第122話 2007/02/23

庚午年籍の保存命令

 今日も一日、花粉症に苦しみながら仕事をしました。洛北の山の杉花粉は半端じゃありません。かなりこたえます。というわけで、今夜は中島みゆきの「サーモン・ダンス」(アルバム『転生』収録)を聴いて、元気を取り戻しながらこの日記を書いています。

 「生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ」というフレーズが大好きな曲です。昔、古田先生から聞いた話しですが、先生も中島みゆきの曲を聴きながら原稿を書かれていたそうです。みゆきファンのわたしとしては、中島みゆきの曲を古田学派の応援歌に認定したいぐらいです。まあ、半分本気、半分冗談ですが。

 さて、このところ庚午年籍についての考察を続けてきましたが、もう少し論及したいと思います。九州王朝により670年に造籍された庚午年籍は、大和朝廷に交代した後も、大宝律令などで永久保存が命令され、その書写は九世紀段階でも全国的レベルで続けられたことについては、既に述べてきたところです。
 701年時点以降も全国的に庚午年籍が残っていたということは、この庚午年籍の永久保存を九州王朝も命じていたと考えざるを得ません。そうでなければ、神亀四年(727)になっても九州諸国の庚午年籍七七〇巻が残っていたとは考えにくいのではないでしょうか。
 このように考えると、庚午年籍は九州王朝にとっても特別に重要な戸籍であったことになります。それでは、なぜ特別に重要な戸籍だったのでしょうか。おそらくは、白村江敗戦以後の混乱した状況下で、氏族の再編成も含めて行われた造籍事業だったからではないでしょうか。これからの研究課題です。


第121話 2007/02/18

暖冬の嵐

  暖冬の今年、早くも春一番が吹き荒れましたが、関西例会でも論戦の嵐が巻き起こっています。昨日の関西例会では、山浦さんから、『なかった』1号・2号に 連載された田遠清和さんの「『心』という迷宮−漱石『心』論」に対する強烈な反論がなされました。山浦さんの反論には、例会参加者からは概ね賛意が得られ ましたが、論文発表が待たれるところです。
 新入会員で例会初発表の永井さんからは、冨川さんの「武烈天皇紀における『倭君』」に敬意を表しながらも、問題点を厳しく指摘する発表がありました。水野代表からも、高市皇子天皇説に基づいた大胆な仮説が発表されました。これにはちょっとついていけないなあ、との感想を持ちましたが、こうした仮説が発表できるのも例会の良いところだと思います。いずれにしても、水野代表にしては大胆な仮説で、面白い内容でした。
 毎月のように初めての参加者がみえられる関西例会ですが、春の嵐のような論戦もまた、楽しいものです。もちろん、互いの敬意や節度は守った上でのことで すが。二次会の飲み会も安い会場がみつかり、大いに盛り上がっています。関西の皆さん、ご遠慮なく参加して下さい。参加費は500円。絶対にお得です。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 古代史「道楽三昧」(豊中市・木村賢司)
2). 『日本書紀』に引用された『百済本記』(奈良市・飯田満麿)
3). 「百年の孤独」か「百年の誤読」か(豊中市・山浦純)
4). 日本書紀「五月五日薬猟」資料批判 I(川西市・正木裕)
5). 武烈紀における麻那君・斯我君記事の持つ意味(たつの市・永井正範)
6). 持統天皇と文武天皇の間(相模原市・冨川ケイ子)
○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・鴫原姓の分布・高市皇子天皇説・他(奈良市・水野孝夫)


第120話 2007/02/11

九州王朝の造籍事業

 評制文書である庚午年籍は九州王朝により、白鳳十年(670)に全国的規模で造籍されたようです。『続日本後紀』の承和六年(839)七月条に中務省が 「左右京職五畿内七道諸国」に庚午年籍を書写して提出するよう命じています。承和十年(843)正月条でも再度書写と提出を諸国に命じていますので、庚午年籍が筑紫諸国だけではなく全国的規模で造籍されていたことがわかります。
 こうした史料状況から、白村江の敗戦後、天子の薩夜麻を唐に捉えられていた九州王朝であるにもかかわらず、全国的な造籍が可能な支配力をまだ有していたことがうかがえます。
 このような九州王朝の造籍力は大和朝廷の時代の大寶二年造籍でも受け継がれたようで、「用紙・体裁・記載様式における西海道戸籍の高度の統一性」が研究者 (宮本救氏)により指摘されています(『古代の日本9』角川書店)。こうした「西海道戸籍の高度の統一性」も、九州王朝説に立てば良く理解できるところで す。
 通説では庚午年籍が全国的な戸籍としては初めてのものとされていますが、これが九州王朝にとって初めての造籍であったかどうかは、今のところ不明です。今後の研究課題と言えます。九州王朝説に立った造籍研究は前人未踏のテーマですが、どなたか挑戦されてみてはいかがでしょうか。


第119話 2007/02/09

九州の庚午年籍

 大量の評制文書である九州の庚午年籍に関する記事が『続日本紀』に記されています。次のようです。

「秋七月丁酉、筑紫諸国の庚午籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」
  神亀四年(727)

 九州諸国の庚午年籍七七〇巻に官印を押したという記事ですが、この記事からわかることは、九州諸国の庚午年籍には大和朝廷の官印は727年まで押されて いなかったという点です。逆に言えば、727年になってようやく大和朝廷は九州の庚午年籍を手に入れることができたということではないでしょうか。
 通常、戸籍には国印が押されていますから、この七七〇巻の筑紫諸国庚午籍には九州王朝時代の各地の国印は押されていたかもしれません。この記事では、国 印ではなく官印を押したとありますから、別に大和朝廷の官庁の印を新たに押したのではないでしょうか。もっとも、国印も官印の一種と思われますから、断定 はできませんが。
 ここからは想像ですが、九州王朝の最後の残存抵抗勢力が七七〇巻の庚午年籍を持っていて、それを大和朝廷が討伐し、この庚午年籍を727年に奪取したの かもしれません。もし、太宰府にあったのなら、もっと早く701年に近い時期に入手できたと思われます。というのも、大和朝廷による筑前島郡川辺里の大寶 二年(702)戸籍が正倉院にあることから、この頃の筑前や太宰府は大和朝廷の支配下にあったと考えられるからです。
 ちなみに、筑紫諸国以外の国々の庚午年籍に対する官印押印記事は『続日本紀』には見えませんから、この筑紫諸国の庚午年籍を手に入れて官印を押したという事実は、特筆すべき事件であると大和朝廷の史官たちには意識されていたのでしょうね。


第118話 2007/02/04

評制文書の保存命令

700年以前の九州王朝の行政単位だった「評」を『日本書紀』や『万葉集』が全て「郡」に書き換えて、九州王朝の存在の隠滅を計ったことは、古田先生が度々指摘されてきたところです。
ところが、「評」を隠した大和朝廷が評制文書の保存を命じていたことをご存じでしょうか。それは「庚午年籍」(こうごねんじゃく)と呼ばれている戸籍です。九州王朝の時代、庚午の年(670年)に作られた戸籍ですが、当然、評の時代ですから、地名は○○評と記されていたはずです。この「庚午年籍」の永久保管を大和朝廷の大宝律令や養老律令で規定しているのです。その他の戸籍は30年で廃棄すると定めていますが、「庚午年籍」だけは保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも「庚午年籍」を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。
更に時代が下った承和六年(839)正月の時点でも、全国に「庚午年籍」の書写を命じていることから(『続日本後紀』)、9世紀においても、評制文書である「庚午年籍」が全国に存在していたことがうかがえます。
『日本書紀』や『万葉集』で、あれほど評を隠して、郡に書き直した大和朝廷が、その一方で大量の評制文書「庚午年籍」の永久保管を命じ、少なくとも9世紀まで実行されていたことは、何とも不思議です。このように、歴史は時に単純な理屈だけではわりきれない現象が起こりますが、だからこそ歴史研究はやりがいがあるのかもしれません。

参考
古田武彦講演録
大化改新と九州王朝
(『市民の古代』第6集 1984年)


第117話 2007/01/27

「原(ばる)」地名
 タレントのそのまんま東さんが宮崎県知事に当選されましたが、その報道によりご本名が東国原(ひがしこくばる)という大変珍しい名前であることを知りました。特に「原」を「ばる」や「はる」と読むのは九州の地名などに多く見られますから、由緒の深い苗字と思われます。
  ちなみに、福岡県には原田(はるだ)、佐賀県には中原(なかばる)・目達原(めたばる)という地名があります。私の故郷の久留米市にも太郎原と書いてダイロウバルという字地名があります。現地の正確な発音としては「デーロバル」だったような記憶があります。
  この「はる」地名ですが、海外にもあります。アフガニスタンのカンダハルやインドのタージマハル(宮殿名)などです。語源的に共通しているのでしょうか。更にはクアラルンプールのプールや、ハンブルグ・ルクセンブルグのブルグも「はる」地名と語源的な関係を推察させますが、いかがでしょうか。
  ところで、日本国内で「原」をはる・ばると読む地名の北限はどこでしょうか。どなたか、教えていただけないでしょうか。


第116話 2007/01/24

『古田史学会報』78号のご案内

 『古田史学会報』78号の編集が終わり、印刷へまわしました。2月初めには会員の皆さまへお届けできます。今号も秀逸な論稿が多数寄せられました。冨川稿、水野稿、正木稿は特にお奨めです。いずれも、重要な新発見とテーマが含まれているからです。わたしの大長年号に関する論稿もひとまず完了といったところです。お楽しみに。

武烈天皇紀における「倭君」 相模原市 冨川ケイ子
万葉集二十二番歌 奈良市 水野孝夫
カメ犬は噛め犬 小金井市 斎藤里喜代
朝倉史跡研修記 古田史学の会・四国 副会長(今治市) 阿部誠一
朱鳥元年僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題) 川西市 正木 裕
夫婦岩の起源は邪馬台国にあった 北葛飾郡わしみや町  角田彰男
続・最後の九州年号─消された隼人征討記事─ 京都市 古賀達也
九州王朝の「官」制 京都市 古賀達也
年頭のご挨拶 ますますの前進を 古田史学の会 代表 水野孝夫
古田史学の会 関西例会のご案内
史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
事務局便り


第115話 2007/01/14

1月20日(土)、古田武彦講演会を開催済み

 昨日、三条河原町のBALビルにある喫茶店で、年始の御挨拶を兼ねて、古田先生と4時間近く対談しました。和田家文書寛政原本や最近の発見などについてお話をうかがうことができました。中でも、親鸞の越後流罪に関する新発見は大変興味深いものでした。
  この時うかがった新発見については、古田史学の会主催の新春講演会(1月20日・大阪市)で発表されるとのことでした。多くの皆さんのご参加をお願い申し上げます。
  古田先生も今年で81歳になられますが、お元気そうで何よりでした。聞けば、1月7日に吹雪の中、登山されたそうです。また、わたしにも、健康に留意し早く本を出すようにご忠告をいただきました。執筆時間を捻出することが今年の課題になりそうです。


第114話 2007/01/13

古層の「天神」−埴安命−

 昨日、初めて仕事で大和高田市へ行きました。駅の近くに「天神社」があり、ちょっと驚きました。というのも、天神社は筑前に濃密に分布する神社で、祭神は多くの場合「埴安命(はにやすのみこと)」で、何故、筑前に多いのか以前から気になっていたからでした。奈良県にもいくつか天神社があるようですが、祭神は埴安命ではないようです。したがって、筑前の天神社とはちょっと経緯や性格が異なるようです。
  筑前の天神社は地禄天神(じろくてんじん)という名称や田神社と書く例もあり、元々は田んぼなどの土の神様のようです。埴安命も土の神様です。それが、後に天神社という表記に代わり、菅原道真を祭る天満宮に変化した例もありました(杷木町松末本村の松末天満宮)。
  また、石見神楽の「五神」では埴安大王が中央の土の神様として活躍しています。次の
通りです。(http://www.geocities.jp/kagura_photo/kagura-enmoku-photo.htmlによる Yahoo!ジオシティーズは終了しました)

  春青大王 木で東方甲乙と七十二日の所領
 夏赤大王 火で西方丙丁と七十二日の所領
  秋白大王 金で南方庚辛と七十二日の所領
 冬黒大王 水で北方壬癸と七十二日の所領
 埴安大王 土で中央戌己と七十二日の所領

  ここで思い起こされるのが、第57話で紹介した『佐賀の「中央」碑』との関係です。この「中央神」が何者かが判らなかったのですが、石見神楽の伝承からすれば、埴安命のことかもしれません。そうすると、天孫降臨で滅ぼされた側の神様が埴安命ということになり、埴安命を祭神とする「天神社」が筑前に濃密に分布している理由が説明できます。
 このテーマ、引き続き検討したいと思います。


第113話 2007/01/06

『なかった 真実の歴史学』第2号発刊

  昨年末、古田先生直接編集『なかった 真実の歴史学』第2号がミネルヴァ書房より発行されました(定価2200円+税)。第2号も盛り沢山の内容で読み応えがあります。古田先生による論稿や講演録も下記の9編が掲載されています。

  ○序言
  ○三つの学会批判
 九州王朝の門柱(太宰府)
 九州年号の木簡(芦屋市)
 「国引き神話」の新理論(ウラジオストク)
○太田覚眠と「トマスによる福音書」 第1回
○古田による古代通史 第2回
○敵祭−−松本清張さんへの書簡 第2回
○中言
○高校生への回答−−中島原野君へ
○先輩への御回答−−浅野雄二さんへ
○末言

  また下記の本会会員の論文なども掲載されています。
○渡嶋と粛慎について−−渡嶋は北海道ではない
  合田洋一(本会全国世話人)
神武が来た道 第1回
  伊東義彰(本会会計監査)
○太陽の娘ヒミカ(漫画)
  古田武彦監修・深津栄美(会員)作・おおばせつお画


第112話 2007/01/02

2007年の抱負

 会員の皆さま、ホームページ読者の皆さま。新年明けましておめでとうございます。
 昨年は九州年号実在の直接証拠ともいえる「元壬子年」木簡の発見や、大長年号に関する新説を発表でき、記念すべき一年となりました。関西例会でも、正木 さんの「34年遡り現象」による『日本書紀』の新史料批判、そして冨川さんの武烈紀の「倭君」の発見など、『日本書紀』研究において注目すべき進展を見ま した。水野さんらの淡海の研究も目が離せない状況です。
 古田学派として、本格的な論客が輩出でき、2007年も楽しみな一年となりそうです。ただ、個人的には勤務先での人事異動のため、新たな仕事に追われ て、今までのようには研究ができない状況です。この日記もなかなか以前のようには筆が進みません。ご期待していただいている読者の皆さまには、申しわけ有 りませんが、しばらくは研究や執筆速度が落ちます。
   わたしも今年で52歳になりますので、健康に留意しながら、仕事と歴史研究を両立できればと願っています。2007年も皆さまのご指導とご協力をお願い申し上げます。


第111話 2006/12/24

最後の九州年号

 『古田史学会報』77号で発表した拙論「最後の九州年号」が、少なからぬ反響をよんでいるようです。九州年号の原形を最も保っているとされる『二中歴』に見えない「大長」を、704年から712年まで続いた最後の九州年号であるとする説ですが、もしこの説が正しければ、九州年号の大長は、大和朝廷の年号「慶雲」「和銅」と並行して存在していたこととなり、九州年号と大和朝廷との権力交代についても、そのあり方の再考が必要となります。
  ところが、大長が大和朝廷の年号と並行していたという説には先行説がありました。鶴峯戊申の『襲国偽僭考』です。そこには「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」と記されており、私の説とは大長元年の位置が違いますが、大和朝廷の大寶年号と併存していたと鶴峯が認識していたことがうかがえます。なお、鶴峯は大長が何年まで続いていたかは記していません。
 従来の九州年号研究では、『襲国偽僭考』の大長は698年から700年までの3年間と認識されていましたが、今回読み直してみて、そうではなかったことが判明しました。九州年号は700年までで、701年からは大和朝廷の大寶に代わると、全ての九州年号研究者が思い込んでいたのではないでしょうか。

最後の九州年号ー「大長」年号の史料批判ー(会報77号) へ

「大長」年号が登場する最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析 へ