第661話 2014/02/11

武田邦彦さんの学問論

 中部大学教授の武田邦彦さんのブログをときおり紹介していますが、学問や学説について自然科学の分野を例にあげて、考えさせられる持論を展開されていますので、ご紹介したいと思います。
 新説が世に受け入れられるのに何故時間がかかるのかという問題を、学問や人間の本質にまで踏み込んで考察されており、古田史学を世に認めさせるという 「古田史学の会」の使命を考える上でも刺激的な見解です。賛否は別にしても、皆さんも一緒に考えていただければと思います。以下、全文を転載させていただ きます。

 学問・芸術と報道「査読委員はわかってくれない」
                  武田邦彦
              (平成26年2月10日)

 暗い話題では「現代のベートーベン」と囃した作曲家が実は作曲をしていなかったという事件があり、明るいほうでは若い女性が新しい万能細胞で画期的な業績を上げたことが伝えられていた。
 その若い女性が「論文を査読した学者が、『300年にわたる細胞の歴史を冒とくしている』と理解してくれなかった」と言っていた。これについてテレビでもコメントを求められたが、「普通にあることです」と答えました。
 学問というのは相反する2つの側面がある。一つは「これまで築き上げてきた知識と学問体系を大切にする」ということであり、もう一つの活動が「今まで築き上げてきたことが間違いであることを発見する」ということだ。
 この2つは全く違う概念で相互に矛盾しているが、それでも両方とも学問としては欠かすことができない。最近ではもう一つ「役に立つ、あるいはお金になる活動」というのが学問の中に混入してきて学会は混乱している。
 学問は一つ一つの事実や理論を慎重に積み上げてきて、人間の知恵の集積を行う。それが役に立つかどうかはやがてわかることで、学問が体系化の作業をしているときには「役に立つかどうか」を考えることはできない。
 学問が新しい分野を拓いたり、新しい進歩がもたらされても、それが社会で活用されるまでには平均的に30年、ものによっては80年ぐらいかかる。それは 当たり前のことで、発見された時にそれが社会にどのように役立つかわかるようなら、「新しい分野」とは言えないからだ。
 それはともかくとして、女性の研究者の論文に対して、実験で観測された事実を拒絶した査読委員は、第一の立場(これまで築かれてきた学問体系を大切にする)に立っているからだ。それが間違っているかというとそうでもない。
 学問の世界は「正しいこと」がわからない。これまでの学問を覆すようなことは極端に言うと日常的に起こる。たとえば「エネルギーが要らない駆動装置」という発明は膨大にあるが、これまではすべて「間違い、錯覚、サギ」の類だった。それでも、テスト方法や実験結果がきれいに整理されている論文がでる。
 でも、「間違い、錯覚、サギ」を見分ける唯一の方法は、「新しいことはまず拒絶してみる」という手法である。この手法が適切かどうかは不明だが、人間の頭脳で真偽を判別できないのだから、それしかないという感じだ。論文審査は書面だけだからである。
 もし、新しい発見が本当のことだったら、本人もあきらめないし、どこかで同じ結果が得られるので、徐々にそれが真実であることがわかる。学者はそんなことは十分に知っているので、論文をだし、罵倒されても、「それはまだ証明が不足しているな」と考えて、またアタックする。学問は新しいことを目指すがゆえにそれは宿命と言っても良い。


第660話 2014/02/11

納音(なっちん)と九州年号

「洛中洛外日記」658話で紹介しました、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の旧家で発見された九州年号史料のコピーが、前垣芳郎さん(菊水史談会)から送られてきました。それは今まで見たこともないような不思議な九州年号史料でした。
前垣さんによると、当地の庄屋だった旧家からミカン箱二つに約200点の古文書が入っていることが発見され、そのうちの一点が今回送られてきた九州年号史料とのこと。その史料はA2サイズほどの1枚もので、縦横に升目が引かれ、最上段には「納音」(なっちん)と呼ばれる占いに使われる用語が30個並び、 2段目には五行説の「木・火・土・金・水」が繰り返して並んでいます。その下に、九州年号「善記」から始まる年号と年を示す数字が右から左へ、そして下段へと、江戸時代の年号「寶暦二年」(1752)まで同筆で書かれ、その後は別筆で「天明元年」(1781)まで記されています。左側には「寶暦四甲戌盃春 上浣」と成立年(1754)が記されています。
納音(なっちん)というものをわたしはこの史料で初めて知ったのですが、たとえば「山頭・火」という納音は、有名な種田山頭火の俳号の出典とのことです。生年の納音を根拠に占いに使用するらしいのですが、そのためにこの史料が作られたのであれば、寶暦四年よりも約1200年も昔の九州年号から始める必要はないように思います。大昔に亡くなった人を占う必要が理解できません。
しかも、五行説に基づいて年代を列記するのであれば、最初は「木」から始まってほしいところですが、九州年号の善記元年(522)は「金」です。干支に基づくのであれば「甲子」からですが、善記元年の干支は「壬寅」であり、これも違います。このように何とも史料性格(使用目的など)がわからない不思議な九州年号史料なのです。ただ、九州年号の「善記元年」からスタートしていることから、年号を強烈に意識して書かれたことは確かでしょう。
届いたばかりですので、これからしっかりと時間をかけて研究しようと思います。今回、この九州年号史料のコピーをご送付いただいた前垣さんに、発見された史料を見せていただけないかとお願いしたところ、ご承諾いただけました。5月の連休にでも当地を訪問したいと考えています。
納音についてインターネット上に次の解説がありましたので、転載します。ご参考まで。

※納音とは・・・六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生まれ年の納音によってその人の運命を判断する。
井泉水=明治17年生まれ。
甲申(きのえさる)で、納音は井泉水(せいせんのみず)である。
山頭火=明治15年生まれ。
壬午(みずのえうま)で、納音は楊柳木(ようりゅうのき)である。

納音(なっちん)付き九州年号

納音(なっちん)付き九州年号

「九州年号」を記す一覧表を発見 — 和水町前原の石原家文書 熊本県玉名市和水町 前垣芳郎
(古田史学会報 122号)


第659話 2014/02/09

名古屋市博物館「文字のチカラ」展

 「洛中洛外日記」657話で紹介しました名古屋市博物館「文字のチカラ」展で すが、『古事記』真福寺本以外にも、大須観音(真福寺)所蔵の国宝『漢書』食貨志や、「大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍断簡」(個人蔵)も出展されており、大きな規模ではないのですが、出色の展示会です。金石文でも「王賜銘鉄剣」(千葉県市原市稲荷台1号墳出土)の他、複製品ではありますが、「七支刀」 「江田船山古墳出土大刀」「『各田部臣』銀象眼大刀」などが展示されています。
 展示以外に感心したのが、会場で販売されている展示解説図録『文字のチカラ』です。カラー写真満載の160頁で価格は1000円。資料としてとても良いものでした。解説の内容は一元史観に基づいていますから、この点は割り引く必要がありますが。
 同展示会は2月16日までです。東海地区の皆さんには特におすすめです。


第658話 2014/02/09

熊本県の旧家から九州年号史料発見

 先週、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の前垣さんという方から拙宅にお電話があり、地元の庄屋だった家から大量の古文書が見つかり、その中に「九州年号」が記されたものがあるとのことでした。前垣さんは当地の菊水史談会の方で、『「九州年号」の研究』を図書館で読み、九州年号やわたしのことを知ったとのことでした。それでその九州年号史料のことをわたしに知らせるために、わざわざ連絡先を調べてお電話をくださったのでした。
 前垣さんのお話によると、大量の古文書の中で、九州年号が記されているのは一点だけのようで、「善記」「正和」「朱雀」「大化」「大長」などの九州年号が記されているそうです。成立は江戸時代のようでした。同九州年号史料のコピーを送っていただけることになりましたので、楽しみにしています。
 和水町には有名な江田船山古墳があります。そのような地で発見された九州年号史料ですから、とても興味深いものです。コピーが届きましたら、改めて御報告します。それにしても、『「九州年号」の研究』がいろんなところで読まれ、発見された九州年号史料のことをご連絡いただける時代になったようで、大変ありがたいことです。


第657話 2014/02/08

『古事記』真福寺本を見る

 先日、名古屋市立博物館で開催中の「文字のチカラ 古代東海の文字世界」を見てきました。金石文や木簡など古代の文字史料が多数展示されており、 大変良い展示会だと思いました。中でも、名古屋市の大須観音(真福寺)所蔵の『古事記』真福寺本(国宝)が展示されており、わたしの一番の目的はそれを実見することでした。もちろんガラス越しの拝観なのですが、上巻・中巻・下巻それぞれが開かれており、それらのページだけですが、小一時間ほどしっかりと見てきました。
 わたしが『古事記』真福寺本を見たかった理由の一つに、その字体と書き癖を確認したかったことがありました。「洛中洛外日記」304話や628話で紹介 してきたのですが、『古事記』上巻の「国生み神話」に見える「天沼矛」(あまのぬぼこ)が、真福寺本では「天沼弟」(あまのぬおと)であると古田先生が指摘され、「ぬ」は銅鐸のことで、「ぬおと」とは銅鐸の音のこととする新説を発表されました。
 従来の書誌学研究では真福寺本は誤字が多いとされ、「天沼弟」は誤りで、他の写本などに基づき、「天沼矛」と校訂されてきました。ところが、古谷弘美さん(「古田史学の会」全国世話人・枚方市)の調査によれば、真福寺本は「天治弟」(あまのちおと)であるとされました。
 こうした一連の研究がありましたので、わたしも真福寺本を実見し、その筆跡・字体を確認したいと願っていました。インターネットの「近代デジタルライブ ラリー」でも真福寺本の画像を見ることはできるのですが、やはり実物を直接見る機会を待っていました。そして、今回はじめて実物を見ることができたので す。
 展示された上巻の開かれていたページはスサノオの項でしたが、そこに「治」の字があり確認したところ、つくりは「台」で間違いなく、インターネットや影印本による「天治弟」の「治」と同字体でした。中巻の開かれたページには「詔」の字があり、「召」の部分の上部は「刀」ではなく、「ソ」に近い字体でした (「ソ」は「刀」の略字・異体字のようです)。すなわち、真福寺本では、つくりの「台」と「召」は書き分けられており、「沼」と「治」も書き分けられているようです。
 結論として、実見できた部分は古谷さんによる全字調査結果と同じでした。従って、問題となっている「天沼矛」とされている真福寺本の字体は、影印本やインターネットの画像から見ても、「天治弟」と見て問題ないようです。
 今後の研究課題としては、「天治弟」が『古事記』の原型とした場合は、その「あまのちおと」が何を意味するのかが問題となります。あるいは、通説通り「天沼矛」と理解し、真福寺本の誤写・誤伝とするのか、あるいは全く別の理解が可能なのかの検討が必要と思われます。いずれにしても『古事記』の当該記事 の文脈上でも無理のないものでなければなりません。引き続き様々な仮説の提起と検討が必要です。それが学問研究の醍醐味であり、学問的態度といえます。


第655話 2014/02/02

『二中歴』の「都督」

 「洛中洛外日記」641話・ 642話で江戸時代や戦国時代の「都督」史料を紹介しましたが、わたしが「都督」史料として最も注目してきたのが『二中歴』に収録されている「都督歴」でした。鎌倉時代初期に成立した『二中歴』ですが、その中の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されています。
 「都督歴」冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)
 この冒頭の文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります (藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られてい たことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都 督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。この「都督」は中国の天子から任命された「倭の五王」時代の「都督」とは異なり、九州王朝の天子のもとで任命された「都督」です。
 また、「都督歴」に見える「筑紫本宮」という名称も気になりますが、まだよくわかりません。引き続き、検討します。


第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。


第654話 2014/01/31

おめでとう、小保方さん

 小保方晴子さんのSTAP細胞の研究をテレビ報道で知り、とても驚いています。ノーベル化学賞を受賞された白川先生のケミカルドーピング(ポリマーに金属の性質を発現させる技術)のとき以来の感動です。
 報道によれば、当初、小保方さんの発見は周囲から信じてもらえず、『ネーチャー』からも掲載を拒否されたとのこと。定説を覆すような発見や新たな学説が簡単には受け入れられないのは、理系も日本古代史も似たようなものかと考えさせられる反面、小保方さんの発見は5年で認められたのですから、わたしの感覚からすれば極めて早いと思うのですが、あるマスコミが「遅い」という論調で報道していることには違和感を覚えました。
 古田先生の学説は発表から40年以上もたっていますが、未だ古代史学界は無視の姿勢を貫いているのですから、このこともしっかりと報道し、「遅すぎる」と指摘するのがジャーナリズムやメディアの仕事ではないでしょうか。
 古田先生の支持者に理系の人が多いのは有名ですが、これは古田先生の学問の方法が「データ」や「再現性」「論理性」などを重視されていることにも関係すると思います。「古田史学の会」でも、水野代表とわたしは有機化学を、太田副代表は金属工学を専攻されたとうかがっています。水野さんは日本ペイントで研究開発に関わっておられたこともあり、色素の分子構造や性能についてアドバイスをいただいたこともあります。
 わたしは企業研究ですし、ノーベル賞級とも言われている小保方さんの研究とは比べものにもなりませんが、たとえばわたしが開発した近赤外線吸収染料は、 水着用途(赤外線透撮防止機能)には採用に3年、インナーウェア用途(太陽光発熱機能)には採用に7年かかりました。ですから、社会やマーケットに受け入れられるのに5年や10年かかるのは当然という感じを持っています。
 しかし、古田説が40年以上たっても学界から無視されるという現状は看過できません。もし効果的で実現可能な方法があれば「古田史学の会」としても取り組みたいと思うのですが、現実はそう簡単ではありません。そうした中で、ミネルヴァ書房から古田先生の書籍が続々と刊行されたり、大阪府立大学なんばキャンパス(I-siteなんば)に古田史学書籍コーナーができたりと、一歩一歩ではありますが、着実に前進しています。これからも皆様のご協力と効果的なアドバイスをいただければと思います。それにしても、小保方さん本当におめでとうございます。日本の若者の世界的活躍に拍手喝采です。


第653話 2014/01/29

「古田史学の会」の名称

 今日は快晴の東京に来ています。今年最初の関東出張です。車窓から見える東京タワーや東京スカイツリーが青空に映えてきれいです。

 関東には「古田史学の会」の「地域の会」はありませんが、これは「古田史学の会」設立の事情から意識的にそうしたためです。「市民の古代研究会」が分裂し、「古田史学の会」は全国におられる「市民の古代研究会」会員の受け皿として、全国組織として立ち上げたのですが、関東と九州には「多元的古代研究会」がそれぞれ発足されたので、その地域では「古田史学の会」が受け皿となる必要性がなかったのです。
 また、最古参である「東京古田会」をはじめ、「多元的古代研究会」や「古田史学の会」が互いに協力しあい、切磋琢磨することで、よりよい効果が発揮できると考えていました。ですから、関東や九州に「古田史学の会」の組織を作ることは考えていませんでした。「古田史学の会」発足当時、関東にも「古田史学の会」の組織を作りたいと申し出られた方もありましたが、丁重にお断りしたほどです。
 何よりも、わたしと水野さんには「市民の古代研究会」での経験から、無理な会員拡大を行ってもろくなことにはならないという「暗黙の合意」がありまし た。「組織論」的には正しくないのかもしれませんが、その意識は今も引き継がれています。「トラウマ」と言われても仕方がないのかもしれません。マネージメント論でいうならば、「組織の規模と形態、活動方法は目的(使命・ミッション)に従う」ということにつきますが、このことについては別の機会に触れたい と思います。
 「会」設立にあたり、人事とともに「会名」を検討したのですが、「古田史学」の4文字を入れることと、「○○研究会」という名称にはしないことを、わたしは決めていました。「会」の使命(ミッション)を明確にするために「古田史学」の4文字を冠することを古田先生に御了解いただきましたが、たとえば「古田史学研究会」という名称にはせずに、「古田史学の会」としたのには理由がありました。
 「市民の古代研究会」の理事会変質の過程で、研究会なのだから「研究者」が上で、「古田ファン」は下と、主に研究者で構成されていた理事会が古田ファンの会員を無意識のうちに見下していた可能性がありました。こうしたことが、たとえ無意識であっても二度と起こらないよう、「○○研究会」という名称にはしないことにわたしはこだわり、最終的に「古田史学の会」としたのでした。
 このように、ことあるごとに「古田史学の会」の使命(ミッション)を明確にしてきたにもかかわらず、「古田史学の会」発足の数年後には、熱心に研究発表されていたある会員から、「古田武彦も会員も研究者として平等なのだから、会誌・会報に古田さんの論文を優先的に掲載するのはやめるべき」という声が出たことがありました。わたしは、「古田史学の会」の使命(古田先生や古田史学への支持協力)を説明し、その申し入れを拒絶しました。結局その方は「古田史学の会」を離れられ、別の団体で「活躍」されておられるようです。
 使命を見失った組織の末路は哀れです。「市民の古代研究会」のようになるだけです。この「使命」に関しては、わたしはこれからも微塵も妥協するつもりはありません。もちろん、時代や環境の変化にあわせて「古田史学の会」が進化することは大切ですが、使命を絶対に見失ってはならない。このことをこれからも 繰り返し言い続けていくつもりです。(つづく)


第652話 2014/01/28

「古田史学の会」の創立と使命

 わたしが「市民の古代研究会」の事務局長を辞任し、退会せざるを得なかった経緯をのべてきましたが、一連の状況を理事会の外から見てこられた山崎仁禮男さんによる「私の選択 なぜ古田史学の会に入ったか」が『古田史学会報』創刊号 (1994.06)に掲載されていますので、是非ご一読下さい。
 「市民の古代研究会」を退会するにあたり、わたしは共に戦ってくれた少数の古田支持の理事に、電話で「市民の古代研究会」を退会することと新組織を立ち 上げる決意を伝えました。中村幸雄さん(故人)からは、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人ら(反古田派理事)とは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一からやり直したらええ」と励ましていただきました。水野さんにも行動を共にしてほしいとお願いしたところ、「古賀さんと進退を共にすると、わたしは言ったはずだ」と快諾していただきました。
 そして古田先生にも会を乗っ取られたお詫びと事情を説明しました。古田先生からは「藤田さんはどうされますか」と聞かれ、「行動を共にされます」と返答したところ、「それはよかった」と安心しておられました。何故、会が変質したのか、どうすれば変質しない会を作れるのか悩んでいることを先生に打ち明けた ところ、「7回変質したら、飛び出して8回新しい会を作ったらよいのです」と叱咤激励していただき、わたしは決意を新たにしました。
 「古田史学の会」設立に当たり、最初に決めたのが水野さんを会代表とする人事と、会の目的(使命)でした。それは次の4点です。

1.古田武彦氏の研究活動を支援協力する。
2.古田史学を継承発展させる。
3.古田武彦氏の業績を後世に伝える。
4.会員相互の親睦と研鑽を深め、楽しく活動する。

 特に4番目は古田先生からのアドバイスを受けて取り入れました。先生らしい暖かいご配慮でした。そして次に取りかかったのが「会の運営方法とかたち」を決める、会則作りでした。(つづく)


第651話 2014/01/26

「古田史学の会」誕生前夜

 「市民の古代研究会」理事会の中で少数派で孤軍奮闘していたわたしを支えていたのは、古田支持を明確にしていた関東支部と九州支部からの応援でした。しかし、状況を打開するために理事会や臨時会員総会を開催したものの、「市民の古代研究会」を古田支持の本来の姿に戻すことは絶望的と思われ、両支部は「市民の古代研究会」からの離脱の方向に進んでいました。藤田会長からは、関西と並んで多数の会員がいる関東支部の離脱だけは思いとどまらせるよう指示されていました。しかし、それはもはや不可能でした。反古田派の理事からも「事務局長として、関東と九州の離脱を止めろ」という何とも無責任で身勝手な電話もかかってきました。
 そして、関東支部からのただ一人の理事だった高田かつ子さん(故人)から一枚のファックスが届きました。それには、理事会が反古田派に牛耳られていることは明らかで、なまじ古賀さんが理事会に残ることにより、古田先生は講演に行かなければならず、「人寄せパンダ」として利用されるだけの古田先生のことを思うと胸がつぶれそうです、という高田さんの切々たる心情が吐露されていました。
 その夜、わたしは一晩中考え続けました。そして、「市民の古代研究会」を退会し、古田先生と古田史学を支持支援する新組織を創立することを決意しました。翌日、藤田会長に事務局長の辞任と退会の意志を告げ、行動を共にするよう要請し、一緒に新組織を創立することにしました。その後、関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」を離脱し、「多元的古代研究会・関東」「多元的古代研究会・九州」として再出発されました。
 理事会を頂点とする「市民の古代研究会」という組織の中枢を反古田派に乗っ取られ、変質していく過程を内部から見てきたわたしは、責任を痛感し、自らの非力を悔やみ、何が間違っていたのか、どうすれば変質しない会にできるのかを「市民の古代研究会」退会後も考え続けました。(つづく)


第650話 2014/01/25

「市民の古代研究会」の分裂

 反古田派と古田支持派が対立を深める「市民の古代研究会」理事会の「融和」に腐心されていた藤田友治会長に、このままでは関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」から離脱すると、わたしは反古田派と断固として戦う決意を求めてきましたが、事態は悪化の一途をたどりまし た。
 理事会では、「古田支持で会員を募集しておきながら、『古田離れ』を会員にわからないように画策するのは会と会員に対する背信行為である」と孤軍奮闘するわたしに対して、反古田派の理事からは「病院に行ってはどうか」とまで言われました。わたしは少数派に陥ったこと、もはや形勢を挽回できないことを悟りました。しかも、会の機関紙『市民の古代ニュース』の編集部は反古田派理事に握られており、こうした理事会の内情を全国の会員に知らせることもできませ ん。
 そして勢いにのった「多数派」理事から、わたしの事務局長解任動議が出されました。解任の理由は、わたしが地方支部に対して「多数派工作」をしたことでした。ある地方支部選出の理事が「反古田派」だったため、わたしからの古田支持協力要請が筒抜けになっていたのでした。事務局長解任動議に対して、「わたしは会員総会で事務局長に選ばれたのであり、理事会の決議で解任することはできない」と抵抗しました。そしてこうも付け加えました。「わたしは藤田会長に請われて事務局長を引き受けたのであり、もし藤田会長が古賀は事務局長にふさわしくないと言われるのであれば、会員総会の決議を待つまでもなく辞任する」 と述べました。この発言の真意は、古田支持のわたしと反古田の「多数派理事」のどちらをとるのかの決断を藤田会長に迫ったものでした。その結果、藤田会長は最後までわたしの解任に同意されず、わたしは事務局長のまま「会長預かり」という訳の分からない「処分」となりました。この「処分」は親しかった中間派理事から出された妥協案でした。「会長預かり」でも従来通り事務局長の仕事は続けるとわたしは宣言したものの、もはや少数派になった事務局長にできることは限られており、敗北を痛感しました。
 ちょうどそのときです。それまで沈黙を守っておられた水野さん(現「古田史学の会」代表)がすくっと立ち上がり、「わたしは古賀さんと進退を共にする」 と言われたのです。この水野さんの発言に、それまで騒然としていた理事会が静まりかえりました。わたしと水野さんとは研究分野が異なることもあって(わた しは九州年号研究、水野さんは中国古典研究)、それほど親しいおつきあいはなかったのですが、このときわたしは水野さんを深く信頼するに至り、その関係は20年たった今日まで続いています。こうして、「市民の古代研究会」は分裂に向けて決定的な瞬間を迎えることとなります。(つづく)