第484話 2012/10/17

「十五社神社」の分布

 名古屋のホテルのパソコンで「十五社神社」を検索したところ、天草の85社が最濃密分布で、次いで長野県岡谷市の4社のようです。いずれもネット検索の数値ですから実数値というよりも「参考値」に過ぎませんが、天草の最濃密分布は揺るがないと思います。
 ネット検索によれば、次の地域に「十五社神社」がヒットしました。ちなみに御祭神は地域により異なり、天草と岡谷市以外は各1社です。

 茨城県かすみがうら市
 長野県茅野市
 長野県松本市
 長野県岡谷市(4社)
 静岡県袋井市
 岐阜県山県市
 和歌山県和歌山市
 兵庫県加古川市
 福岡県北九州市
 熊本県天草(85社)
 熊本県宇城市
 鹿児島県鹿屋市 
 鹿児島県出水郡長島町

 これらの分布状況が指し示すことは、「十五社神社」の分布の中心は圧倒的に天草であり、次いで長野県岡谷市ということができます。従って「十五社 神社」の移動(広がり)の方向は、「天草→その他。どういうわけか信州岡谷市にやや多い」ということができそうです。この展開の方向について、その時期と理由はまだ不明ですが、歴史の秘密が隠されていそうです。わたしの直感ですが、ここにも九州王朝説による説明が必要のように思われます。


第483話 2012/10/16

岡谷市の「十五社神社」

 今、塩尻から名古屋へ向かう特急しなのに乗っています。これから2時間ほど木曽路の旅を満喫できます。今日は仕事で岡谷市に行ったのですが、岡谷駅前に「十五社神社」が鎮座していることに気づきました。こんなところにも「十五社神社」があることに驚きました。
 「十五社神社」といえば、第422話で紹介しましたように、熊本県天草諸島に分布している不思議な神社なのですが、それと同じ名称の神社が遠く離れた長野県岡谷市にもあったのです。タクシーの運転手さんにたずねたところ、岡谷市内に数カ所あるそうで、いずれも大きな神社ではないとのこと。名古屋のホテルに着いたら、ネットで調べてみたいと思います。
 長野県というところは本当に不思議なところで、福岡県久留米市にある高良大社(筑後国一宮)と同じ神を祭る「高良社」が数カ所あることがわかっています。京都の石清水八幡宮の隣にも高良神社がありますが、長野県のように複数あるのは北部九州以外では珍しいことです。
 このように「十五社神社」が共通してあるということから、九州天草と信州にどのような関係があるのか興味津々です。
 今、南木曽駅に着きました。名古屋まであと1時間です。ところで、「南木曽」と書いて何と訓むかご存じですか。答は「なぎそ」です。面白い当て字ですね。それではまた。


第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)


第481話 2012/10/13

九州の書店で古田武彦フェア

 ミネルヴァ書房の神内冬人(かみうちふゆと)さんから、九州・沖縄の主要書店16店で古田武彦書籍フェア開催のご案内をいただきましたので、お知らせします。開催書店のお近くの方は是非行ってみて下さい。

 ミネルヴァ書房刊行の古田先生関連の書籍を集めたフェアとのことで、古田先生のフェアに寄せたメッセージを掲載した特別リーフレットが展示されま
す。「邪馬壹国」「九州王朝」のご当地の九州で、多くの市民の皆様に古田先生の学説を知っていただくよい機会になればと期待しています。

 

【フェア概要】

フェア名称:「古田武彦・古代史フェア」

期間:2012年10月1日~10月末日までの予定

書目:「古田武彦・古代史コレクション」「シリーズ・古代史の探求(古田史学の会編「九州年号」の研究・他)」「なかった」「なかった別冊」「俾弥呼」(日本評伝選)「ゼロからの古代史事典」

ご協力書店:

(北九州市)アカデミアサンリブシティ小倉店、ブックセンタークエスト小倉本店、 喜久屋書店小倉店、白石書店本店

(福岡市)紀伊國屋書店福岡本店、ジュンク堂書店福岡店

(久留米市)紀伊國屋書店久留米店

(福津市)未来屋書店福津店

(粕屋町)フタバ図書TERA福岡東店、ブックイン金進堂長者原店

(長崎市)メトロ書店本店

(熊本市)喜久屋書店熊本店、蔦屋書店熊本三年坂

(荒尾市)ブックスあんとく荒尾店

(鹿児島市)ジュンク堂書店鹿児島店

(那覇市)ジュンク堂書店那覇店


第480話 2012/10/09

「始興」は「始哭」の誤写か

 今、湖西線を走る特急サンダーバードに乗っています。今朝は天気も良く、車窓から見える琵琶湖がとてもきれいです。湖面に浮かぶ船や竹生島もくっきりと見えます。

 韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)に紹介された、九州年号「定居元年」が末尾に記されている『維摩詰経』巻下残巻ですが、韓昇さんが説明できていない問題があります。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 この末尾2行部分の「定居」については、「日本の私年号」と説明されているのですが、「始興」については、「定居」とともに「始興」も年号とする他者の論稿の引用のみで、韓昇さん自身の説明はありません。それも仕方がないことで、「始興」という年号は中国にも近畿天皇家にもなく、九州年号にもないからです。そのため、韓昇さんは「始興」の説明ができなかったものと思われます。
 わたしも「始興中」とはある期間を特定した記事であることから、「始興」は年号のように思うのですが、確かに未見の「年号」です。そこでひらめいたのですが、「始興」ではなく、「法興」か「始哭」の誤写・誤伝ではないかと考えたのです。字形からすると「始哭」の方が近そうです。他方、「法興」とすると、「定居元年」(611)が法興年間(591~622)に含まれてしまいますので、二つ並んだ年号表記記事としては不自然です。
 そこで、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝とすればどうなるでしょうか。正木裕さん(古田史学の会々員・川西市)の研究(洛中洛外日記311話「正木さんからのメール『始哭』仮説」・他、参照)によれば、「始哭」は589年か590年頃とされており、定居元年(611)よりも少し前の時期に相当しますの で、記事内容に矛盾が生じません。すなわち、「始哭」(589~590)中に慧師聰がもたらした震旦(中国の異称)の善本を、定居元年(611)に上宮厩戸が書写し、法興寺に蔵されている、という理解が可能となるのです。
 しかしそれでも解決できない問題が残っています。年号としての「始哭」の誤写・誤伝であれば、「定居元年」と同様に「始哭元年」とか「始哭二年」とあってほしいところです。この疑問を解決できるのが、やはり正木さんの「始哭は年号ではなく、葬送儀礼の『哭礼』の始まりを意味する」という仮説です。
 正木説によれば、端政元年(589)に玉垂命が没したとき、後を継いだ多利思北弧が葬儀を執り行い、その儀礼として「哭礼」を開始したという記事に、「始哭」という表記があり、それを後に九州年号と勘違いされ伝わったということです。「哭礼」は通常は一年程度続き、長くても三年程度というのが正木さんの見解ですので、もし正木説が正しければ、玉垂命の葬儀に慧師聰が参列し、そのおりもたらされた震旦の善本『維摩詰経』を定居元年に上宮厩戸が書写したということになります。
 ちなみに慧師聰は『日本書紀』推古三年条(595)に百済より来訪した「慧聰」として見え、翌年、高麗僧「慧慈」と共に法興寺に住まわされています。この『日本書紀』の記事が正しければ、慧聰は「始哭中」に相当する端政元年(589)に九州王朝に来倭し、玉垂命の葬儀に参列した後、推古三年(595、九州年号の告貴二年・法興五年)に近畿へ来たことになります。
 このように、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝と見た場合、九州王朝説の立場から『維摩詰経』末尾2行の文意がうまく説明できるのです。そしてこのアイデアが当たっていれば、この末尾2行を書いた人は「始哭」などが記された九州王朝系史料を見ていたこととなります。中国にある『維摩詰経』残巻を実見しないことには結論は出せませんが、現時点での「作業仮説」として検証・研究をすすめたいと考えています。
 なお、念のため付け加えれば、「始興」のままでよりうまく説明できる仮説があれば、わたしの提案した「始哭」説よりも有力な仮説となることは当然です。 「原文を尊重する」「必要にして十分な論証を経ずに安易な原文改訂をしてはならない」というのは、古田史学にとって重要な「学問の方法」なのですから。 (つづく)


第479話 2012/10/07

皇室御物『法華義疏』の史料性格

 九州年号「定居元年」が記された『維摩経義疏』断簡の存在を服部和夫さん(古田史学
の会々員・名古屋市)から教えていただいたことを契機に「三経義疏」の勉強を始めたのですが、ますますわからないことが増えています。わたしの勉強の「成
果」でもある、その増えた問題について、ちょっとだけご紹介します。
 それは古田先生が実地調査された皇室御物『法華義疏』の史料性格についてです。聖徳太子や「三経義疏」関連の著作を購入し読んでいるのですが、『法華義疏』の史料状況や史料性格について更に深く検討する必要を感じるようになりました。
 たとえば、中公クラシックス『聖徳太子 勝鬘経義疏・維摩経義疏(抄)』の解説(田村晃祐「『三経義疏』の世界」)によれば、『法華義疏』には訂正や誤
字が多く、その頻度は「2.5行に一カ所ぐらいの割合で訂正が行われている」とのことです。具体的には、「釈迦」と書くべきところが「迦釈」と文字がひっ
くり返っている例もあります。この他にも仏教のことを知っていれば間違うはずのない基礎的な誤字・誤写が少なくなく、このような史料状況から、『法華義
疏』は達筆だが仏教のことに詳しくない人物により慌てて書写されたということがうかがえるのです。
 これほどの誤写や訂正が多い『法華義疏』が九州王朝の天子・多利思北弧への献上物(収集物)にふさわしいと言えるでしょうか。天子に献上する前に、書写
者や王朝内部で浄書すればよいのにと思うのですがいかがでしょうか。大和朝廷と同様に九州王朝にも「写経所」や写経専門家がいたはずです。なぜそうした
「専門機関」を多利思北弧は利用しなかったのでしょうか。わたしはこの難問を解くべく連日考え続けています。(つづく)


第478話 2012/10/06

『古田史学会報』111号 112号の紹介

 『古田史学会報』112号が発行されましたのでご紹介します。ところが111号の紹介をうっかり忘れていましたので、併せてご紹介します。すみませんでした。

〔『古田史学会報』111号の内容〕
○太宰府出土「戸籍」木簡 「多利思北弧」まぼろしの戸籍か! 豊中市 大下隆司
○神功皇后と盗まれた神松 川西市 正木 裕
○「百済禰軍墓誌」について -「劉徳高」らの来倭との関連において- 札幌市 阿部周一
○続・越智国にあった「紫宸殿」地名の考察 松山市 合田洋一
○(書評)古田武彦著『古代史の十字路』 京都市 古賀達也
○古田史学の会会員総会の報告・会計報告
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○「古田史学会報」原稿募集

〔『古田史学会報』112号の内容〕
○盗まれた九州王朝の女王たち -神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱与・玉垂命- 川西市 正木 裕
○太宰府「戸籍」木簡の考察 -付・飛鳥出土木簡の考察- 京都市 古賀達也
○斉明天皇と紫宸殿(明理川) (白村江戦大敗と、斉明天皇越智国滞在の真実) 西条市 今井 久
○「女王国」について ー野田利郎氏の回答に応えてー 名古屋市 石田敬一 
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○「古田史学会報」原稿募集


第477話 2012/10/02

「三経義疏」九州王朝撰述説

 今日は仕事で綿業会館(大阪市中央区)を訪問しました。同会館は旧東洋紡関係者からの寄付により建てられた歴史的建築物
です(重要文化財・昭和6年完成)。高層建築ではありませんが(6階)、内部は天井も高く、内装にも重厚感があり、わたしは気にいっています。商業ビルと
して繊維関連団体や企業が入居しており、今も現役で活躍している重要文化財です。周囲には日本毛織やトーア紡・丸紅などの繊維・アパレル関連企業のビルが
林立しており、まさに「繊維街」と呼ぶにふさわしいエリアにあります。
 さて、476話で触れました石井公成さんの論稿で、わたしが最も注目したのが「三経義疏」が「国産」であり、同一人物による撰述の可能性を指摘されたこ
とです。もしこのことが正しければ、古田説では『法華義疏』は九州王朝の天子、上宮法皇(多利思北弧)が集めた国産の本ですから、他の『勝鬘経義疏』『維
摩経義疏』も九州王朝内で集められた同一人物撰述による「国産」の本ということになります。
 そうすると、今回中国で見いだされた『維摩経義疏』残巻末尾の九州年号「定居元年」を含む二行も、定居元年(611)での加筆であれば九州年号を使用し
ている人物によるものであり、後代追記であれば、やはり九州年号を知っている人物によるものとなり、いずれにしても九州王朝内あるいは九州年号の影響下
(九州年号の歴史的実在を疑っていない)で成立したことになります。
 こうした理解から、九州年号「定居元年」を含む二行を、九州王朝の存在が忘れられた近代の中国人による追記とする韓昇さんの説は成立困難と思われるので
す。しかしながら、やはり現物を見てからしか「結論」は出せません。先走りすることなく、時間をかけて研究したいと思います。(つづく)


第476話 2012/10/01

「三経義疏」国内撰述説

 聖徳太子が撰述したとされる「三経義疏」(法華義疏・勝鬘経義疏・維摩経義疏)は本当に聖徳太子が書いたものかどうかの 論争が長く続いています。戦前は聖徳太子信仰などの影響で太子真筆説(花山信勝さんら)が信じられていたようですが、戦後はこのような高度な経典注釈は7世紀当時の日本ではできないとする、国外(中国・朝鮮半島)成立説(藤枝晃さんら)が有力となりました。
 近年では、百済人や渡来人撰述説など様々な説が出されていますが、わたしが最も注目しているのが、石井公成さんの日本人(倭国人)撰述説です。このところ、連日のように
石井さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」に掲載されている「三経義疏」に関する論稿を読んでいるのですが、この石井さんの説に魅力と説得力を感じています。
 石井さんは「国産説」の主要な根拠として、「三経義疏」には中国や朝鮮半島には見られない独特の「変格語法」(倭習)が用いられていると指摘されています。しかもそれらは「三経義疏」に共通した独特の表現であることから、同一人物により「三経義疏」が撰述された可能性にも言及されているのです。
 わたしには石井さんの説の当否を直ちに判断できる知識や能力はありませんが、少なくとも石井さんの説には説得力を感じるのです。もちろん、石井さんは近畿天皇家一元史観に立っておられますから、わたしたちはこの石井説の「研究成果」を多元史観・九州王朝説に基づいて再検証・再展開しなければなりません。 (つづく)


第475話 2012/09/30

合田洋一著『地名が解き明かす古代日本』

 古田学派よりまた好著が出されました。合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同四国の会事務局長)の『地名が解き明かす古代日本』(ミネルヴァ書房)です。
 同書では『日本書紀』などに見える「渡嶋」を通説の北海道ではなく、青森県下北半島・糠部地方とする新説が掲げられています。しかし、わたしが注目したのはその結論だけではなく、そこに至った方法です。
 合田さんは文献読解から、「渡嶋」が北海道では不自然であり、下北半島・糠部地方であることを明らかにされ、更に地名辞典から全国の「わたり」地名を調 べあげ、それが糠部地方に最も集中していることをことを発見されたのです。この「全数調査」という学問の方法は、古田先生が行われた三国志から全ての 「壹」と「臺」の字を抜き出して、両者が間違って混用されている例がないことを調べあげるという、古田学派にとって象徴的な方法を踏襲されたものです(倭 人伝の邪馬壹国は邪馬臺国の誤りとする従来説への反証としての全数調査です)。また、文献解釈と現存地名分布の一致という検証の仕方も、古田学派では重視 尊重されている学問の方法です。
 その他にも、筑前・筑後などの「前」と「後」地名や、「上」「下」地名の命名を九州王朝説に基づいて再検証するという、多元史観ならではの研究成果が収録されています。結論ではなく学問の方法を最も重視する古田学派への推奨の一冊です。


第474話 2012/09/26

前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾

 過日の二回目の大阪歴史博物館訪問で貴重な知見を得たのですが、最大の収穫は大阪歴史博物館研究員の伊藤純さんのお話を聞けたことです。
 伊藤さんへのわたしからの質問は、須恵器編年において、1様式の継続期間が平均30年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、もしそうであればその根拠は何かというものでした。残念ながら、伊藤さんは小森さんの著書をご存じなく、須恵器の平均継続期間について明確な見解は お聞かせいただけませんでした。もしそういう見解があるとすれば、須恵器製造職人の寿命や製造に携わる期間から導き出されたのかもしれないとのご意見でし た。こうした返答から、思うに須恵器1様式の継続期間平均30年というのは、小森さんのご意見であり、考古学界全般の共通「常識」ではないように感じまし た。この点、引き続き他の考古学者にも聞いてみたいと思います。
 この後、質疑応答は前期難波宮造営年代へと移りました。わたしは当然のごとく伊藤さんも前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子が違うのです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。 いわく「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。」とのこと。更に「学問は多数決ではありませんから」とも付け加えられまし た。
 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(土器編年・634年伐採木樋:年輪年代・「戊申」648年木簡) などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは「明瞭」でした。もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。
 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。こ の点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったからです。すなわち、7世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)だったからです。
 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、太宰府「政庁」よりも格段に大規模な前期難波宮が大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だったとする九州王朝説そのものが揺らぎかねないからです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した回答が前期難波宮九州王朝副都説だったのです。
 わたしは伊藤さんへの質問を続けました。
 考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか。この問いに対して、伊藤さんは孝徳期説の方が「おさまりがよい」と述べられたのです。 自説は「天武朝説」であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。
 最後にわたしは、「大阪歴史博物館の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しまし た。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」とお礼を述べました。そして、この矛盾を解決できる仮説は前期難波宮九州王朝副都説しかない、と改めて確信を深め、大阪歴史博物館を後にしたのでした。


第473話 2012/09/25

四天王寺創建瓦の編年

 第472話で紹介しましたように、今回の歴博訪問ではいくつかの新知見がもたらされました。その一つは四天王寺創建瓦の編年を歴博では620~630年代としていたことです。
 『日本書紀』には四天王寺の創建を587年(崇峻天皇即位前紀)、あるいは593年(推古元年条)と記されているのですが、歴博では『日本書紀』のこの記述を採用せず、土器や瓦の相対編年と年輪年代などとの暦年をリンクした編年観を採用し、四天王寺の創建を620年~630年代としたようなのです。この620年~630年代という編年は、『二中歴』の「年代歴」(九州年号)に記されている「倭京二年(619)難波天王寺聖徳造」の倭京二年(619)に近く、このこと(文献と考古学の一致)から7世紀における畿内の土器編年が比較的正確であることがうかがえるのです。従って、上町台地にある四天王寺創建の編年が正確であるということは、同じ上町台地にある前期難波宮の編年(7世紀中頃、孝徳期とする)も信頼してよいと思われます。
 今から十年ほど前、わたしは『二中歴』に見える「倭京二年(619)難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州(博多湾岸)にあった難波ではないかと考え、「難波」と「天王寺」の地名セットや7世紀初頭の寺院跡をかなり探しましたが、結局それらしいものは見つかりませんでした。そのため、「倭京二年 (619)難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州にあった難波とするアイデア(思いつき)を封印し、後に撤回しました。アイデア(思いつき)を仮説として提起するためには、その根拠(証拠)を探し、提示することが「学問の方法」上、不可欠な手続きだからです。(つづく)