』編纂にあたり漢籍(「芸文類聚」等)からの転用があることは知られていましたが、その漢籍転用は九州王朝が先行して行っており、その転用した九州王朝史書を『日本書紀』編纂にあたりそのまま引用した可能性があることを指摘されました。
 そうした研究過程で安閑紀に「九州年号建元」記事なるものを発見されました。さらに、この方法論による『日本書紀』史料批判の結果、九州王朝の漢籍受容の検証が進み、九州王朝思想史の研究にも道を拓くことが予想されます。とても興味深く重要な発表でした。今後の展開が楽しみです。
 12月例会の発表は次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
①「九州年号」と「評」から見た九州王朝の風景(八尾市・服部静尚)
②多利思北孤の都は伊勢(三重県)にあった(姫路市・野田利郎)
③仮説「国伝」のご意見への回答(姫路市・野田利郎)
④狗邪韓国の一考察(奈良市・出野正)
⑤『三角縁神獣鏡研究の最前線』〜精密計測から浮かび上がる製作地〜(京都市・岡下英男)
⑥『日本書紀』における「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置付け 後編2(東大阪市・萩野秀公)
⑧『大唐青龍寺三朝供奉大徳行状』の空海(高松市・西村秀己)
⑦『日本書紀』の「原典」と九州王朝(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・宮本美代志氏(米子市)から質問fax・史跡巡りハイキング(JR四条畷駅付近・市立歴史民俗資料館〔開館30周年特別展「継躰天皇と河内の馬飼い」〕・楠正行墓)・TV視聴(奈良大学文学講座)・別府史談会30周年記念投稿募集案内・蛭田喬樹『周髀算経』と「短里」、『歴史研究』No.636、2015/11・その他


第1103話 2015/12/08

九州年号の「地域性」について

 『東京古田会ニュース』165号に「法興」年号に関する二論稿が掲載されました。石田敬一さん(古田史学の会・東海、名古屋市)の「法興年号 その2」と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)の「『法興』年号について」です。いずれも学問的に刺激的なテーマを取り扱っておられ、とても興味深いものです。
 両者の論点の一つは「法興」年号を九州王朝・多利思北孤のものとするのか、近畿の蘇我馬子のものとするのかということですが、蘇我氏の年号とする論拠の一つが「法興」年号史料が主に近畿に分布していることにあるようです。よい機会ですので、この九州年号の「地域性(分布)」という史料状況を仮説の根拠に使用する場合の、学問の方法論上の問題点などについて説明したいと思います。
 九州年号史料の「地域性」を論じる場合、「史料は移動する」という避けられない問題があります。たとえば、青森県五所川原市の「三橋家文書」に九州年号「善記」が見られますが、同文書によれば三橋家の先祖は甲府地方出身であり、その「来歴」を綴った史料中に「善記」が使用されたのであって、6世紀初頭の津軽地方で九州年号「善記」が使用されていたことを意味しません。しかし「分布図」には青森県に1件とプロットされてしまいます。九州年号史料にはこのようなケースが少なからずありますので、その分布状況から九州王朝時代の歴史に迫る場合は、こうした「誤差」を無視できるほどの多数の母集団サンプルが必要です。
 さらに現在発見されている九州年号史料の分布には次のような問題もあります。本来なら九州王朝の中心領域として最も多くの九州年号史料が残っていてもよさそうな筑前には、首都(太宰府)所在地にふさわしいような濃密分布を示していません。その理由の一つとして、江戸時代の筑前黒田藩の学者、貝原益軒らが九州年号偽作説に立っていたことがあります。そのため、江戸時代に黒田藩で作成された地誌などに寺社縁起を収録する際に九州年号が消された可能性が高いのです。もっとも、江戸時代よりも古い現地史料の調査が進めば、筑前から新たな九州年号史料が発見される可能性もあります。しかし現状では近畿天皇家一元史観に基づいた史料改変が、九州年号分布に影響しているのです。
 また、現在までの九州年号史料調査における、古田学派の主体的力量の問題もあります。「市民の古代研究会」時代に九州年号史料の発掘を精力的に行った会員の所在地の偏在も、同様に九州年号史料の偏在の原因の一つになっています。当時の九州年号研究者はそれほど多くはありませんでしたから、その研究者の調査範囲でしか、九州年号史料は見つかっていないのです。
 たとえばわたしが地方に旅行したとき、なるべく現地の資料館や図書館を訪問し、現地史料に目を通すようにしていますが、その短時間の閲覧でも結構九州年号を発見できます。残念ながらそうして発見した九州年号史料は未報告のものが大多数なのです。それらを分布図に加えれば、九州年号史料の「地域性」も修正されますから、現時点の分布図を使用して何かを論じようとする場合は注意が必要なのです。
 以上のような基本的な史料批判の観点から「法興」年号史料の分布を見たとき、同様の問題点、すなわち「史料は移動する」「調査対象の偏在」「サンプル数が少ない」という課題の他に、史料性格上から発生する更に難しい問題があります。それは盗用された九州王朝の「聖徳太子」伝承とともに「法興」年号も盗用され、更に後代の「太子信仰」の拡散とともに、盗用された「法興」年号も拡散するという問題です。
 九州王朝の「聖徳太子」伝承の盗用問題は『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編。2015年、明石書店)に詳しく論じていますので、ご参照いただきたいのですが、わたしの見るところ、「法興」年号史料のほとんどは後代に「聖徳太子」伝承とともに「盗用」「転用」されたものであり、同時代史料、あるいは二次史料として史料批判に耐えうるものは法隆寺の釈迦三尊像光背銘と「伊予温湯碑(逸文)」くらいです。しかも、より厳密に言えば釈迦三尊像は「移動した史料」であり、その移動前の寺院の場所は不明です。ですから、「分布図」としての地域を特定できないのです。
 以上のように問題点の大きい「法興」年号史料分布状況を自説の根拠に使用することは、学問の方法論上の危険性を伴います。こうした九州年号の「地域性」について、学問の方法上の問題点があることを九州年号研究者には留意していただきたいと願っています。


第1097話 2015/11/27

『赤淵大明神縁起』の史料状況

 「洛中洛外日記」第1093話で、永禄三年(1560)成立の『赤淵大明神縁起』をオール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものと紹介したのですが、それはわたしのとんでもない勘違いでした。同書の存在を教えていただいた金沢大学のKさんから届いたメールによると、Kさんがわたしに提供されたものは『赤淵大明神縁起』をKさんが書き下ろして訳されたもので、原本は漢文とのことでした。
 『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)は福井県文書館に所蔵されており、同館のデジタルライブラリーで閲覧可能でした。パソコン画面で拝見しますと、本文は赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』とほとんど同文のようです(比較精査中)。また、両者の活字本の共通した「欠字」部分は、欠字ではなく、ワープロに無い文字(梵字か)であったため、共に「欠字」のような扱いとなっていたことも、赤淵神社で原文を実見して判明しました。『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)をワープロで活字起こしされたKさんからも、このことを確認できました。この点も、わたしの「早とちり」でした。
 既に指摘したことですが、『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)には末尾に「天長五年」という年次表記がなく、体裁としては永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸によるものとなっています。その理解が正しいとすると、赤淵神社にあるほぼ同文の『赤淵神社縁起』は才応総芸による『赤淵大明神縁起』の写本となってしまうのですが、その場合、末尾の「天長五年」という年次表記が意味不明となってしまいます。
 なお赤淵神社には、ともに「天長五年」の年次表記を末尾に持つ、内容が若干異なる「赤淵神社縁起」が2種類あり、このことも含めて才応総芸による『赤淵大明神縁起』との関係などを引き続き調査検討する必要があります。
 ちなみに、才応総芸が『赤淵大明神縁起』を書いたとき、九州年号の「常色元年(647)」「常色三年(649)」「朱雀元年(684)」をそのまま使用しており、永禄三年(1560)にそれら九州年号による表米の活躍を記した史料が存在していたことは疑えません。そして、才応総芸はそれら九州年号を『日本書紀』にある「大化(645〜649)」や「朱鳥(686)」に書き換えることなく、そのまま九州年号で『赤淵大明神縁起』を書いたとすれば、それが創作であれ書写であれ、才応総芸の「古代年号」認識を考える上で興味深い史料状況です。(つづく)


第1069話 2015/10/04

『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡

 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)が泰澄研究において最も良い史料であることを説明してきました。そこで、同書の年次表記について更に詳しく調べてみますと、九州年号は「白鳳・大化」だけではなく、「朱鳥」の痕跡をも見いだしました。
 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では泰澄について次の年次表記(略記しました)でその人生が綴られています。

西暦 年齢 干支 年次表記         記事概要
682   1 壬午 天武天皇白鳳廿二年壬午歳 越前国麻生津で三神安角の次男として生誕
692   11 壬辰 持統天皇七年壬辰歳    北陸訪問中の道照と出会い、神童と評される
695   14 乙未 持統天皇大化元年乙未歳  出家し越知峯で修行
702  21 壬寅 文武天皇大寶二年壬寅歳  鎮護国家大師の綸言降りる
712  31 壬子 元明天皇和銅五年壬子歳  米と共に鉢が越知峯に飛来
715   34 丙辰 霊亀二年         夢に天衣で着飾った貴女を見る
717   36 丁巳 元正天皇養老元年丁巳歳  白山開山
720   39 庚申 同四年以降        白山に行人が数多く登山
722   41 壬戌 養老六年壬戌歳      天皇の病気平癒祈祷の功により神融禅師号を賜る
725   44 乙丑 聖武天皇神亀二年乙丑歳  白山を参詣した行基と出会う
736   55 丙子 聖武天皇天平八年丙子歳    玄舫を訪ね、唐より将来した経典を授かる
737   56 丁丑 同九年丁丑歳       この年に流行した疱瘡を収束させる。その功により泰澄を号す
758   77 戊戌 孝謙天皇天平寶字二年戊戌歳 越知峯に蟄居
767  86 丁未 称徳天皇神護慶雲元年丁未歳 3月18日に遷化

 おおよそ以上のような年次表記で泰澄の人生が記されているのですが、まさに九州王朝から大和朝廷への王朝交代の時代を生きたこととなります、従って、年次表記には「天皇名」「年号」「年次」「干支」が用いられていることが多く、そのため700年以前の九州王朝の時代には九州年号が使用されているのです。その上で注目すべきは、北陸を訪れていた道照との出会いを記した692年の表記は「持統天皇七年壬辰歳」とあり、九州年号が記されていないことです。
 『日本書紀』では持統天皇六年が「壬辰」であり、翌七年の干支は「癸巳」です。たとえば金沢文庫本の校訂に用いられた福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本では「持統天皇六年壬辰歳」とあり、こちらの表記が『日本書紀』と一致しているのです。しかしこの「持統天皇七年壬辰歳」には肝心の年号が抜けています。もしこの壬辰の年を九州年号で表記すれば、「持統天皇朱鳥七年壬辰歳」となり、金沢文庫本の「七年」でよいのです。すなわち、金沢文庫本のこの部分の年次表記には九州年号の「朱鳥」が抜け落ちているのです。「白鳳」「大化」と同様に700年以前は九州年号を使用せざるを得ませんから、「泰澄和尚傳」の書写の段階で「朱鳥」が抜け落ちた写本が、金沢文庫本だったのではないでしょうか。
 九州王朝説に立った史料批判の結果として、「泰澄和尚傳」は九州年号が使用された原史料に基づいて泰澄の事績を記したか、平安時代10世紀(天徳元年、957年)の成立時に、『二中歴』「年代歴」などの九州年号史料を利用して、大和朝廷に年号が無かった700年以前の記事の年次を表記したものと思われます。いずれにしても「泰澄和尚傳」は平安時代10世紀に成立した九州年号史料であり、九州年号偽作説のように「鎌倉時代以後に次々と偽作された」とすることへの反証にもなる貴重な史料ということができるのです。(つづく)


第1068話 2015/10/03

『泰澄和尚傳』の「大化」と「大長」

 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)にに収録された「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)と「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)の九州年号を比較すると、「泰澄和尚傳」を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされた解説が納得できます。今回はそのことについて説明します。
 泰澄の生年を「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では『二中歴』と同じ九州年号の「白鳳廿二年壬午」(元年は661年辛酉)とされていますが、校訂に使用された他の写本(福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本、石川県石川郡白山比売神社蔵本)には「白鳳十一年」とあります。もちろん金沢文庫本が正しく、両校訂本は天武即位年(673年癸酉)を白鳳元年とする、九州年号を近畿天皇家の天武天皇の即位年に対応させた後代改変型です。従って、金沢文庫本が九州年号の原型をより保った善本であることがわかります。
 「泰澄和尚傳」の比較史料としての「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)と「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)は更に後代改変の手が加わっています。たとえば「泰澄大師伝記」(元和五年・1619年書写)では、泰澄の生年が「白鳳十一年壬午」とあり、泰澄11歳の年を持統天皇御宇大長元年壬辰」としており、「大化元年乙未(695年)」が「大長元年壬辰(692年)」と改変されています。さらにこの改変に泰澄の年齢を整合させるために、同一記事(出家修行)の年齢を14歳から11歳へと改変しているのです。
 「白鳳十一年壬午」は「泰澄和尚傳」の校訂本と同様の理由での後代改定ですが、「大長元年壬辰(692年)」への改変は、おそらく『日本書紀』の大化年間(645〜649年)と時代が異なるため、持統天皇の頃の九州年号とされていた「大長元年」に改変されたものと思われます。ただし、この「大長元年壬辰」も実は後代改変された九州年号で、本来の九州年号「大長」は元年が704年甲辰であり、9年間続いています。この「大長」の後代改変については拙論「最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収、ミネルヴァ書房)をご参照ください。
 「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)では生年を「白鳳十一年」としており、干支の「壬午」は記されていません。泰澄11歳の年次も「持統六年(692年)」とあるだけで、九州年号も干支も略されています。ですから、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)がもっとも後代改変を受けていることがわかります。
 以上の考察から、泰澄研究においては「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)を用いることが、現状では最も適切と思われるのです。(つづく)


第1067話 2015/10/02

『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」

 今日は仕事で越前市(旧・武生市)に行ってきました。予定よりも仕事が早く終わったので、当地の企業や地場産業の調査のため、越前市中央図書館に寄りました。そこでの閲覧調査を終えたので、近くにあった『福井県史』を見ていたら、白山を開山したとされる「泰澄和尚傳」が目に留まりました。そこに九州年号「白鳳・大化」がありましたので、よく読んでみると、史料批判上とても面白い、かつ、貴重な史料であることがわかりましたので、ご紹介します。
 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)には、「泰澄和尚傳」を筆頭に、比較参考史料として「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)などが収録されています。解説(324頁)によれば、「泰澄和尚傳」(底本:金沢文庫本)を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされています。その「泰澄和尚傳」によれば、泰澄の生年は天武天皇の御宇「白鳳廿二年壬午六月十一日」とあり、『二中歴』「年代歴」の「白鳳22年(682)壬午」と干支が一致しています。また、「和尚生年十四」の年を「持統天皇御宇大化元年乙未歳」と記し、これも『二中歴』の九州年号「大化元年乙未(695)」と正しく一致しています。
 この金沢文庫本「泰澄和尚傳」の書写年代は「正中二年(1325)」と奥書にあり、現存最古の写本です。成立は「今、天徳元年丁巳三月廿四日」(957年)と文中にあることから、平安時代の10世紀です。従って、九州年号史料としてはかなり古いものです。『日本書紀』成立後の史料であるにもかかわらず、『日本書紀』の「大化元年乙巳(645)」とは異なる持統天皇時代の九州年号「大化元年乙未(695)」を採用していることが注目されます。すなわち、10世紀当時に九州年号を用いて記録された泰澄関連史料が存在していた可能性をうかがわせるのです。
 以上のように、金沢文庫本「泰澄和尚傳」は成立が平安時代に遡る貴重な九州年号史料だったのです。(つづく)


第1038話 2015/08/29

平野雅曠さんの先行説(2)

「鞠智城は九州王朝造営」

 平野雅曠さんは「市民の古代研究会」時代からの古田説支持者で、中でも九州年号研究において優れた業績を上げられた熊本市在住の研究者でした。明治44年のお生まれで、地元の九州年号史料の調査発掘などを手がけられ、好著を何冊も出されています。
 「市民の古代研究会」分裂後に、わたしが「古田史学の会」を立ち上げたときも、呼びかけに応じ入会され、自主的にカンパも寄せていただきました。わたしも九州年号研究をテーマとしていたこともあり、論争もしましたし、とても思い出深い恩人です。
 その平野さんの著書『倭国王のふるさと火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)を読み返したところ、既に鞠智城を九州王朝の都城とする説を発表されていたことに気づきました。「国の王城か、『鞠智城』」という論文です。わたしよりも20年も早く同仮説に至られていたのです。改めて古田学派「鎮西の巨頭」の慧眼に感服しました。「今頃、気づいたか」と天国から温厚な笑顔と眼差しで後進を見ておられることでしょう。同書からはこれからも多くの学問的示唆を得られそうです。


第1037話 2015/08/28

平野雅曠さんの先行説(1)「九州年号の訓み」

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』19集は「九州年号」を特集しますが、特集原稿の選考や執筆依頼の検討を編集部では進めています。正木事務局長からの提案で、九州年号の訓みについての論文掲載を検討していますが、先行研究を平野雅曠さん(故人)が発表されていた記憶がありましたので、調べてみました。
 平野さんの著書『倭国史談』(2000年、熊本日日新聞情報文化センター制作)に「訓んでみた『九州年号』」が収録されていましたが、初出は『古田史学会報』22号でした。
 平野さんによれば九州年号は呉音で訓まれていたとされ、その呉音での九州年号訓み一覧を示されています。たとえば「常色」は「じょうしき」と訓まれています。わたしは九州年号研究において、その訓みについてはあまり気にせずにいたこともあり、たとえば「常色」は「じょうしょく」と訓んできました。そのため、九州年号は呉音で訓むべきとのご指摘を会員からいただいたこともあります。
 九州年号研究の精度を更に高めるため、正木さんから九州年号特集論文にこのテーマを入れるべきとの意見が出されたのも時宜を得たものです。そこで、『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんからの要請で、平野さんの先行研究を踏まえて正木さんに新たに執筆していただく方向で検討されています。
 古田学派の研究も30年以上にわたり、多くの研究が発表されていますから、『古代に真実を求めて』の企画編集にあたっても注意が必要です。(つづく)


第1003話 2015/07/19

『二中歴』九州年号の「最勝会」

 最近、「古田史学の会」役員間のメールでのやりとりで、『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号の「白雉」の細注記事の「最勝会」が話題となっています。次の記事です。

  「白雉九年壬子 国〃最勝会始行之」

 大意は、白雉という年号は九年間続き、元年干支は壬子(652年)。国々で最勝会を始めて行う。」ということですが、この「最勝会」とは国家鎮護の経典「金光明最勝王経」を読経する法会です。
 ところが、この記事について服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)より、「金光明最勝王経」が日本に渡来するのは早くても8世紀初頭であることから、この白雉年間(652〜660年)に倭国で「最勝会」は行えないとの指摘がありました。従って、この記事は後代になって書き換えられたものではないかとされたのです。
 これに対して、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)より次のような反論がなされました。白雉年間以前に成立している漢訳「金光明経」内には「最勝」という表現があり、この経典による法会が九州王朝において「最勝会」と表現されていた可能性を否定できないという反論です。
 本格的な史料批判に関する論争であり、なかなか興味深いものです。今のところ判断は保留したいと思いますが、ことの当否は「年代歴」全体の史料批判に基づいて考える必要があり、他の細注記事の性格から判断して、西村さんが言われるように、九州王朝内で「最勝会」と呼ばれる法会がなされていたと考えるのがよいように今のところ思います。「年代歴」編者が元史料にあった法会の名称を書き換える必要が感じられないからです。
 いずれにしましても、白雉年間といえば白村江戦の直前ですし、九州王朝下の諸国で国家的危機を前にして国家鎮護の法会が催されたと思われますので、『二中歴』「年代歴」細注記事は九州王朝史を復元する上で貴重な史料であることは間違いないと思います。
 この件、引き続き論争が深化することが期待されます。


第994話 2015/07/05

天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠

 『日本書紀』天武紀では壬申の乱の年(672年)を「天武元年」とし、「即位」記事は翌天武2年2月にあります。ところが、「東方年表」等では672年は「弘文天皇(大友皇子)」の即位年とされ、天武元年は翌年の673年(癸酉)とされています。このように、天武の元年に『日本書紀』とは異なる説があるのですが、学問である以上、そうした説を唱えるためには史料根拠が必要です。ということで、今日のテーマは天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠についてです。
 西ノ京の薬師寺東塔に次のような銘文があります。書き下ろし文で紹介します。

「維(こ)れ清原宮馭宇天皇の即位の八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不(忿)を以て、此の伽藍を創(はじ)む。(以下略)」
※(忿)の字は、「分」を「余」にしたもの。

 天武天皇が即位して八年、庚辰の歳(680)の11月、后(中宮、後の持統天皇)が病にかかったので、この伽藍を創建したという内容ですが、天武の八年が庚辰の歳とされていることから、即位年は673年癸酉の歳となり、天智没年(671)の翌々年に即位したことになります。従って、空白の一年間(672)が生じることになり、その一年間に大友皇子が即位したとする説の史料根拠とされているのです。
 この薬師寺東塔銘文はちょっと成立過程がややこしいのですが、薬師寺が完成する前に天武天皇は崩御し、持統天皇により完成されます。元々は藤原京にあったのですが(本薬師寺)、平城京遷都にともない、今の西ノ京の位置に移転されます。この銘文も藤原京の寺にあった銘文を平城京の薬師寺の東塔完成時(730年頃)に新しく刻んだと考えられています。
 730年頃といえば、すでに『日本書紀』は成立(720年)しています。すなわち天武元年を672年とする「公式見解」が成立していることから、それとは異なる内容が、天武や持統に縁が深い完成したばかりの薬師寺東塔に記されたことになります。なんとも不思議な現象(史料事実)と言わざるを得ません。わたしは『日本書紀』の天武2年条に見える「即位」記事から年数を数えれば、東塔銘のように「(天武)天皇即位八年庚辰」となりますから、同銘文作成者は『日本書紀』とは別の立場(認識)で年数表記したのではないかと考えています。
 ただ、この1年のずれについては、もう一つの可能性があります。それは干支が1年繰り上がった暦により年干支を記載した場合です。すなわち、干支が1年ずれた暦であれば、実際の年は『日本書紀』と同じ672年「壬申→癸酉」が天武元年となります。
 この干支が1年繰り上がった暦については拙論「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討ー」(『「九州年号」の研究』に収録)で触れていますが、九州年号金石文の一つ「大化五子年」土器は干支が1年繰り上がった暦によった干支表記となっています。すなわち、九州年号の大化5年(699)の干支は「己亥」で、翌700年の干支が「庚子」ですから、この土器は1年干支がずれた暦により表記されていると考えられます。
 これと同様に、薬師寺東塔銘の「(天武)天皇即位八年庚辰」も「庚辰」が1年繰り上がった干支表記であれば、679年のこととなり、『日本書紀』の天武8年と同年のこととなります。もっとも、近畿天皇家中枢の寺院で公認の暦と異なった暦の年干支を使用することは考えにくいので、可能性としてはきわめて低いと思います。
 いずれにしましても、九州王朝から大和朝廷への王朝交替時期に関わる金石文ですので、複雑な歴史背景がありそうで、九州王朝説多元史観による検討が必要です。