第620話 2013/11/13

橘諸兄の故地

 今日は山形に来ています。急に寒くなり、黄葉した山々はうっすらと雪化粧して、とてもきれいです。秋と冬とが一緒に来たような不思議な景色でした。明日は東京に向かいます。

 西村秀己さんの論稿「橘諸兄考 — 九州王朝臣下たちの行方」(『古代に真実を求めて』14集、2011年)によれば、九州王朝から大和朝廷への権力交代にともない、九州王朝の官僚たちの多くが大和朝廷の官僚として仕えたとされ、その一人が橘諸兄であるとする仮説を発表されました。なるほど、ありそうなことだと思いました。
 西村稿によれば、橘諸兄の祖父の栗隈王が白鳳11年(681)に筑紫率に任命されていることなどを根拠に、栗隈王を九州王朝の王族とされました。従っ て、橘諸兄も九州王朝の王族とされたのです。一応、理屈としては通っていますが、白村江戦の敗北後に台頭した近畿天皇家側の有力者としての栗隈王が筑紫率に任命されたという可能性もあり、西村さんの論証だけではその可能性を完全には排除できませんので、有力説ではあるものの、やや安定感に欠ける仮説ではないかと思っていました。
 ところが先日、たまたま読み直していた『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告 上巻』(昭和11年、佐賀県刊)の「杵島郡橘村」の項に次の記事があることに気づきました。

 「一、道祖王遺跡 附奈良麿遺跡  橘村大字大日字草場 草場共同墓地
 天平寶字年間橘奈良麿は、道祖王を奉じ禁中の奸邪を除かんとして成らず、後、奈良麿、王を奉じて海路此地に来着す、後世稱して奈良崎(現時楢崎)と云 ふ、今道祖王と稱する地に長さ六尺の石碑あり此れ道祖王の御陵なるべく、其前方に同形の竿石三本あるは橘奈良麿の墓なるべし、此附近橘氏の後裔多し、片白 の梅宮神社は奈良麿を祀り、潮見神社亦た同じ、上宮には橘諸兄を祀り、下宮には橘氏一族を祀る、村名橘の出所故あるなり」

 佐賀県杵島郡にある橘村は橘奈良麻呂が道祖王(ふなど王、天武の孫)と共に落ち延びた地で、今も奈良麻呂の末裔が多く在住しており、そのため橘村と称したというものです。有名な「奈良麻呂の変(757)」で道祖王は罪を得て亡くなり、首謀者とされた橘奈良麻呂については 『続日本紀』はその後を記していません。
 奈良麻呂は橘諸兄の子供ですが、「変」の後に佐賀県杵島まで落ち延びたという伝承があったことを私は知りませんでした。念のため、「古田史学の会」会員 で佐賀県武雄市在住の古川清久さんに電話で問い合わせたところ、古川さんはそのことを大変よくご存じて、詳しく教えていただきました。橘村は現在の武雄市橘町のことで、明治になり「橘村」と命名されたとのこと。同地には有名な「おつぼ山神籠石」もあり、歴史的にも重要な地域のようです。なお、古川さんが主催されている「久留米地名研究会」のホームページに掲載されている記事「杵島」に、橘村や橘奈良麻呂の現地伝承について紹介されていますので、ご覧ください。
 橘奈良麻呂が大和での権力闘争に敗れて、逃げた先が九州王朝の故地、佐賀県杵島郡であったとすれぱ、橘氏と九州王朝との関係をうかがわせる伝承ではないでしょうか。こうした現地伝承の存在は、西村説の傍証になりそうです。機会があればわたしも現地調査してみたいものです。佐賀県には万葉歌人「柿本人麿」 のご子孫もおられ、本当に不思議な伝承や地名も数多く残っており、多元史観・九州王朝説での解明が待たれます。


第619話 2013/11/09

「宇佐八幡文書」の九州年号

 正木裕さんが『日本書紀』史料批判の新手法「34年遡上説」を駆使して、九州王朝史の解明に果敢に取り組んでおられることは、何度も紹介してきたところですが、わたしも20年以上前から九州王朝系史料の探索と分析により、九州王朝史復元に取り組んできました。中でも、「宇佐八幡文書」中に多くの九州王朝系伝承が含まれていることに気づき、一部は研究論文として発表してきましたが、大部分は史料批判や分析が困難で、未発表のままとなっています。そこで、その未発表史料について紹介し、古田学派研究者による解明や作業仮説の提起を促したいと思います。
 「宇佐八幡文書」や京都の「石清水八幡文書」に共通して見える不思議な伝承記事があります。それは、九州年号の「善記元年(522)」に八幡大菩薩が唐(当時は南朝の梁か北朝の魏)から日本に帰ってきて、その後生まれた四人の子供たちとともに日本を統治した、という伝承です。たとえば次の通りです。

 「香椎宮縁起云、善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩日本還給」
 「又善記元年記云、大帯姫従大唐渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第一巻)

 「善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩(私云、香椎御事也、)渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第十五巻)

「以善記元年壬丑(寅の誤写か:古賀)、従大唐八幡大菩薩日本渡給」
 (『石清水八幡宮史料叢書』2、高橋啓三編)

 わたしの知るところでは、以上の「八幡宮史料」にこの伝承記事が見えるのですが、その内容から北部九州(香椎宮)が舞台であり、「八幡大菩薩」と称される人物が「唐」より帰国して、日本の統治者になったというものです。おそらくは弥生時代の人物「大帯姫」の伝承と混同されて伝わった史料もありますが、九州年号「善記元年(522)」の事件として記録されていますから、「八幡大菩薩」が九州王朝の王であれば、当時の倭王「筑紫君磐井」その人の伝承と考えるべきかもしれません。
 史料的限界があり、決定的な論証は今のところ困難ですが、もし筑紫君磐井の伝承であれば、磐井は「唐(梁か北魏)」から帰国し、倭王に即位して、九州年号を「継体」から「善記」に改元したことになります。引き続き史料探索を進め、仮説を構築する必要があります。それにしても、不思議な伝承記事です。


第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第617話 2013/11/02

古田武彦自伝『真実に悔いなし』を読む

 ミネルヴァ書房から出された古田先生による自伝『真実に悔いなし』を少しずつ読み進めています。普通、古田先生の新著は 一気に読んでしまうのですが、今回は少しずつ丁寧に読むことにしました。今まで古田先生からおりにふれてお聞かせいただいた先生の歩まれた人生やその思い出が、先生自らにより詳しく記されており、感慨深く読んでいます。
 将来、「古田武彦伝」を優秀な若者により執筆されることを想像していたのですが、古田先生ご自身による自伝として刊行されたことに、ミネルヴァ書房にも 感謝しています。古田ファンや古田学派研究者にとって必読の一冊です。読了しましたら、また読後感を書きたいと思います。


第616話 2013/10/27

文字史料による「評」論(7)

 文字史料による「評」論と題して、史料事実や史料根拠を明示しながら、九州王朝の「評制」についての考察を続けてきました。その最後として、『日本書紀』の中に見える「評」について触れたいと思います。
 『日本書紀』は「評」を「郡」に書き換えた「郡制」史料ですが、例外のような「評」の記事があります。継体二四年(530)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背の評に迎へ討つ。背の評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 この記事について、古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、336頁)において、次のように説明されています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 さらに、「評」の縁源について次のように指摘されています。

 「『宋書』百官志によると、秦以来、『廷尉』に『正・監・評』の官があり、軍事と刑獄を兼ねた。魏・晋以来は、『廷尉 評』ではなく、ストレートに『評』といったという。すなわち、楽浪郡や帯方郡には、この『評』があって、中国の朝鮮半島支配の原点となっていたようであ る。」

 この解説から、「評制」は中国の軍事と刑獄を兼ねた行政制度に縁源があったことがわかります。このことを九州王朝(倭 国)は当然知っていたはずですから、7世紀中頃に自らの支配領域に「評制」を施行したとき、その主たる目的は中国に倣って「軍事と刑獄を兼ねた行政制度」 確立であったと考えても大過ないのではないでしょうか。すなわち、7世紀中頃の朝鮮半島での、唐・新羅対倭国・百済の軍事的緊張関係の高まりから、「評 制」を全国に施行(天下立評)したものと思われます。さらに主戦場となる朝鮮半島や朝鮮海峡から離れた摂津難波に副都(前期難波宮)を造営したのです。まさに「難波朝廷天下立評」(『皇太神宮儀式帳』)です。
 このように、「軍事行政」としての「評」設立とその「評制」の施行拠点であり主戦場から遠く離れた摂津難波への副都(難波朝廷)造営は密接な政治的意図で繋がっていたのです。


第615話 2013/10/24

日本海側の「悪王子」「鬼」伝承

 今週初めからの出張で、富山県高岡市・魚津市、新潟県長岡市・五泉市と周り、ようやく東京に着きました。今、八重洲のブリジストン美術館のティールーム・ジョルジェットでランチをとっています。このお店のミックスサンドとダージリンティーのセット(1200円、30食限定)はおすすめです。壁には長谷川路可(はせがわ・るか 1897-1967)のフレスコ画4点が展示されており、そのやわらかな色調には心が癒されます。ここはわたしのお気に入りのお店です。

 高岡市では少し空き時間ができましたので、お城の中にある市立博物館に行ってきました。古くて地味な博物館でしたが、入館料は無料で受付のご婦人はとても上品で親切な方でした。当地の歴史研究会が発行した会誌などを閲覧しましたが、そこに連載されていた「悪王子」伝説の研究論文には興味をひかれました。
 昔々、高岡市の二上山に住む悪王子に、毎年、越中の乙女を大勢人身御供として差し出していたという伝説に関する研究で、「悪王子」を祭る神社や伝説が各地にあることなどが紹介されていました。京都にも「悪王子」を祭る神社があるとのことで、わたしはそのことを知りませんでした。
 また別の記事によれば、日本海側には各地に「鬼」に関する伝承があり、「鬼」サミットなどが開催されていることも知りました。これら「悪王子」や「鬼」 の伝承が、『赤渕神社縁起』の「鬼神」「悪鬼」と関係があるのかどうか興味がわきました。有名な秋田の「なまはげ」なんかも「鬼」伝承の一つでしょうか。 すでに「鬼」に関する研究は数多くなされていますから、「鬼」を「蝦夷」とする先行説があるのか、京都に帰ったら調べてみようと思います。

 外はまだ雨です。これから東京で仕事をした後、名古屋に向かい、夕方から代理店と商談です。今夜は名古屋で宿泊し、明日は岐阜県養老町に向かいます。台風の影響で新幹線が遅れないことを祈っています。


第614話 2013/10/22

『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さんが『日本書紀』天武紀持統紀の記事に34年前の記事が移動挿入され ているという「34年遡上」説を関西例会などで発表されたとき、34年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り、論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「34年遡上」説は検証され淘汰され、今日に至っています。関西例会参加者には、よくご存じのことかと思います。
 しかしそれでもなお「34年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』85号(2008年4月)で発表された「常色の宗教改革」 という仮説です。九州年号の常色元年(647)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が34年後の天武十年(681)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(681)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号(2008年4月)

 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしはずっと半信半疑でした。ところが、今回知った天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚愕しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮 を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁 起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「34年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。 「34年遡上」説、おそるべしです。
 この他にも『赤渕神社縁起』には重要な記事が記されていますが、引き続き検討して報告したいと思います。


第613話 2013/10/20

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。このことを検討・考察してみました。
 まず『日本書紀』を読みなおしてみました。すると常色元年に相当する孝徳紀大化三年(647)七月条に「渟足(ぬたり)柵を造りて、柵戸を置く。」とい う記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足(ぬたり)柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、同じ『日本書紀』孝徳紀大化三年(647)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎた てまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の史料事実から考えてみますと、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。今後の楽しみな研究テーマです。


第612話 2013/10/19

薩摩半島の高良一族

 本日の関西例会では、中国曲阜市在住の会員青木さんの研究論文を竹村さんが代読されたり、武雄市の会員古川さんらの調査報告を正木さんが紹介されるなど、ちょっとかわった試みがなされました。関西例会に参加しにくい遠方の会員の研究などが代理報告されることにより、多くの知見や研究成果が共有でき、よい取り組みだと思います。
 特に古川さんの調査は、薩摩半島(南九州市など)に「高良神社」(御祭神は玉垂命・他)が分布しており、宮司は高良一族ということで、久留米市の高良大社の研究を永く続けてきたわたしも知らなかったことでした。薩摩の「高良神社」の創建は和銅年間にまで遡るとのことで、ちょうど九州王朝滅亡の時期でもあり、とても興味深い伝承です。「古田史学の会」でも現地調査を行おうと正木さんから提案がありました。是非、実現させたいものです。
 10月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 続7世紀の日本の記述の問題(中国曲阜市・青木英利、代読:竹村順弘)
2). 縄文海進と倭人渡来(木津川市・竹村順弘)
3). 駆逐される東夷(木津川市・竹村順弘)
4). 高句麗と倭人(木津川市・竹村順弘)
5). 『日本書紀』持統紀に見える「蝦夷男女二百一十三人」について(明石市・不二井伸平)
6). 日本書紀に遣隋使はなかった(八尾市・服部静尚)
7). 古川清久氏らによる南九州市河辺町の「高良一族」調査(川西市・正木裕)
8). 図と写真に見る瓊瓊杵降臨地と室見川の銘板の「臨地性」について(川西市・正木裕)
9). 「倭人」と「盟」についての若干の資料紹介(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・岩永芳明さんから「腰岳の黒曜石」寄贈・古田武彦研究自伝『真実に悔いなし』発刊・『古代に真実を求めて』16集再校中・持統崩御の34年遡り説・その他


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)


第609話 2013/10/16

『古田史学会報』118号の紹介

 『古田史学会報』118号が発行されましたのでご案内します。今回も古田先生から原稿をいただきました。117号掲載の西村稿への批判ですが、古田先生の学問の方法についての解説なども記されています。
 正木稿は倭人伝里程記事が実地踏査によるとして、精緻な検証がなされ、古田説の正しさを再確認されています。阿部稿では関西例会でも度々話題となってい る「廣瀬」「龍田」が仏教儀式に関係したものとする新解釈が提示されています。なかなか面白い仮説です。服部稿は関西例会で発表された仮説で、史料に見える「荒」に注目された好論です。西村稿は、近畿天皇家の初期の天皇は師木県主だったとするものです。不二井さんからは書評が寄せられ、その著者は古田ファンとのこと。いずれも優れた論稿で、好論満載の会報となりました。

〔『古田史学会報』118号の内容〕
○古田史学の真実 — 西村論稿批判  古田武彦
○「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の行程について  川西市 正木 裕
○「廣瀬」「龍田」記事について
  — 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において  札幌市 阿部周一
○難波と近江の出土土器の考察  京都市 古賀達也
○荒振神・荒神・荒についての一考察  八尾市 服部静尚
○書評『朱鳥翔けよ』高松康  明石市 不二井伸平
○「欠史八代」の実相  高松市 西村秀己
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○新東方史学会(H19~25)会計報告
○『古代に真実を求めて』第16集発行予定の報告と第17集の原稿募集
○編集後記