第261話 2010/05/08

「禅譲・放伐」シンポジウム

 来る6月20日(日)に大阪で古田史学の会定期会員総会を開催します。総会に先だって、「禅譲・放伐」シンポジウムを開催します。これは、九州王朝から大和朝廷への権力交代が禅譲だったのか放伐だったのかという切り口で討論し、王朝交代の真相に迫ろうという取り組みです。
 ですから、ここで禅譲か放伐かの決着をつけるというよりも、パネラーや参加者をも含めた質疑応答で、歴史の真実を明らかにすることと、古田史学の学問の方法を 再確認することが重要なテーマともいえます。  このような多元史観による日本古代史のシンポジウムは他ではほとんど見ることのできない、ある意味で画期的なシンポジウムになる予感がしていますし、そうなるように是非とも成功させたいと願っています。
 パネラーは、『日本書紀』34年溯り論で近年論文を立て続けに発表されている正木裕さん(本会会員)、骨太な論証と携帯電話検索を得意とする西村秀己さん(本会全国世話人・会計)、淡海八代海説の水野孝夫さん(古田史学の会代表)、そしてわたしの四人です。
 ちなみに、西村さんは「頑固(ハード)」な禅譲説、正木さんはソフトな「どちらかと言えば」禅譲説、水野さんは九州王朝から大和朝廷へとそのまま横滑りした「王朝継続」説、わたしは「さんざん迷った挙げ句」の放伐説です。
 四者四様の個性派論客によるシンポジウムですが、どうなることやら。このやっかいなパネラーを指揮する司会は不二井伸平さん(本会全 国世話人)です。 広辞苑によると、禅譲は「中国で帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。」「天子が皇位を譲ること。」とあり、放伐は「徳を失った君主を討伐して放 逐することをいう、中国人の易姓革命観。」とされています。恐らくは、この定義の確認からシンポジウムは開始されるものと予想しています。参加者との質疑 応答の時間もありますので、是非ご参加下さい。

「禅譲・放伐」シンポジウム済み

期日 010年 6月20日(日) 午後1時(開場)〜午後4時15分、のち総会
場所 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第二ビル5階第1研修室 (JR大阪駅中央出口南五分) JR北新地駅すぐ (TEL06-6345-5000 場所の問い合わせのみにして下さい。
演題 「禅譲・放伐」シンポジウム 司会:不二井伸平 パネラー:古賀達也、西村秀己、正木裕、水野孝夫
参加費 無料

第260話 2010/05/05

一元史観からの太宰府「王都」説

 わたしが注目した『古代文化』2010年3月VOL.61に掲載された赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、良く読むと最終的に主張したい結論が明確には記されていません。しかし、「朝倉橘廣庭宮の記憶」というサブタイトルに示されているように、従来通説では天智の頃とされていた大宰府政庁1期の遺跡(正確には1−1期)を斉明天皇の頃へと時代を引き上げようとされているのです。その論拠の一つとして井上信正説を「大変魅力的な説」として紹介されたのです。
 しかも、赤司氏の狙いはそれだけには留まっていません。大宰府政庁1−1期を斉明天皇の朝倉橘廣庭宮に関係するものと位置付け、従来朝倉市とされてきた朝倉橘廣庭宮の比定地に対して、大宰府を朝倉橘廣庭宮とする説や史料の存在にも触れ、あたかも大宰府が朝倉橘廣庭宮であるとしたいような筆致が見られます。恐らくは続稿ではそこまで進まれるのではないかと、わたしは予想しています。
 そのことは次の文からもうかがえます。斉明天皇の筑紫行きに対して「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。政庁1−1期の建物は、この遷都と何らかの関係があったとみられる。」とされ、更には「その軍事的な中心であった大野城の南麓に大宰府の官衙が威容をなす景観の出現を想像すると、その磁場の中心が筑紫大宰と解することにいささかの躊躇を覚える。」と、水城や山城に防衛された城塞都市太宰府を一地方長官の筑紫大宰の役所とすることに「躊躇」を示されています。そして、「7世紀末に筑紫大宰が、現在地で確立されたことは認められるが、溯って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」とまで述べられているのです。
 「核心的存在に相応しい権力の発現」とはすごい表現だとは思いませんか。大和朝廷一元史観にとっての「核心的存在に相応しい権力」とは大和朝廷の天皇のこと以外にあり得ません。その「発現」が城塞都市太宰府だと言われているのです。すなわち、太宰府建設の基本計画は大和朝廷の天皇のための「王都」建設だと言っているのと同じなのです。ですから、先に紹介した「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。」などという表現が用いられているのも理由があったのです。
 わたしには赤司氏や太宰府当地の研究者が、こうした見解、太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至らざるを得ない理由はよくわかります。列島内に類例を見ない巨大防衛施設の水城、そして太宰府を取りまくように配置されている山城群(大野城・基肄城・阿志岐山城)を日夜目にしている現地の研究者であれば、その地が抜きん出たただならぬ地であることは一目瞭然だからです。
 たとえば、九州歴史学の重鎮、田村圓澄氏も率直に次のような疑問を呈されていました。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁1期の頃:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 太宰府現地の研究者が太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至ろうとしていることは学問的にも歴史的にも画期的な動きです。何故なら、太宰府「大和朝廷の王都」説は九州王朝説とほとんど紙一重の距離にまで近づいているからです。太宰府が大和の天皇のための都か、現地九州の天子のための都かという、その一線を越えられるか否かの位置にある仮説なのです。
 天動説から地動説へ移り変わった時代と同じように、大和朝廷一元史観から九州王朝・多元史観への一線を、勇気ある研究者が自らの良心に従い飛び越えようとする歴史的瞬間を間近にした時代をわたしたちは生きているのです。


第259話 2010/05/04

井上信正説の運命

 先日、京都府立総合資料館に行ったとき、目にとまった本がありました。『古代文化』2010年3月VOL.61です。同誌には「日本古代山城の調査成果と研究展望(上)」が特集されており、神籠石などを含む古代山城の最新研究動向(ただし大和朝廷一元史観)を概観する上で参考になります。また、近年発見された二つの神籠石(阿志岐城跡・唐原山城跡)の解説も掲載されており史料価値が高く、古田学派・多元史観の皆さんにもご購読をすすめます(定価2500円・税込み)。わたしも四条通のジュンク堂まで行って購入しました。

 同誌の中で最も注目した論稿が赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」でした。赤司氏は論文の中で、大宰府政庁2期や観世音寺よりも条坊が先行するとした井上信正説を紹介され、「大変魅力的な説」と賞讃されています。わたしも井上説は大変魅力的と考えていますが、井上説を論理的に突き詰めると藤原京よりも太宰府条坊が先だって成立したことになり、通説(大和朝廷一元史観)にとって致命的な「毒」を井上説は含んでおり、一元史観の学界においてどのように遇されるのか興味津々と「心配」を表明したことがありました(第219話 観世音寺創建瓦「老司1式」の論理)。そうした意味では、井上説が無視されることなく、福岡県内の研究者ではありますが赤司氏に評価されていることに安堵しました。

 しかし、問題はここからです。井上説を評価する赤司氏は、条坊都市太宰府が藤原京よりも先行して成立したとはされていないのです。両都市の先後関係を直接的には断定されておられませんが、「王都(藤原宮:古賀注)の整備と併行して、大宰府の造営もなされた」という文面からして、太宰府条坊と藤原京は同時期の成立と赤司氏は考えられておられるようです。
 これまでわたしが度々指摘してきましたように、観世音寺創建瓦の老司1式は藤原宮の瓦に先行するというのが、従来の考古学土器編年だったのですから、太宰府条坊成立が観世音寺よりも早いとする井上説を認めるのなら、太宰府条坊は藤原京よりも成立が早く、日本最初の条坊都市としなければならないはずです。 土器の相対編年を得意とする日本考古学界が、大和朝廷一元史観に不都合なこの土器編年の問題から目をそらし、井上説の都合の良い部分だけを「利用」するの学問的態度とは言い難いのではないでしょうか。もっとも、それでも赤司氏は太宰府条坊と藤原京が同時期成立とされているようなので、従来の学界の態度よりも半歩前進と評価すべきなのでしょう。(つづく)


第258話 2010/05/04

多利思北孤の学問僧たち

『日本書紀』推古31年(623)条の新羅と任那からの仏像一具・金塔・舎利貢献記事が九州王朝への記事となると、その後に記された新羅使節と一緒に唐より帰庫した学問僧たちも九州王朝が派遣した人物ということになります。
 そこには恵齊・恵光・恵日・福因等の名前が記されていますが、彼らこそが『隋書』イ妥国伝に記された、大業3年(607)に多利思北孤が隋に送った「沙門数十人」の一員だったのではないでしょうか。少なくとも時期的にはピッタリです。彼らは中国で仏法を16年ほど学んだことになりますが、その間、中国で
は隋が滅び、唐王朝が成立します。また、倭国では多利思北孤が没します。
 このような東アジアの激動の時代に彼らは異国の地で仏法を学んだのでした。恐らくは、帰国を果たせなかった沙門たちもいたことでしょう。この後、倭国は唐や新羅との関係悪化が進み、運命の白村江戦へと激動の時代に向かっていきます。


第257話 2010/05/03

盗まれた弔問記事

 九州王朝の難波天王寺が、後に近畿天皇家により聖徳太子が建立した四天王寺のことにされたとする仮説を発表してきましたが、この仮説は更に『日本書紀』 に記された四天王寺関連記事中にもまた、九州王朝の難波天王寺の記事を盗用したものがあるのではないかという新たな史料批判の可能性をうかがわせてくれま す。
 こうした視点で『日本書紀』を精査したところ、推古31年(623)条に新羅と任那からの使者が来朝し、仏像一具と金塔・舎利などを貢献してきたので、仏像を葛野の秦寺に置き、その他の金塔・舎利などを四天王寺に納めたという記事があることに注目しました。この四天王寺は九州王朝の難波天王寺のことではないかと考えたのです。
 難波天王寺は九州年号の倭京2年(619)に完成していますから、その4年後に新羅と任那は九州王朝に仏像や舎利を贈り、難波天王寺に金塔・舎利を納めたものと思われます。何故なら推古31年(623)は九州年号の仁王元年にあたり、その前年に日出ずる処の天子である多利思北孤が没しているからです。隣国の天子が亡くなった翌年に仏像や舎利を贈るという、この使節の目的は弔問以外に考えられません。しかも多利思北孤は篤く仏教を崇敬した菩薩天子なのですから、それに相応しい贈り物ではないでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にも、新羅や百済がイ妥国が大国で珍しい物が多く、これを敬迎したと記されています。また、常に通使が往来するとも記されており、関係が緊密であったことがうかがえます。こうした関係から考えても、多利思北孤が亡くなった翌年に遣使が来るとすれば、弔問と考える他ありません。まかり間違っても、九州王朝を素通りして近畿の推古に贈り物をすることなど、九州王朝説に立つ限り考えられないのです。
 従って、弔問使節が持参した仏像や舎利などが納められた寺院は九州王朝の寺院であり、推古31年条に見える四天王寺は九州王朝の難波天王寺と考えざるを得ません。この時の奉納品が四天王寺に存在していたことは、「太子伝古今目録抄所引大同縁起延暦二十二年四天王寺資財帳逸文」にも記されていますから、まちがいなく現四天王寺=九州王朝難波天王寺に納められたのです。
 このように、現四天王寺を九州王朝の難波天王寺と考えると、『日本書紀』に盗用された九州王朝の事績を洗い出すことが可能となるケースがあります。『日本書紀』以外の四天王寺関連史料も同様の視点で史料批判することにより、九州王朝史の復原が進むのではないかと期待されるのです。


第256話 2010/05/02

正倉院の中の「評」史料

 今日は久しぶりに京都府立総合資料館に行って来ました。自転車で鴨川沿の道を走りましたが、比叡山や如意ヶ嶽(大文字山)の新緑が青空に映えて、とても快適でした。資料館では都合三時間ほど図書を閲覧したのですが、最近の論稿なども含め、収穫が大でした。
 特に今回の目的の一つは、東野治之氏の『日本古代木簡の研究』(昭和58年)の閲覧でした。というのも、正倉院に「評」史料が存在するという論文を以前同書で読んだ記憶があったので、その論文を再確認したかったからです。
 ご存じのように大和朝廷は『日本書紀』や『万葉集』などで、700年以前の「評」を「郡」に書き換えており、故意に評制史料の隠滅をはかったと考えられてきました。しかし、膨大な評制史料である庚午年籍に関しては近畿天皇家は長期にわたり保存・書写を命じており、評制史料の取扱いは一様ではなかったのでは ないかと、わたしは考えてきました。古田先生からは正倉院文書に評制史料がないという指摘も受けていたのですが、東野氏により、正倉院内にも「評」史料が存在することが報告されていたので、同論文に深い関心を持っていたのです。
 その論文は「正倉院武器中の下野国箭刻銘についてーー評制下における貢進物の一史料」というもので、正倉院に蔵されている50本の箭(矢)に「下毛野那須 郷※二」※(仝のエが干)という刻銘があり、従来、「那須郷」と判読紹介されていたのは誤りで、正しくは「奈須評」であることを字形や他の根拠から論証され、この50本の箭は評制の時代のものであるとされたのです。
 確かに、「下毛野」という国名の次にいきなり「那須郷」とあるのは不審です。やはり国名の次には「郡」か「評」であるのが通例です。字形に至ってはとても 「郷」と読めたものではなく、他の木簡の字形と比較しても「評」と読むべきものでしたから、東野氏の指摘には説得力があります。
 東野氏はこの箭以外にも正倉院に「評」史料があることを紹介されています。それは『書陵部紀要』29号(1978年)に報告されている「黄施*幡残片」の墨書で、「阿久奈弥評君女子為父母作幡」と「評」銘記されています。この幡はその様式や評制の時代という点から見て。法隆寺系の混入品と見られています。 このように正倉院には「評」史料が現存しており、やはり大和朝廷での「評」史料の取扱は一様ではなかったと考えざるを得ないのです。
  施*は、方偏の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41


第255話 2010/05/01

『古代に真実を求めて』

   第13集発刊

 古田史学の会の論集『古代に真実を求めて』第13集が明石書店より発刊されました。古田史学の会の2009年度賛助会員には会則に従って発送しました。一般書店でもお取り寄せ、お求めできます。定価2400円+税です(257頁)。
 13集には古田先生の講演録1編(日本の未来−日本古代論-、2009年講演)の他、会員による9論文が収録されており、古田史学・多元史観による最新研究成果が報告されています。
 中でも、伊東義彰さんの「太宰府考」と拙論「太宰府条坊と宮域の考察」は九州王朝の首都太宰府研究に関する最新の考古学的知見に基づいたもので、是非、
ご一読いただければと思います。正木裕さんの「『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都」も氏の近年の研究成果がまとめられており、示唆的です。四国松山
の合田洋一さんからは2論文(「越智国の実像」考察の新展開、娜大津の長津宮考)が寄せられました。いずれも現地調査に基づかれた力作です。その他の論文
も貴重な視点や発見が含まれており、読み応えのある一冊となりました。

『古代に真実を求めて』第13集目次
○巻頭言  水野孝夫
○特別掲載 日本の未来ーー日本古代論 古田武彦講演録
○研究論文
 北部九州遠賀川系土器はロシア沿海州から伝わった  佐々木広堂
 『日本書紀』の「二国併記」と漢の里単位問題  草野善彦
 太宰府条坊と宮域の考察  古賀達也
 太宰府考  伊東義彰
不破道を塞げ 三 ーー天子宮が祀るのは、瀬田観音にいた多利思北孤  秀島哲雄
「越智国の実像」考察の新展開 ーー「温湯碑」建立の地と「にぎたつ」  合田洋一
 『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都  正木 裕
  娜大津の長津宮考 ーー斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった  合田洋一
 淡路島考 ーー国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない  野田利郎
○付録
 古田史学の会・会則
 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
 第14集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
 編集後記


第254話 2010/04/25

 

二つの四天王寺

 現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説には、実は越えなければならないハードルがありました。 それは、『日本書紀』に建立が記された四天王寺は何処にあったのか、あるいは建立記事そのものが虚構だったのかという検証が必要だったのです。
 崇峻紀や推古紀に記された四天王寺建立記事が全くの虚構とは考えにくいので、わたしは本来の四天王寺が別にあったのではないかと考え、調べてみました。すると、あったのです。
 難波宮跡の東方にある森之宮神社の社伝には、もともと四天王寺は今の大阪城公園辺りに造られたとあるのです。あるいは、平安期の成立とされる『聖徳太子 伝暦』に、玉造の岸に始めて四天王寺を造ったとの記録もありました。遺跡などの詳細は不明ですが、今の大阪城付近に初めて四天王寺が造られたとの伝承や史料があったのです。
 これらの事実は、現在の四天王寺は九州王朝の天王寺であって、『日本書紀』の記す四天王寺ではないとする、私の仮説にとって偶然とは言い難い大変有利な証拠でもあるのです。このことを4月17日の関西例会で報告したのですが、この「二つの四天王寺」問題と「九州王朝の難波天王寺」仮説は、『日本書紀』の 新たな史料批判の可能性をうかがわせます。このことも、追々、述べていきたいと思います。
 なお、4月の関西例会での発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐、他(豊中市・木村賢司)

2). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

3). 豊雲野神(大阪市・西井健一郎)
 1)豊日の国の祖神・豊雲野神 2)豊の位置の探索

4). 九州王朝と菩薩天子(川西市・正木裕)
 多利思北孤等九州王朝の天子が「菩薩天子」を自負していたと考えれば、以下の仮説が提起できる。
  1. 筑紫君薩夜麻の「薩」は菩薩思想を表す彼の中国風一字名である。なお「讃・珍・済・興・武」や七支刀に刻す「倭王旨」の「旨」、人物画像鏡の「日十大王年」の「年」等(磐井の磐・壹與の與もそうか)から、九州王朝の天子は中国風一字名を併せ持っていたと考えられる。
  2. 薩夜麻の為に大伴部博麻が「身を売った」とされる行為は、菩薩天子に対する仏教上の「捨身供養」である。博麻への恩賞はこれに伴うもので、持統四年九州王朝はその授与権をしっかりと有していた。(これは天武末期から持統初期の叙位・褒賞等記事の主体問題に繋がる)
  3. 『隋書』に記す、開皇二十年(六〇〇)の多利思北孤の親書に対し、隋の高祖が「大いに義理なし」と非難したのは、地上の権威と宗教(仏教)上の権威を併せ持つ統治形態・施政方式に対するものである。

5). 二つの四天王寺(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・『倭姫命世記』の「櫛田宮」「宇礼志」・他(奈良市・水野孝夫)


第253話 2010/04/11

古田武彦初期三部作復刻

ミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしました。古田ファンからは「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』 『失われた九州王朝』 『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底した読む』の復刻が予定されています。
特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに多くの古代史ファンが引きつけられました。 1971年に出された『「邪馬台国」はなかった』が古代史学界に与えたインパクトも強烈でした。わたしも、この本を書店で立ち読みして、「これは今までの邪馬台国ものとは違う」と感じ、買ったその日の内に読了し、是非とも著者に会ってみたいと強く願うようになりました。まさに、わたしの人生を変えた一冊となったのです。
朝日新聞社から出版された三部作は角川文庫、朝日文庫と文庫化されましたが、その後は長く絶版となり、書店に並ぶこともなく残念に思ってきました。恐らくは、この度の復刻に対し、古代史学界からは陰に陽に圧力や嫌がらせが出版社になされたことと思いますが、それらをものともせずに復刻に踏み切ったミネルヴァ書房に感謝したいと思います。是非、皆さんのご購入と近隣の図書館への購入要請を行っていただければと思います。
特に初期三部作はどちらかと言えば古田先生の著作の中では難しい本なのですが、古田史学の方法論が繰り返し論述されており、古田史学ビギナーの方々には 一読再読をお勧めします。この古田先生の学問の方法論が良く理解されていないと、古田史学の「亜流」と称されている似て非なる諸説との区別がつかなくなり ます。また、今回の復刻版には最新の古田説による追記もあり、こちらも貴重です。重ねて、皆さんの講読をお奨めします。


第252話 2010/04/04

天王寺の古瓦

 第250話で述べましたように、現在の四天王寺は地名(旧天王寺村)が示すように、本来は九州王朝の天王寺だったとしますと、その創建は『二中歴』所収「年代歴」の九州年号

「倭京」の細注「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

という記事から、619年になります。
 他方、『日本書紀』には四天王寺の創建を推古元年(593)としています。あるいは、崇峻即位前紀では587年のことのように記されています。いずれにしても、倭京2年(619)より約20〜30年も早いのです。どちらが正しいのでしょうか。
 ここで考古学的知見を見てみましょう。たとえば、岩波『日本書紀』の補注では四天王寺の項に次のような指摘があります。
 「出土の古瓦は飛鳥寺よりも後れる時期のものと見られる点から、推古天皇末年ごろまでには今の地に創立されていたと考えられる。」(岩波書店日本古典文学大系『日本書紀・下』558頁)
 『日本書紀』では飛鳥寺(法興寺)の完成を推古4年(597)としています。四天王寺出土の古瓦はそれよりも後れるというのですから、7世紀初頭の頃となります。そうすると『二中歴』に記された倭京2年(619)に見事に一致します。従って、考古学的にも『日本書紀』の推古元年(593)よりも『二中歴』の方が正確な記事であったこととなるのです。このことからも、この寺の名称は『日本書紀』の四天王寺よりも『二中歴』の天王寺が正しいという結論が導き出されます。
 このように、地名(旧天王寺村)の論理性からも、考古学的知見からも四天王寺は本来は天王寺であり、倭京2年に九州王朝の聖徳により建立されたという『二中歴』の記述は歴史的真実だったことが支持されるに至ったのです。この史料事実と考古学的事実という二重の論証力は決定的と言えるのではないでしょうか。


第251話 2010/03/28

『古田史学会報』97号の紹介

 『古田史学会報』97号の編集が完了しました。今号には正木さんによる九州年号「端政」の意味と出典に関する貴重な発見が報告されています。その正木説を受けて、わたしも「法隆寺の菩薩天子」を執筆できました。
 会員以外では、東北大学名誉教授の吉原賢二さんから「東日流外三郡誌」真作説に立った玉稿をいただきました。著名な化学者でもある吉原さんによる
自然科学の立場からの優れた論文です。和田家文書真偽論争へ新たな一石を投じられたものといえます。

 『古田史学会報』97号の内容
○九州年号「端政」と多利思北孤の事績 川西市 正木 裕
○天孫降臨の「笠沙」の所在地ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である 姫路市 野田利郎
○法隆寺の菩薩天子 京都市 古賀達也
○東日流外三郡誌の科学史的記述についての考察 いわき市 吉原賢二(東北大学名誉教授)
○纒向遺跡 第一六六次調査について 生駒市 伊東義彰
○「葦牙彦舅は彦島(下関市)の初現神」 大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング
○関西例会のご案内
○2010年度会費納入のお願い


第250話 2010/03/27

天王寺と四天王寺

 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注にある「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事中の難波が、摂津難波
と博多湾岸にあったと考えられている「難波」のいずれなのかというテーマを検討し始めた当初から、わたしには気にかかっていたことがありました。現在の
「結論」は摂津難波と考えていますが、その場合、大阪に今もある四天王寺と『二中歴』の天王寺がはたして同じ寺かという問題でした。もっとはっきり言え
ば、四天王寺と天王寺とどちらが本来の名称なのかという疑問でした。
 関西の方なら特にご存じのはずですが、お寺の名前は四天王寺ですが、現地名は天王寺(大阪市天王寺区)なのです。古い地図でも「天王寺村」と記されてい
ますから、地名が天王寺であることは間違いありません。考えてみれば、これは大変不可解な現象です。
 四天王寺というお寺は聖徳太子が建立したと『日本書紀』にも記されており、古代からあった名称であることは確かと思いますが、それならその四天王寺が建
てられた場所としての地名も「四天王寺村」であるはずで、寺名とは異なる「天王寺村」とはしないはずです。しかし、事実は「天王寺村」であり「四天王寺
村」ではないのです。
 また、もともと「四天王寺村」であったのが、いつのまにか「天王寺村」に変わったということも考えられません。何故なら、お寺の四天王寺は現在まで立て
替えはあっても、当地に存続しているのですから、勝手に寺名とは異なる村名に変えることなどできないのではないでしょうか。また、する必要もありません。
 そうすると、考えられるケースはただ一つ。天王寺村の由来となった本来の寺名は「天王寺」だった。このケースです。すなわち『二中歴』に記された「天王
寺」が正しく、『日本書紀』の四天王寺は別の場所に建てられた別のお寺だった。あるいは、本来「天王寺」という名前のお寺が、九州王朝滅亡後に大和朝廷に
より四天王寺と名称変更されたのではないでしょうか。現存地名「天王寺」の存在が、この論理性を支持する動かぬ証拠なのです。
 この論理性の帰結からも、『二中歴』の「倭京二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」という記事が正しかったこととなります。すなわち、この難
波は摂津難波であり、天王寺は大阪市天王寺区にあった「天王寺」のことだったのです。『二中歴』編者は『日本書紀』に影響されて「難波四天王寺」とはせず
に、原史料に忠実に「難波天王寺」と記したのです。更には、九州年号と共に記されたこの記事は、九州王朝の事績であり、この時代の摂津難波は九州王朝の直
轄支配領域だったのです。