第459話 2012/08/26

『日本帝皇年代記』の九州王朝記事

 阿部周一さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた『日本帝皇年代記』は様々な史料を寄せ集めて編集されていますが、その中に九州王朝系史料からの引用と思われるものが散見されます。それらの史料批判により九州王朝史の復元に寄与できそうです。それら九州王朝記事についてご紹介します。
 九州王朝系記事として注目さるのが、白雉・白鳳・朱雀・朱鳥の九州年号改元記事です。白雉は「壬子白雉」(652)の下の細注に「依長門国上白雉也」と、長門国からの白雉献上に基づいて改元したとあります。この白雉献上記事は『日本書紀』の「白雉元年」(庚戍・650)二月条に記されているのですが、 『日本帝皇年代記』には九州年号の白雉元年(652)に記されており、本来の九州年号史料に基づいていると考えられます。なお、『日本書紀』の白雉改元記事が二年ずらして盗用されていることに関しては、拙論「白雉改元の史料批判」(『「九州年号」の研究』所収)をご参照ください。
 次に白鳳改元記事ですが、「辛酉白鳳」(661)の細注に「依備後国上白雉也」とあり、備後国からの白雉献上に基づいて白鳳に改元したとされています。これは『日本書紀』にも見えない記事で、九州王朝系記事として貴重です。
 朱雀改元記事では、「甲申朱雀」(684)の細注に「依信濃国上赤雀為瑞」と、信濃国からの赤雀献上が記されています。これも『日本書紀』には見えない記事です。
 朱鳥改元でも、「丙戍朱鳥」(686)の細注に「依大和国上赤雉也」とあり、この大和国からの赤雉献上記事も『日本書紀』には見えません。これは九州王朝への赤雉献上記事ですが、近畿天皇家一元史観では「大和の朝廷」への「大和国」からの献上となり、不自然な感じがあります。
 この他にも、『日本帝皇年代記』には九州王朝系記事が見られますので、別途、『古代に真実を求めて』に小論を投稿したいと思います。


第458話 2012/08/25

『日本帝皇年代記』の九州年号

 昨日の深夜、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールが届きました。『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)のことが紹介されており、その中に九州年号が使用されていることや、白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることなどをお知らせいただきました。『日本帝皇年代記』という年代記はわたしも初めて聞くもので、阿部さんもインターネット検索で「発見」されたとのこと。
 さっそく、お知らせいただいた長崎大学リポジトリ(山口隼正「『日本帝皇年代記』について:入来院家所蔵未刊年代記の紹介」2004.03.26)を閲覧したところ、たしかに今まで見たことのないタイプの九州年号群史料でした。神代の時代から始まり、歴代天皇へと続く年代記ですが、九州年号の善記元年(522)からは九州年号を用いた編年体年代記となり、大化6年(700)までは九州年号を、それ以降は近畿天皇家の大宝年号へと続いています。
 多くの史料から集められた様々な和漢の記事が記されている年代記ですが、なかでもわたしが注目したのは、阿部さんも指摘された白鳳10年(670)の 「鎮西建立観音寺」という記事でした。太宰府の観世音寺創建年を記す貴重な記録ですが、同様の記事が山梨県の『勝山記』に見えることは既にご紹介してきたところです。観世音寺白鳳10年建立を記した史料が、山梨県から遠く離れた鹿児島県の入来院家所蔵本『日本帝皇年代記』にも記されているという史料状況は、観世音寺白鳳10年建立の記事が誤記誤伝の類ではなく、九州王朝系史料に確かに存在していたことを指し示すものです。同年代記の「発見」により、観世音寺白鳳10年建立説は創建瓦の編年との一致も含め、ますます確かなものになったといえます。(つづく)

参考

『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介(上) PDF


第457話 2012/08/23

坂出市にあった讃岐国府

 昨日から仕事で香川県坂出市に来ています。同市の地図を見て知ったのですが、讃岐国の国府は坂出市にありました。恥ずかしながら、わたしは讃岐国
府はてっきり県庁所在地の高松市付近にあるものと勝手に思っていました。本当に情けない話ですが、伊予国府もずっと松山市近郊か伊予郡にあったと思っていたのですが、実は今治市にあったことを合田洋一さん(古田史学の会・四国)から教えていただいたこともありました。もっと四国のことを勉強しなければと、自らの知識不足を痛感しています。

 そういえば、四国高速道路のパーキングエリアに「府中湖」があり、何度も利用したことがあったのですが、この「府中」が国府所在地を意味することに気づかずにいたのでした。また、NHK大河「平清盛」で崇徳上皇の流刑地が坂出市だったことを知ったのですが、なぜ坂出市だったのかがようやく納得できました。坂出市の国府跡の近傍に香川県埋蔵文化財センターがあるのも、よく納得できました。

 同センターの学芸員の方にお聞きしたのですが、国府跡の遺構はまだ確定できていないそうですが、遺物の出土量が多く、「府中」という地名から考えても、この地域(府中町本村)であることはほぼ間違いないでしょうとのことでした。この地に国府が置かれたのは大化期(7世紀中頃)から鎌倉時代までとのことで、それ以前の讃岐の中心領域はどこかたずねたところ、いくつか候補地(観音寺市・善通寺市・高松市)があり、坂出市府中もその一つとのこと。
国府跡の側にある城山(きやま)は石塁や土塁がある古代山城とのことでしたので、いつ頃の遺跡かたずねたところ、発掘調査からは不明で、白村江戦以後(天智期)との通説によっておられました。遺構は岡山県の鬼ノ城によく似たものも出土しているとのことでした。また、石塁は神籠石のような一段列石ではなく、いわゆる朝鮮式山城のような積み石とのことです。

 同地域は山間の狭い地域ですので、なぜこんなところに国府がおかれたのか疑問でしたが、古代官道の南海道が近くを通っていたらしく、そういえば高速道路もJR予讃線もこの付近を通っており、交通の要所であることは確かなようです。

 なお、松山市出土の「大長」木簡が展示される「発掘へんろ」巡回展は9月18日から12月16日まで、この香川県埋蔵文化財センターで開催され、入場無料とのことでした。またそのころに訪問するつもりです。


第456話 2012/08/21

古田武彦コレクション『壬申大乱』復刻

 ミネルヴァ書房より古田武彦古代史コレクション『壬申大乱』が復刻されました。既に復刻された『人麿の運命』『古代史の十字路』とともに、古田万
葉論三部作がそろいました。『壬申大乱』は万葉論にとどまらず、『日本書紀』の「壬申の乱」(天武紀上巻)の史料批判としても画期的な一冊です。
 天武紀の「壬申の乱」については、これまで多くの歴史研究者や作家により、さまざまな研究や解釈が重ねられてきました。それは、『日本書紀』の中で他に
類を見ないほど「壬申の乱」が日付入りで詳細な「記録」が記されていることもあり、様々な論者の注目を浴びやすかったことも一因としてあります。
 他方、古田先生はこの「壬申の乱」については著書や講演会でふれられることはありませんでした。15年以上も昔のことになりますが、なぜ「壬申の乱」に
ついて触れられないのか、古田先生に直接おたずねしたことがあります。そのとき、古田先生の返答は次のようなものでした。
 「『日本書紀』天武紀の壬申の乱の記述は詳しすぎます。これは逆に真実かどうか怪しい証拠です。そのような記述を信用して論をなすことは危ない。」
 というものでした。この先生の言葉に、歴史研究とはかくあらねばならないのか、と深く感銘したものです。今回の『壬申大乱』には、こうした学問の方法に
貫かれた、まったく新たな「壬申大乱」像を読者は見ることができるでしょう。古田ファンには是非読んでいただきたい、珠玉の一冊です。
 また、巻末に新たに書き下ろされた「日本の生きた歴史」では、最新の研究成果が記されています。中でもわたしが注目したのが、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄
剣銘の新理解でした。同銘文にある人名「乎獲居臣」の「臣」は「豆」とする新説や、「左治天下」の「天下」をアマ族が天下った支配領域とする新解釈などで
す。こうした古代金石文の新理解は、他の金石文、たとえば出雲の岡田山1号墳出土の「各田ア臣(ぬかたべのおみ)」銘鉄刀の「臣」や、江田船山古墳出土鉄
剣銘の「治天下」などについても、波及しそうで楽しみです。


第455話 2012/08/12

「史蹟百選・九州篇」の検討

 突然の豪雨や雷で、JR環状線などが止まる中、昨日、関西例会が行われました。

 竹村さんからは、ミネルヴァ書房より発行予定の「古田史学による史蹟ガイド・九州編」(仮称)の企画案が報告されました。おかげで、同ガイドのイメージが一層明確になりました。もちろん、単なる「観光ガイド」ではなく、読んだ人が行きたくなり、古田史学・多元史観の勉強も同時にできるという、そんな切り口の遺跡ガイドになればと思っています。まずは、役員で手分けして古田史学にとって重要な九州の100箇所をピックアップしていきます。ご期待ください。

8月例会の報告テーマは次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
1). 日本書紀の「難波」(豊中市・木村賢司)
2). 「□妻倭国所布評大野里」木簡(向日市・西村秀己)
3). 古田武彦著作で綴る史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)
4). 太宰府「戸籍」木簡と大宝二年「嶋郡川辺里戸籍」(京都市・古賀達也)
5). 高砂と筑紫の「神松」「山ほめ祭」(川西市・正木裕)
6). 「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」木簡の「春草」とは(川西市・正木裕)
7). 杜甫の「鬼」(豊中市・木村賢司)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・ミネルヴァ『壬申大乱』出版・『大日本古文書』「大宝二年嶋郡川辺里戸籍」の確認・会務報告・後藤聡一『邪馬台国・近江説』を読む・その他


第454話 2012/08/12

久留米は日本の首都だった

 9月1日(土)に久留米大学の公開講座で講演します。テーマは九州王朝史概論で「久留米は日本の首都だった」という内容です。15日には正木裕さんも講演されます。詳細は久留米大学ホームページをご覧ください。故郷の馴染み深い久留米大学御井キャンパスでの講演をとても楽しみにしています。ちなみに、わたしは同大学の近隣にある御井小学校を卒業しています。
 同公開講座てで配布されるパンフレットに掲載されるレジュメを下記に転載します。

 久留米は日本の首都だった
     -九州王朝史概論-
    古賀達也(古田史学の会・編集長)
 古田武彦氏が『失われた九州王朝』(朝日新聞社・1973)において、古代中国史書などで「倭国」と記されてきた日本列島の中心王朝は近畿天皇家(大和朝廷)ではなく、太宰府を首都(7世紀)とした九州王朝であることを明らかにされた。すなわち、志賀島の金印を授与された委奴国(1世紀頃)を縁源とする、後に三国志魏志倭人伝に邪馬壱国と称された王朝である(2~3世紀。「邪馬台国」とするのは「ヤマト国」と訓みたいための原文改訂であり、学問的には誤った手法である。)。
 6~7世紀、隋書によれば倭国(「イ妥国」と記されている)には阿蘇山があることも記されており、引き続いて北部九州に都をおいていたことがわかっている。7世紀初頭には、その王「阿毎の多利思北弧」が隋の皇帝に国書を出し、それには「日出ずるところの天子」と自称されている。旧来の日本古代史学界では、この国書を近畿天皇家の聖徳太子によるものとしてきた。しかしそれは誤りであり、古田武彦氏が指摘するように、阿蘇山がある国、九州王朝の国書であることは自明といえよう。
 九州王朝(倭国)は白村江敗戦後の7世紀末には衰退し、701年には倭国の分家筋に当たる近畿の大和朝廷が列島の代表王朝となった。旧唐書に「日本国」と記されているのが大和朝廷である。旧唐書には「日本国は倭国の別種」と記されていることからも、このことは明らかである。
 古田武彦氏による九州王朝説は多くの支持者を得た反面、旧来の日本古代史学界はこれに有効な反論をなし得ず、あろうことか無視を続け、今日に至っている。他方、九州王朝研究の進展に伴い、九州王朝の年号が記された木簡「(白雉)元壬子年(652年)」(芦屋市出土)などが発見された。それら九州年号研究は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2011)などで発表され、反響をよんでいる。
 このように古田武彦氏の九州王朝説は「多元的歴史観」として、歴史の真実を求める心ある人々からは学問的に正当に評価されているのである。今回の公開講座では、こうした九州王朝史を概説し、7世紀初頭に九州王朝が太宰府を首都としたこと、4~6世紀には筑後地方(中心は現・久留米市)に首都をおいていたことを、文献史学などの成果により明らかにする。さらには、今も筑後地方に九州王朝の末裔の家系が続いていることも紹介する。


第453話 2012/08/12

科学的事実と空気的事実

 今回は古代史から離れますが、科学的事実(古代史では多元史観・古田史学)よりも、社会の「空気」(利害関係に縛られた通念)を「正しい」とする空気的事実(古代史では近畿天皇家一元史観)という、学問・真理と現実社会に焦点を当てた鋭い一文を紹介します。

 執筆者の武田邦彦さんは中部大学教授で、原子力工学・材料工学の専門家です。テレビにもよく出ておられる著名人といってもよいでしょう。下記は氏
のホームページから転載させていただきました。これを読んで、皆さんはどのように感じられるでしょうか。わたしは、古田史学と古代史学界の関係に似ている
ようで、とても考えさせられました。

 

「理科離れ」・・・君の判断は正しい(先輩からの忠告)  武田邦彦

 「理科離れ」が進んでいる。日本は科学技術立国だから250万人ほどの技術者が必要で、少なくなると自動車もパソコンもテレビも公会堂も作れなくなるし、輸出もできずに食料や石油を輸入することもままならない貧乏国になる。

 だから、どうしたら理科離れを防ぐことができるか?と学会、文科省などが苦労している。でも、私は子供に理科をあまり勧められない。

・・・・・・・・・・

 理科が得意な子供は「アルキメデスの原理」を理解できる。そうすると「北極の氷が融けても海水面は上がらない」ということが分かる。それを学校で言うと先生から「君は温暖化が恐ろしいのが分からないのか!」と怒られる。

 理科が得意な子供は「凝縮と蒸発の原理」が理解できる。そうすると「温暖化すると南極の氷が増える」と言うことが分かる。でも、それを友人に言う
と「お前は環境はどうでも良いのか!」といじめられる。反論しても「NHKが放送しているのがウソと言うのか!」とどうにもならない。

 理科が得意な子供は「森林はCO2を吸収しない」ということを光合成と腐敗の原理から理解している。しかし、それを口にすることはできない。「森を守らないのか!」と怒鳴られる。

 物理の得意な大学生は「エントロピー増大の原理から、再生可能エネルギーとかリサイクルは特殊な場合以外は成立しない」ことを知る。でも、そんな
ことを学会で話すことはできない。エントロピー増大の原理を理解している人は少ないし、まして、そのような難解な原理と日常生活の現象を結びつけることが
できる人も少ない。

 日本は「理科を理解しない方がよい」という社会である。「それは本当はこうなんです」と説明すると「ダサい」と言われる。原発が危険な理由を説明すると「お前は日本の経済はどうでも良いのか!」とバッシングを受ける。

 理科を理解できない人が理科を理解している人をバッシングする時代、理科的に正しいことでも社会にとって不都合と思われることを口にできない時代なのだ。だから君が理科を勉強すると不幸が訪れる。「理科離れ」は正しいのだ。

 これほど自然現象を無視した社会では理科を勉強しない方がよい。NHKは科学的事実を報道しているのではなく、空気的事実を報道する。そしてそれが社会の「正」になるし、さらに受信料を取られる。それは極端に人の心を傷つけるものだ。

(平成24年8月11日)


第452話 2012/08/11

古代オリンピックは2年に一度

ロンドンでのオリンピックは毎日のように感動的なシーンを見せてくれます。今まで以上に楽しいオリンピックのように思い ますが、いかがでしょうか。オリンピックは四年に一度の世界最大のスポーツイベントですが、この四年に一度というのは古代ギリシアでのオリンピックにな らったものです。ところが、わたしの研究では古代オリンピックは二年に一度だったと思われるのです。
ご存じのことと思いますが、古田先生は三国志魏志倭人伝の研究により、古代日本では倭人が一年を二年と計算する「二倍年暦」を使用していたことを明らか にされました。倭人伝に記された倭人の年齢が80~100歳と当時としては考えられないような長寿であることなどから、倭人は一年で二歳年をとると計算し ていたことを発見されたのです(『「邪馬台国」はなかった』参照)。
わたしも、この二倍年暦という概念で、洋の東西の古典を精査したところ、各地に二倍年暦と考えざるを得ない痕跡(史料状況)を見いだしました(「二倍年暦の世界」「続・二倍年暦の世界」をご参照ください)。その一つが古代ギリシアだったのです。ディオゲネス・ラエルディオス著の『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫)によれば、古代ギリシアの哲学者はのきなみ長寿(70~100歳)で、これも二倍年暦による年齢表記としか考えられないのです。
さらに、暦年表記として「第○○回オリンピックの第三年」という表記法が採用されているのです。従って、年齢表記と同様にオリンピックの「四年ごと」も現在の二年ということになります。
こうした史料状況と論理性により、古代オリンピックは四年ごとではなく、二年に一回の祭典だったことになるのです。古代人は現代人よりもはるかに短命で すから、選手の活躍年齢期間も短く、最大のスポーツイベントが四年に一度では間が空きすぎるというべきでしょう。
女子レスリングの伊調選手や吉田選手の三連覇は本当に素晴らしいことですが、これも現代人の寿命が延びたことが一要因でしょう。お二人の活躍を喜びながら、古代オリンピックの二倍年暦について考えてみました。


第451話 2012/08/08

藤原宮時代の国名は「日本」?

 今日は名古屋から東京に来ています。東京も暑いですが、京都や名古屋よりはまだましなようです。その暑い最中、新日本橋からJR神田駅まで歩いたのですが、道を間違って随分遠回りしてしまいました。今は神田駅近くのスタバでアイスコーヒーブレークしています。
 第447話で、藤原宮出土「倭国所布評」木簡についてご紹介したのですが、わたしはこの木簡にかなり衝撃を受けました。この木簡に記された「倭国」につ いて、7世紀末の王朝交代時期に、近畿天皇家が九州王朝の国名「倭国」を自らの中枢の一地域名(現・奈良県)に盗用したものと推察したのですが、より深い疑問はここから発生します。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。この疑問です。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた7世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。先の木簡の例でいえば「倭国所布評」は、「日本国倭国所布評」ということです。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、今までは701年以後とわたしは何となく考えていたのですが、今回の論理展開が正しけれ ば、701年よりも前からということになるのです。
 このような論理展開の当否を含めて、7世紀末の王朝交代時期にどのような経緯でこうした国名自称がなされたのか、九州王朝説の立場から、よく考えてみる必要がありそうです。
 さて、ようやく身体が冷えてきましたので、これからもう一仕事(近赤外線吸収染料のプレゼン)します。今晩は東京泊で、明日はまた名古屋に向かいます。


第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

 今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。

 今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。

 例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。

 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第449話 2012/08/03

地名接尾語「な」

昨晩は金沢市で宿泊しました。金沢へは年に何度か来るのですが、宿泊したのは30年ぶりです。気のせいか、金沢や石川県は美男美女が多いようです。何か歴史的背景があるのか、地域的特性なのか、ただ単にわたしの好みの問題だけなのかもしれませんが。
今回も例によって、「金沢」の語源について考えてみました。「沢」は文字通り「沢」のことで、純粋な地名部分は「かな」でしょう。さらに、「な」は日本 各地にある地名接尾語の「な」ではないでしょうか。従って、「金沢」の地名語幹は「か」となります。
地名接尾語「な」が付くものとしては、伊奈・塩名・榛名・津名・宇品・二名・玉名・桑名・嘉手納などがあり、もしかすると、山科・更級の「な」も同類と思われます。古代朝鮮の任那(みまな)もそうかもしれません。
この「~な」地名に「沢」が付くと、金沢・稲沢・砂沢などとなり、「川」が付くと、神奈川・品川・稲川・女川・砂川などとなります。
記紀神話に登場する神様(人間)「てなづち」「あしなづち」も分解すると、「津」の「ち」(神様)、すなわち「津ち」とは「港の神様」のことで、「て な」「あしな」は地名と思われます。さらに、地名接尾語「な」を取ると、純粋な地名語幹「て」「あし」となるのです。
以上のようなことを考えながら金沢駅を後にしました。地名の研究を始めると、癖になりそうです。古田先生も、「乞食と地名研究は三日やったらやめられない」と言われていたことを思い出しました。
なお、地名接尾語「な」の意味については、今のわたしにはさっぱりわかりませんし、アイデア(思いつき)も出ません。


第448話 2012/07/28

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(652年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のこ とと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。

 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年 号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元 壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。

 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。

 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。

 それは愛媛県松山市の久米窪田II遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定の ようです)。最後の九州年号「大長」(704~712年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経 典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。

 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は1977年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(704~712年)にぴったりなのです。

 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていた だいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。

 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。