第471話 2012/09/23

韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読

 昨日は久しぶりに岡崎公園にある京都府立図書館に行ってきました。平安神宮前の大通りでは龍谷大学ブラスバンドの演奏などいろんなイベントが行われており、大勢の見物客や観光客でごったがえす中、図書館に着くまで大変でした。
 図書館に行った目的は『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に収録されている韓昇さんの中国語 論文「聖徳太子写経真偽考」の閲覧とコピーです。同論文によれば、『維摩詰経』巻下残巻末尾の2行を次のように紹介されています。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
   「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 同論文は簡体字による現代中国文で書かれていますので、文字や文意が不正確かもしれませんが紹介します。論文では最末尾 の1行が「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」となっており、石井公成さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」には無かった「在」の字があります。また、 「経蔵法興寺」と「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」が同一行とされています。
 韓昇さんによれば、この2行は本文とは筆跡が異なっており、「経蔵法興寺」は拙劣な字体で、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」と「定居元年 歳在辛未上宮厩戸写」は本文と字体は似せているが異なる筆跡とされています。これらの当否は実物を見ないことには判断できませんが、もし正しいとすれば、 「経蔵法興寺」は所蔵寺院による署名とも考えられることから、筆跡が異なることはあり得ます。
 やはり問題は、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」をどのように考えるのかという史料性格の分析です。この部 分の前半は『維摩経疏』選述の経緯を記したものと思われ、後半はこの『維摩経疏』を上宮厩戸が定居元年(611)に書写したということが記されています。 従って厳密には、この2行部分を上宮厩戸自身が記したものか、他者が上宮厩戸による書写であることを主張するために記したものかは今のところ不明です。や はり『維摩経疏』が掲載されている『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊を実見したいものです。(つづく)


第470話 2012/09/22

坂本太郎さんと古田先生

 第469話で古田先生が皇室御物の『法華義疏』を電子顕微鏡などで調査されていたことに触れました。この「国宝以上」の超貴重文書を古田先生が調査されるに至った経緯をご紹介したいと思います。
 古田先生が『法華義疏』の研究を始められたとき、自らの仮説を証明するためにどうしても『法華義疏』を実見する必要があったのですが、同書は皇室御物本です。そこで古田先生は古代史学界の重鎮、坂本太郎さんのご自宅を訪問し自説を説明され、どうしても『法華義疏』を見たいと訴えられました(昭和61年7 月28日)。いわば、坂本太郎さんの説とは異なる新説を証明するために、『法華義疏』実見のための紹介状を書いてほしいと坂本太郎さんにお願いされたのです。
 このとき、坂本太郎さんは不治の病にかかられていたそうですが、快く紹介状を書かれました。「『法華義疏』は貴重なもので、見せ難いものではあるが、古田氏には是非とも見せていただきたい。」という趣旨の紹介状だったと古田先生からはお聞きしています。
 多元史観の古田先生に対して、近畿天皇家一元史観に立つ坂本太郎さんが、こともあろうに自らの説が誤りであることを証明する目的のための紹介状を書かれたのです。わたしは古田先生からこの坂本太郎さんとのエピソードをうかがったとき、深く感銘しました。学問的立場は異なっていても、真の歴史学者同士の魂の触れ合いをそこに見たのです。御用学者や曲学阿世 の徒が少なくない現代日本にあって、何とも感動的な話ではないでしょうか。
 紹介状を書かれた後、坂本太郎さんは古田先生に対して、「これは大変時間がかかることです。あせらずに待ってください。」と言われたそうです。その後、 宮内庁から『法華義疏』閲覧の許可がおり、古田先生は昭和薬科大学の同僚で電子顕微鏡の専門家である中村卓造先生と共に、京都御所で『法華義疏』を調査されたとのことです(昭和61年10月17日)。宮内庁が電子顕微鏡撮影までよく認めたものだと思いますが、それだけ坂本太郎さんの紹介状の力が大きかったのでしょう。
 この『法華義疏』に関する論文(「『法華義疏』の史料批判」昭和62年11月30日稿了)が完成する前に坂本太郎さんは亡くなられました。坂本太郎さんの学問的寛容と古田先生の学問的情熱を、わたしたち古田学派の研究者はこのエピソードから学ばなければなりません。
 なお、来年発行予定の『九州王朝の「聖徳太子」伝承』(仮称。ミネルヴァ書房)にこの古田先生の論文を再録させていただくことになりましたのでお知らせします。


第469話 2012/09/21

法興寺と法隆寺

 中国にあると報告されている聖徳太子書写『維摩経疏』末尾に記された次の記事の「経蔵法興寺」という部分について、もう少し深く考察してみます。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 『日本書紀』などによれば、法興寺は「蘇我氏のお寺」とされており、「聖徳太子のお寺」は四天王寺や法隆寺が著名です。 しかしこの『維摩経疏』には、聖徳太子による書写を意味する「上宮厩戸写」としながら、「経蔵法興寺」とされており、何ともちぐはぐです。しかし、わたし にはピンと来るものがありました。
 古田先生の調査研究(「『法華義疏』の史料批判、『古代は沈黙せず』所収。駸々堂出版。1988年)によると、聖徳太子のものとされてきた『法華義疏』 (宮内庁所蔵。皇室御物)の電子顕微鏡撮影などによる実物調査の結果、第一巻冒頭下部に鋭利な刃物で表面の紙が切り取られた長方形の痕跡があり、その部分 には本来所蔵されていた「寺院」の名前が書かれていた可能性が高いことを発見されました。他の巻の当該部分には「法隆寺」と書かれてあることから、第一巻 の切り取られた部分にも、本来の所蔵者名が書かれていたのではないかとされたのです。
 この史料状況から、『法華義疏』はどこか別の寺院から法隆寺に持ち込まれ、その後に第一巻の本来の寺院名が切り取られ、第二巻以降には新所有者としての 「法隆寺」の名前が書き込まれたのです。しかし、第一巻の切り取られた部分には、わずかに墨の痕跡が認められるものの、何と書かれていたかは不明でした。
 こうした古田先生の研究があったので、今回の『維摩経疏』に記された「経蔵法興寺」という、聖徳太子とはあまり関係がなさそうな寺院名に、わたしは強い関心を抱いたのです。もしかすると『法華義疏』を初めとする聖徳太子の「三経義疏」の本来の所有寺院は「法興寺」ではなかったかと考えたのです。(つづ く)


第468話 2012/09/17

「三経義疏」の比較

 韓昇さんの「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)で紹介された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊の鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下残巻の末尾に次の記事があります。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 九州年号の「定居元年」が見え、この部分は後代の追記(偽作)とされているようですが、それほど単純な問題ではないとわたしは思っています。というのも、聖徳太子書写と偽って史料価値を高めるための偽作であれば、もっと違った追記となるのではないでしょうか。
 たとえば「経蔵法興寺」の部分ですが、聖徳太子のお寺といえば、やはり「法隆寺」でしょう。『法華義疏』(皇室御物)や『勝鬘経義疏』(鎌倉時代版本) が法隆寺に伝来していたのですから、後代追記(偽作)するのであれば「経蔵法隆寺」とするでしょう。従って「経蔵法興寺」とあるのは偽作の証拠ではなく、 逆に偽作ではないという心証を得るのです。
 次に「定居元年歳辛未上宮厩戸写」の部分ですが、これも偽作するのであれば、聖徳太子によるとされた「三経義疏」のうち、他の『勝鬘経義疏』(法隆寺蔵 鎌倉時代版本)や『法華義疏』(皇室御物。法隆寺旧蔵)と同じような下記の追記がなされるのではないでしょうか。

 「此是 大委国上宮王私
     集非海彼本」『法華義疏』

 「此是大倭国上宮
  王私集非海彼本」『勝鬘経義疏』

 これらは両義疏冒頭に記されているのですが、いずれも上宮王が私に集めたもので、「海彼」(外国からもたらされた)の本ではないことを意味しています。すなわち、上宮王が書写したり著述したものとはされていません。
 ところが、今回紹介された『維摩経義疏』は「上宮厩戸写」と記されており、他の二疏とは明らかに異なっています。これなども、偽作の手口としてはおかし なもので、逆に偽作ではなく、真作あるいは何らかの根拠があってこうした記事を追記したのではないかと考えられるのです。(つづく)


第467話 2012/09/15

『九州王朝の「聖徳太子」伝承』の出版企画

 先日、古田史学の会の編集会議を開催し、『古代に真実を求めて』16集の投稿原稿採否の検討などを行いました。更に今後の出版事業についても検討し、ミネルヴァ書房と進めていた出版企画の、『「九州年号」の研究』の姉妹編である『「九州王朝」の研究』(仮称)の編集方針を見直しました。
 その結果、テーマを絞り込むこととなり、九州王朝の天子・多利思北弧や利歌彌多弗利に関する研究論文と九州王朝年表からなる『九州王朝の「聖徳太子」伝承』(仮称)を出版することとしました。年内にも収録論文の選定を行い、来年度には出版したいと考えています。『「九州年号」の研究』の出版が当初の計画 よりも大幅に遅れた反省から、今回は予定通り出せるよう頑張ります。
 本日は関西例会が開催されました。発表テーマは次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 人麿はジェノバラインを行き来した(明石市・不二井伸平)
2). 「倭地周旋」および「今使訳所通三十国」の新解釈(姫路市・野田利郎)
3). 天鄙から見た倭人と東(魚是)人の位置(木津川市・竹村順弘)
4). 『三角縁神獣鏡研究事典』を読んで(京都市・岡下英男)
5). 『日本帝皇年代記』の解説(京都市・古賀達也)
6). 聖徳太子書写『維摩経疏』の紹介(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古事記の「矛」と「弟」・行基建立の土塔・新の王莽が始めた「禅譲」・その他


第466話 2012/09/12

二説ある聖徳太子生没年

 服部和夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた聖徳太子書写とされる『唯摩経疏』ですが、末尾の記事はいろいろと面白い問題を含んでいます。同記事の真偽は別として、その問題について検討してみました。
 『唯摩経疏』断簡末尾には次のような記事があり、「上宮厩戸」が『唯摩経疏』を定居元年辛未(611)に書写したとされています。

「経蔵法興寺
定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 ところが聖徳太子の伝記である『補闕記』では『唯摩経疏』の作成開始を壬申(612)の年とし、完成を癸酉(613)の年としており、『唯摩経疏』断簡末尾の記事とは2年の差があるのです。この差は何が原因で発生したのでしょうか。そして、どちらが真実なのでしょうか。ちなみに『日本書紀』には聖徳太子による『唯摩経疏』作成記事はありません。
 通常、聖徳太子の生没年は歴史事典などでは574~622年とされることが多いようです。しかし学問的に見ますと、聖徳太子の生没年にはそれぞれ二つの説があります。特に没年は、『日本書紀』には621年2月5日(推古29年)のことと記されているにもかかわらず、法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える622年2月22日没が「定説」となっています。
 皆さんは既にご存じのことと思いますが、622年に没したとされる同光背銘にある「上宮法皇」は聖徳太子とは別人で、九州王朝の天子・阿毎多利思北弧であることを古田先生が論証されています。すなわち、我が国では、聖徳太子とは別人の没年(『日本書紀』とは没年の年と日が異なっており、あっているのは「2月」だけ。母親や妻の名前も全く異なっている)を「定説」としているのです。理系が本職(化学)のわたしには、とても信じられないほどのずざんな「同定」です。日本の古代史学界ではこのレベルが「定説」として「通用」するのですね。驚きを通り越して、あきれかえります。
 没年と同様に誕生年にも、管見では二説あります。一つは『上宮法王帝説』『補闕記』などを根拠とした574年、もう一つは『聖徳太子伝記』(鎌倉時代成立。『聖徳太子全集』第二巻所収)などを根拠とした572年です。この二つの説が文献に見えるのですが、両説は2年の差をもっています。冒頭で紹介した『唯摩経疏』の成立年が『唯摩経疏』断簡末尾の「定居元年辛未」(611)と『唯摩経疏』の癸酉(613)とでは2年の差があるのですが、この差が聖徳太子誕生年の2説の差と同じです。すなわち、『唯摩経疏』の成立年の2説発生は、誕生年の2説の差が原因なのです。
 このように『補闕記』と『聖徳太子伝記』での『唯摩経疏』完成年は2年のずれがありますが、共に聖徳太子40歳のときであると記されています。誕生年が2年ずれていますから、そのまま『唯摩経疏』完成年も2年ずれたわけですが、それではどちらが真実なのでしょうか。(つづく)


第465話 2012/09/10

中国にあった聖徳太子書写『唯摩経疏』

 名古屋市の服部和夫さん(古田史学の会・会員)から大変興味深い情報がもたらされました。聖徳太子が書写したとされる 『唯摩経疏』断簡が中国にあるというのです。服部さんからご紹介いただいたホームページ「聖徳太子研究の最前線」(石井公成・駒沢大学仏教学部教員)によると、『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」が収録されており、そこには『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊に鳩摩羅什訳『唯摩詰経』巻下残巻があることが報告されています。
 その『唯摩詰経』巻下残巻(17字×127行)の末尾に次のような記載があり、九州年号の「定居元年(611)」が見えるのです。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 韓昇さんの見解では、本文は唐代のものの可能性があるが、末尾の文章は中国人による偽作(後代追記)とされているようです。 同論文や『北京大学図書館蔵敦煌文献』をわたしはまだ見ていませんので、この『唯摩経疏』が聖徳太子の書写によるものかどうか、ただちに判断はできませんが、九州年号の「定居元年」や「経蔵法興寺」などの記事は興味深いものです。取り急ぎ、みなさんに紹介し、わたしも分析検討をすすめていきます。(つづ く)


第464話 2012/09/06

「倭国所布評」木簡の冨川試案

 昨晩は初めて群馬県高崎市で宿泊しました。かなり暑い街かと思っていましたが、さすがに9月ですので、それほどではありませんでした。あるいは京
都の暑さで鍛えられていますから、そう感じたのかもしれません。今朝は桐生市に寄り、今は東武特急で浅草に向かっています。この電車からは東京スカイツリーが至近距離で見えますので、いつも楽しみにしています。 ---

 この北関東地方は「両毛」とも呼ばれ、古代史上でも重要な地域で、ヤマトタケル伝承がある「アヅマ(東・吾妻)」の国です。この「吾妻」に関して
気にかかっているテーマがあります。それは神奈川県在住の冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員)が示唆されたことなのですが、「洛中洛外日記」447話で紹介した藤原宮出土「倭国所布評」木簡について、「□妻倭国所布評大野里」の判読不明の文字は「あ」と訓む字ではないかという指摘です。たとえば、「吾妻」=あづま(東)ではないかというアイデアなのです。

 このアイデアが学問上の仮説となるためには、同木簡の精査と「東」を意味する「吾妻」という表記が他の木簡にもあるのかという手続きが必要です。わたしは、面白いけれども今一つ納得のいくアイデアではないと思い、そのような返答をしました。しかし、今回北関東(吾妻の国)の地に来てみると、この冨川試論は一考の余地があるように思えてきました。

 というのも、「倭国所布評大野里」という国名地名の直前にある二文字であり、「□妻」とあるのですから、一応「吾妻」あるいは「阿妻」のような表記も可能性の一つとしてあり得ないことはなく、少なくとも検討はしなければならないと思うに至ったのです。もし「吾妻」であれば、「アヅマ(東)倭国」となり、西の九州王朝倭国に対して、東の大和朝廷倭国との「意図的書き分け」という作業仮説も成立するからです。

 まずは学問の方法(手続き)として、同木簡を見ることから始めたいと思いますが、はたして見せてもらえるものなのでしょうか。

 --- もうすぐ浅草です。明日は大阪で仕事ですので、これから新幹線で京都に帰ります。


第463話 2012/09/04

太宰府「戸籍」木簡の「川ア里(川辺里)」

 今、新潟へ向かう特急北越7号の車中です。左には夕日に映える富山湾、右にはごつごつとした立山連峰(剣岳か)の稜線がちょっと不気味で神秘的です。 ---

 さて、久しぶりに太宰府出土「戸籍」木簡について触れます。8月の関西例会で、わたしは大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡(正倉院文書)につい
て解説したのですが、そのときにわたしが勘違いしていたことについても説明しました。それは、太宰府出土「戸籍」木簡に「川ア里」(アは部の略字)とあったので、同「戸籍」木簡は全て川ア里を対象とした「籍」記事と理解していたのですが、それがどうも勘違いだったようなのです。
同「戸籍」木簡には「建ア(たけるべ)」姓や「占ア(うらべ)」姓が記されており、大宝二年の「川辺里」戸籍断簡にも多数の「建部」姓や「卜部(うらべ)」姓が見えることもあって、両者は共に川辺里の「戸籍」のことと、わたしは当初判断していたのです。しかし、同「戸籍」木簡をよく読むと、木簡上部冒頭に「嶋評」とはありますが、何という「里」を対象としたものかは記されていません。あるいは判読できていません(木簡上部に「嶋一□□」という判読不明文字があります)。

 木簡中の「川ア里」という文字は人名などの記事の途中に記されており、これは、その前あるいは後の人物が「川ア里」に関係する人物であることを「注記」しているのであり、木簡に記された人名すべてが「川ア里」の人々であることは意味していないということに気づいたのです。
もし全員が「川ア里」の人であるならば、文の途中で「川ア里」とわざわざ記す必要はありません。むしろこの木簡は「川ア里」以外の別の「里」の人々の出入り増減を記したものと理解すべきではないでしょうか(同木簡には「又附去」「又依去」という記事もあり、人物の移動を示しているようです)。その中のある人物が「川ア里」に移動したことを注記するために、「川ア里」という地名が文章の途中に記されているようなのです。

 少なくとも、そうした可能性の検証なしに、すべて「川ア里」の人物を対象とした「戸籍」木簡と見るべきではなかったのです。
同「戸籍」木簡中の「嶋評」「川ア里」という地名に目を奪われた、わたしの錯覚だったようです。史料批判は慎重な上にも慎重に行わなければならないと痛感した勘違いでした。

 --- 車窓は漆黒となりました。もうすぐ目的地の長岡に到着します。


第462話 2012/09/03

通古賀の王城神社

 九州歴史資料館を見学した後、太宰府市に戻って、通古賀(とおのこが)の王城神社・清明井・観世音寺・榎寺・大野城百間石垣・国分寺跡・大字大裏・水城跡などを見学しました。弟の直樹はこのあたりの地理にやたら詳しく、おかげで短時間のうちに要領よく廻れました。
 大野城にも初めて登ったのですが、その土塁や石垣の規模は想像以上でしたし、水源の豊富さにも目を見張りました。これならば多くの人々が長期間籠城できると思いました。さすがは九州王朝の都を守る日本列島屈指の山城と言えます。
 通古賀の王城神社でも貴重な「発見」がありました。同地区は筑前国府の有力候補地であり、「古賀」地名も「国衙(こくが)」に由来すると見られていま す。そして、神社の説明が書かれた看板には、この神社の始まりを天智4年(665)に都府楼が造営された時とあったことに驚きました。大宰府政の造営年代 を665年のことと伝承されているのです。
 この天智4年(665)の都府楼造営説は船賀法印(江戸時代の僧侶らしい)による「王城神社縁起」からの引用とのことで、同縁起を何としても見てみたい ものです。都府楼を「天智天皇による造営」とする現地伝承はいくつかの古文献に見えるのですが、天智4年のことと具体的年次が記されたものは初めて見まし た。
 わたしは九州王朝の宮殿である大宰府政庁2期遺構(創建瓦は主に老司2式)の造営を、観世音寺創建時期(白鳳10年、670年。創建瓦は老司1式)との関連から、同時期か少し遅れる時期と考えていましたが、王城神社の伝承では、逆に観世音寺よりも少し早い時期ということになります。いずれにしても、白鳳年間創建という大枠は揺るぎませんが、両者の前後関係は引き続き検討しなければならないなと感じています。


第461話 2012/09/02

九州歴史資料館(小郡市)を初訪問

 昨日、久留米大学公開講座で講演を行いました。「久留米は日本の首都だった — 九州王朝史概論」というテーマで、講演冒頭に「久留米は日本の首都 だった」という胡散臭い演題ですので疑いながら聞いてください、と前置きして中国史書(隋書・旧唐書)に見える「倭国」「日本国」について説明しました。
 おかげさまで、大勢のみなさまに御聴講いただき、盛会でした。最後の質疑応答の時間も、次から次へとご質問をいただき、かなり時間オーバーとなってしまい、主催者にご迷惑をおかけしたのではないかと思っています。久留米大学の福山先生やご協力いただいた久留米地名研究会の古川さんらに御礼申し上げます。
 その前日の8月31日には、弟(古賀直樹)の案内で小郡市に移転した九州歴史資料館を初訪問しました。以前は太宰府市にあったのですが、新しくできた同館にはまだ行ったことがありませんでした。当初は太宰府市の国立九州博物館に行くつもりでしたが、ネットで展示内容を調べたところ、それほど関心のある内容ではなかったので、九州歴史資料館訪問に急遽変更したのです。
 この判断は大正解で、わたしが見たかった太宰府や観世音寺関連の遺物が多数展示してあり、大変勉強になりました。特に、大野城出土「孚石都」刻字木柱、 観世音寺や大宰府政庁2期編年の根拠とされた老司式瓦などが実見できて感動しました。いずれも九州王朝にふさわしい優美さを感じられました。同館入場料は 200円(駐車場は無料)と良心的です。是非、皆さんも訪問されてはいかがでしょうか。まだ真新しくとても美しい建物です。ただし、遺跡や遺物の「解説」 はみごとに旧来の大和朝廷一元史観に基づいていますので、この点は期待されないほうがよいと思います。


第460話 2012/08/29

九州年号改元の手順

 先日、正木裕さん(古田史学の会・会員)が見えられ、最近の研究テーマや話題について意見交換しました。主な話題は札幌市の阿部周一さんが「発
見」された九州年号群史料『日本帝皇年代記』でした。二人ともこのような史料がまだ残されていたことに驚き、おそらくわたしたちがまだ知らない史料が各地に遺されているであろうことなどを話し合いました。古田学派の研究者の数がもっと増え、切磋琢磨して研究レベルを上げることができれば、こうした史料発掘や研究がさらに進むことでしょう。今回の阿部さんの史料発掘には感謝の気持ちでいっぱいです。

 「洛中洛外日記」第459話でご紹介した九州年号改元記事(各地からの白雉などの献上に基づいて改元されたという記事)について、わたしの見解を述べたところ、正木さんからするどい指摘がなされました。それは、改元の動機と手順についての基本的な論理性についてでした。

 正木さんが指摘されたのは、白雉や赤雀・赤雉が献上されたから、白雉・白鳳や朱雀・朱鳥に改元されたのではなく、まず改元の動機となる事件(国家的災難・吉兆や辛酉改元の慣習など)が発生し、ついで改元予定の発表があり、それに基づいて各地から献上品が届けられ、その上で新元号が定められ、最後に改元の詔勅が公布されるのではないか、という考え方です。

 細かい点はいろいろとあるにせよ、基本的に改元とはこうした行政手続きを経て行われるというのは、ある意味で当然のことと思いました。この正木さんの指摘は大変するどいものといわざるを得ません。おそらく、九州王朝内で改元の検討が始まったとき、各地でそれにふさわしい献上品が選択され、九州王朝に競って献上されたのではないでしょうか。新元号の根拠とされた品を献上した国に対しては、昇進や褒美、あるいは課役の免除が行われるからです。『日本書紀』の白雉改元記事を見ても、このことは明らかです。

 この正木さんが指摘された「改元手順の論理性」のおかけで、わたしはある疑問の解決案を思いつきました。それは芦屋市出土の「元壬子年」木簡について抱いていた疑問です。同木簡が九州年号の白雉元壬子年(652)を意味することは疑えないのですが、その記載内容や「書式」に疑問をわたしはずっと抱いていたのです。その疑問の一つは、「元壬子年(以下欠)」と書かれた面と、その裏面の「子卯丑□何(以下欠)」という文字列の書き出しがずれていることです。具体的には「元壬子年」の文字が、裏面の文字列より一字分下にずれて書かれているのです。そのため、「元壬子年」という文字列の上にはかなりの空白があり、「白雉」という年号を記すスペースは十分あるにもかかわらず、何故か空白となっていることに、わたしは疑問を感じていました。

 この疑問に対して、今回の正木指摘に基づいて考えると、この「元壬子年」木簡が記された時点では、新年号は未定だったのではないかという可能性と新理解が浮かんだのです。改元の予告と、新元号が決定されるまでの期間にこの木簡が作られた場合、未定の新年号部分を意図的に空白にしたと考えたのです。そのように考えた場合、この木簡の史料状況がうまく説明できるのですが、いかがでしょうか。

 さらにももう一つの疑問ですが、この木簡の上部は半円形に加工されており、いわゆる荷札木簡とは形状が異なっています(下部は欠損)。おそらくこの木簡は手に持っての使用を想定されたもので、改元に関わる儀礼・儀式に用いられたのではないでしょうか。意味不明の「子卯丑□何」という記載もこうした視点からの検討が必要と思われます。

 阿部さんの史料発掘や正木さんの改元手順の指摘のおかげで、新たな理解に至ることができ、さらなる展開が期待できそうです。