九州年号一覧

第1385話 2017/05/06

九州年号の空白木簡の疑問

 ずっと気になっていて未だ解決できない問題があります。それは700年以前の干支木簡に九州年号が記されていないという問題です。701年(大宝元年)以降の紀年木簡には基本的に大和朝廷の年号が記されているのですが、九州王朝の時代の木簡にはなぜか九州年号が記されていません。この疑問をずっと抱いているのですが、解決のための良いアイデアがでないのです。学問研究ですから、わからないことが多いのは当たり前なのですが、九州王朝と大和朝廷の関係から考えても、この現象は不思議なことなのです。
大和朝廷の「大宝律令」(逸文による復元)や『養老律令』には次のように年次記載には年号を用いよと明確に規定しています。

 「凡公文応記年者、皆用年号。」(おおよそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用いよ。)『養老律令』儀制令

 荷札木簡は公文書とは言えませんが、九州王朝も同様の律令を持っていたと思われますので、700年以前の木簡には干支が書かれるだけで九州年号がないのは不思議です。
今回は、もう一つのわたしの疑問を紹介します。それは前期難波宮出土の「戊申年」(648)木簡と、芦屋市出土の「元壬子年」(652)木簡についての謎です。
最初に不思議に感じたのが「元壬子年」木簡でした。この木簡については既に論文(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)などで発表していますが、九州年号の「白雉元年壬子」の木簡で、「白雉」が記されていないタイプです。というのも、この木簡の「元壬子年」の文字の上部にかなりのスペースがあり、意図的に空けたとしか思えないほどなのです。従って、後から「白雉」を書き入れる予定だったのか、あるいはあえて「白雉」を書かずに九州年号のスペース分を空けたのではないかと考えたりしました。すなわち、年号を神聖なものとして木簡に書くということがはばかられたとする理解です。もちろん根拠はなく、推定(思いつき)に過ぎません。
次に気づいたのが「戊申年」木簡です。この木簡は「戊申年」という文字を書いた後、空いたスペースを文字の練習に使用したと思われる「習字木簡」と考えられています。すなわち、本来の形としては「元壬子年」木簡同様に、九州年号(常色二年)が記入されるべき上部を空けているのです。
この二例だけですが、「九州年号空白木簡」とも称すべき木簡があるのです。しかしなぜ空白とされたのかはよくわかりません。どなたか良いアイデア(作業仮説)があれば、ご呈示ください。


第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)


第1378話 2017/04/27

泰澄の「越前五山」(福井新聞)

 一昨日から長野県・富山県を廻り、昨晩から仕事で福井市に来ています。今日は午後から大阪に向かいます。ホテルで読んだ『福井新聞』一面に「泰澄の『越前五山』白山開山1300年空中ルポ」が写真付きで連載されていました。地方紙ならではの企画で、しかも一面掲載ですから力の入れようがわかります。
 泰澄と言えば7世紀末頃の高名な僧で、『続日本紀』にも名前が見えます。わたしも「洛中洛外日記」に『泰澄和尚傳』を九州年号史料として紹介したことがあります。下記の連載です。

第1067話 2015/10/02
『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」
第1068話 2015/10/03
『泰澄和尚傳』の「大化」と「大長」
第1069話 2015/10/04
『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡
第1070話 2015/10/07
『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

 「越前五山」をこの新聞記事で知りました。次の山々で、いずれも泰澄と関係が深いとされています。白山だけは二千メートル級の高山で他の四山とは異質です。本当に泰澄が開山したのだろうかという疑問も浮かびます。

○越知山(おちさん。613m)泰澄が若き日に修行し、老いては入滅した地とされています。
○文殊山(もんじゅさん。365m)泰澄生誕の地とされる麻生津(福井市三十八社町)にほど近い。養老元年(717)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○吉野ヶ岳(よしのがだけ、別名蔵王山。547m)泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○日野山(ひのさん。795m)養老2年(718)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○白山(はくさん。2702m)養老元年(717)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。


第1373話 2017/04/22

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』読後感

 今春3月に発行した『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集』を何度も読み返しています。収録した論稿は選び抜かれたものですから、いずれも読み応えがありますが、下記の目次を見ていただければ気づかれると思いますが、これら論稿の掲載順序や配置・分類に工夫がなされ、読み進めることにより九州年号や九州王朝の理解が進むように編集されています。また専門的な論文の間には、読みやすく面白いコラム記事が適宜挿入されています。服部静尚編集長の編集力が光っています。
 今後の改良点として、もう少し写真や図表を増やすことや、巻末に収録した資料写真を巻頭か関連論文の近くに掲載すれば良かったかなと思いました。次号に反映させたいと思います。
 本書の発刊記念講演会を東京・大阪・福岡で開催予定ですので、別途、ご案内します。

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
          古田史学の会編
 A5判 192頁 定価2200円+税
 明石書店から3月刊行

 『日本書紀』『続日本紀』等に登場しない年号――それは大和朝廷(日本国)以前に存在した九州中心の王朝(倭国)が制定した独自の年号であり、王権交代期の古代史の謎を解く鍵である。九州王朝を継承した近江朝年号など倭国年号の最新の研究成果を集める。

〔巻頭言〕九州年号(倭国年号)から見える古代史 古賀達也

【特集】失われた倭国年号《大和朝廷以前》

Ⅰ 倭国(九州)年号とは
初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ 西村秀己
「九州年号(倭国年号)」が語る「大和朝廷以前の王朝」 正木 裕
九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬―所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判―    古賀達也
九州年号の史料批判―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―    古賀達也
『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史    正木 裕
訓んでみた「九州年号」    平野雅曠
『書紀』三年号の盗用理由について 正木 裕

コラム① 九州王朝の建元は「継体」か「善記」か 古賀達也
コラム② 『二中歴』九州年号細注の史料批判    古賀達也
コラム③ 「白鳳壬申」骨蔵器の証言 古賀達也
コラム④ 同時代「九州年号」史料の行方 古賀達也
コラム⑤ 九州年号「光元」改元の理由 古賀達也
コラム⑥ 「告期の儀」と九州年号「告貴」 古賀達也
コラム⑦ 「元号の日」とは 合田洋一

Ⅱ 次々と発見される「倭国年号」史料とその研究    
九州年号「大長」の考察    古賀達也
「近江朝年号」の研究 正木 裕
九州王朝を継承した近江朝廷―正木新説の展開と考察―    古賀達也
越智国・宇摩国に遺る「九州年号」 合田洋一
「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書― 前垣芳郎
納音付き九州年号史料の出現―熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介―    古賀達也
納音付き九州年号史料『王代記』    古賀達也
兄弟統治と九州年号「兄弟」    古賀達也
天皇家系図の中の倭国(九州)年号 服部静尚
『日本帝皇年代記』の九州年号(倭国年号) 古賀達也
安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号 服部静尚

コラム⑧ 北と南の九州年号(倭国年号) 古賀達也
コラム⑨『肥後国誌』の寺社創建伝承    古賀達也
コラム⑩ 「宇佐八幡文書」の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑪ 和歌木簡と九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑫ 日本刀と九州年号 古賀達也
コラム⑬ 神奈川県にあった「貴楽」年号 冨川ケイ子
コラム⑭ こんなところに九州年号! 萩野秀公
コラム⑮ 東北地方の九州年号(倭国年号)    古賀達也

○資料『二中歴』『海東諸国紀』『続日本紀』
○「古田史学の会」会則、全国世話人名簿、「地域の会」名簿、友好団体名簿。
○編集後記


第1348話 2017/03/07

石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味を引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。


第1345話 2017/03/02

【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史

 今朝は久しぶりに仕事で和歌山市に向かっています。和歌山には化学工場が多く、化学メーカー同士で競合したり協力したりと、そのビジネス環境は複雑です。
 今月末頃に発行される『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(「古田史学の会」編、『古代に真実を求めて』20集)の宣伝も兼ねて、わたしが執筆担当した「巻頭言」を転載紹介します。なぜタイトルに従来の「九州年号」ではなく「倭国年号」を選んだのかの説明や本書の研究史的位置づけなどを記しています。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
         古田史学の会・代表 古賀達也

 古代の中国史書に記された日本列島の代表国家「倭国」がいわゆる大和朝廷ではなく、北部九州に都を置いた九州王朝であることを古田武彦氏(平成二七年〔二〇一五〕没、享年八九歳)は名著『失われた九州王朝』(昭和四八年〔一九七三〕、朝日新聞社刊。ミネルヴァ書房より復刻)で明らかにされた。
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
 倭国(九州王朝)が制定した倭国年号(九州年号)は継躰元年(五一七)に始まり、大長九年(七一二)まで続いたと考えられている。他方、倭国(九州王朝)から王朝交代し、列島の代表者となった近畿天皇家(日本国)は初めての年号「大宝」(七〇一)を「建元」したことが『続日本紀』に見える。この時期に倭国から日本国へと、列島の中心権力が交代したことが、これら両国の年号からもうかがえ、その時代の日本列島のことを記した中国の史書『旧唐書』に「倭国伝」「日本国伝」が別国表記(日本国は倭国の別種)されていることとも見事に対応しているのである。さらには考古学的出土事実(木簡等)においても、倭国内の行政単位「評」が七〇一年から全国一斉に「郡」に代わったことも、この九州王朝から大和朝廷への王朝交代を反映していると考えざるを得ないのである。
 古田学派における倭国年号(九州年号)研究は、古田武彦氏の九州王朝説の提唱以来、全国各地の研究者により活発に進められてきた。その第一段階は諸史料に残された九州年号の調査探索であり、その集大成として『市民の古代』第十一集(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)が「特集『九州年号』とは何か」として発刊された。次いで第二段階では九州年号の「年号立て(各年号の正しい順番と文字。暦年との対応など)」、すなわち原型論についての研究がなされた。その結論として、九州年号群史料としては現存最古の『二中歴』「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いとする説が最有力となり、さらに『二中歴』から漏れた「大長」年号が七〇一年以後に実在したことも明らかとなった。そして第三段階では、九州年号と九州年号史料に基づく九州王朝史研究へと発展した。その成果がミネルヴァ書房から刊行された『「九州年号」の研究 ー近畿天皇家以前の古代史ー』(古田史学の会編、二〇一二年)として結実したのであるが、本書はその続編あるいは姉妹編に相当する。
 本書は近年の九州年号研究の最先端論文を収録するにとどまらず、コラムとして各地の研究者による様々な九州年号関連記事も掲載した。この狙いは読んで面白いというだけではなく、読者にも九州年号研究の一翼に加われるという思いを共有していただける様々な切り口紹介という側面も有している。
 本書中、出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新たな概念である。江戸期成立の諸史料に、天智天皇の時代の年号として「中元(六六八〜六七一年)」「果安(六七二年)」が散見されるのだが、従来は九州年号と見なされることはなく、言わば誤伝あるいは後世の創作の類ではないかとされ、九州年号研究者から取り上げられることもほとんどなかった。わたしの知るところでは、二〇一一年五月の「古田史学の会・関西例会」で竹村順弘氏(古田史学の会・事務局次長)が「天智の年号ではないか」と指摘されたくらいであった。
 その詳細は当該論文を読んでいただくこととして、この新概念は九州年号研究の延長線上で生まれたものであり、六〜七世紀の日本列島の古代の真実を探る上で有力な視点となる可能性を秘めている。中でも九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への中心権力の移行(王朝交代)の実体を研究するうえで、貴重な仮説と言わざるを得ない。まだ検証過程の「未証仮説」でもあり、読者からのご批判を待ちたい。
 以上のように、本書は倭国年号(九州年号)研究を新次元に引き上げるべく、野心的な論稿を収録した。「古田史学の会」が全ての日本古代史研究者や歴史ファンに是非を問う一冊なのである


第1342話 2017/02/27

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の目次

 今春発行予定の『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集』の目次が服部静尚さんから送られてきましたので、ご紹介します。「古田史学の会」2016年度賛助会員には1冊進呈します。お楽しみに。

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
          古田史学の会編
 A5判 192頁 定価2200円+税
 明石書店から3月中旬刊行
 ISBN978-4-7503-4492-8 C0321-E

 『日本書紀』『続日本紀』等に登場しない年号――それは大和朝廷(日本国)以前に存在した九州中心の王朝(倭国)が制定した独自の年号であり、王権交代期の古代史の謎を解く鍵である。九州王朝を継承した近江朝年号など倭国年号の最新の研究成果を集める。

〔巻頭言〕九州年号(倭国年号)から見える古代史 古賀達也

【特集】失われた倭国年号《大和朝廷以前》

Ⅰ 倭国(九州)年号とは

初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ    西村秀己
「九州年号(倭国年号)」が語る「大和朝廷以前の王朝」    正木 裕
九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬―所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判―    古賀達也
九州年号の史料批判―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―    古賀達也
『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史    正木 裕

失われた倭国年号

失われた倭国年号
《大和朝廷以前》

訓んでみた「九州年号」    平野雅曠
『書紀』三年号の盗用理由について    正木 裕

コラム① 九州王朝の建元は「継体」か「善記」か    古賀達也
コラム② 『二中歴』九州年号細注の史料批判    古賀達也
コラム③ 「白鳳壬申」骨蔵器の証言    古賀達也
コラム④ 同時代「九州年号」史料の行方    古賀達也
コラム⑤ 九州年号「光元」改元の理由    古賀達也
コラム⑥ 「告期の儀」と九州年号「告貴」    古賀達也
コラム⑦ 「元号の日」とは    合田洋一

Ⅱ 次々と発見される「倭国年号」史料とその研究
    
九州年号「大長」の考察    古賀達也
「近江朝年号」の研究    正木 裕
九州王朝を継承した近江朝廷―正木新説の展開と考察―    古賀達也
越智国・宇摩国に遺る「九州年号」    合田洋一
「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書―    前垣芳郎
納音付き九州年号史料の出現―熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介―        古賀達也
納音付き九州年号史料『王代記』    古賀達也
兄弟統治と九州年号「兄弟」    古賀達也
天皇家系図の中の倭国(九州)年号    服部静尚
『日本帝皇年代記』の九州年号(倭国年号)    古賀達也
安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号    服部静尚

コラム⑧ 北と南の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑨『肥後国誌』の寺社創建伝承    古賀達也
コラム⑩ 「宇佐八幡文書」の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑪ 和歌木簡と九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑫ 日本刀と九州年号    古賀達也
コラム⑬ 神奈川県にあった「貴楽」年号    冨川ケイ子
コラム⑭ こんなところに九州年号!    萩野秀公
コラム⑮ 東北地方の九州年号(倭国年号)    古賀達也

資料『二中歴』『海東諸国紀』『続日本紀』


第1336話 2017/02/13

FaceBookで同時代九州年号史料を紹介

 竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)のお勧めで始めたFaceBookですが、とても重宝しています。特に写真を掲載できるというメリットは絶大です。「洛中洛外日記」のように文字情報だけで説明するのに比べて、FaceBookは写真や図でも説明できるので、その圧倒的な情報量により説得力が増し、効果的です。
 そうしたFaceBookの情報発信力や表現力を利用して、このところ同時代九州年号史料の解説を写真付きで連載しています。今まで、芦屋市から出土した「元壬子年」木簡、茨城県岩井市出土の「大化五子年」土器、福岡市から出土し行方不明になっている「白鳳壬申」骨蔵器などの紹介をしてきたところです。
 FaceBookの機能として、コメント欄に質問や意見、写真なども貼り付けられ、多くの読者が見ている中で双方向のやりとりができます。「洛中洛外日記」読者の皆さんもFaceBookに登録され、「友達承認」してバーチャルな古代史例会に参加されませんか。
 「古田史学の会」のFaceBookもあり、ホームページ「新古代学の扉」から閲覧が可能です。是非、ご覧ください。


第1329話 2017/01/28

水戸藩と新井白石と九州年号

 今日、放送されたNHKの番組「ブラタモリ」で水戸藩や水戸光圀の業績が紹介されていました。弘道館や偕楽園などとともに、中でも光圀が編纂させた『大日本史』約400巻が250年かけて完成したことなどが紹介され、勉強になる番組でした。
 『大日本史』で思い出したのですが、江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻518頁)

 また新井白石は九州年号のことを知っていて、やはり水戸藩の友人の安積澹泊に次のような手紙を出しています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻284頁)

 この手紙に対する返事は『新井白石全集』には収録されていませんので、水戸藩の学者が九州年号に対してどのような見解を持っていたのかはわかりません。『大日本史』に九州年号が記されているか、一度読んでみることにします。新井白石は諸史料に見える九州年号を実在していたと考えており、さすがは江戸時代を代表する学者だと思いました。
 この新井白石の九州年号に対する認識を示した書簡については、拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で紹介し、日本思想史学会(京都大学)でも発表したことがあります。同論文は『「九州年号」の研究』や「古田史学の会」HPに収録していますのでご覧いただければ幸いです。なお、『新井白石全集』は京都大学文学部の図書館で閲覧させていただきました。


第1325話 2017/01/21

九州年号「継躰」建元の追号説

 本日の「古田史学の会」関西例会では偶然にも九州年号「継躰」建元について二件の研究が報告されました。
 一つは西村さんによるもので、『二中歴』にのみ最初の九州年号「継躰」が見える理由として、九州王朝が梁の冊封から離脱して「善記」という年号を公布したとき、それ以前に「継躰」という年号も遡って「公布」、すなわち追号したとする仮説(アイデア)です。追号という事情により『二中歴』以外の史料には「善記」を「最初の年号」と記されることになったとされました。この仮説の成立や論証過程は西村さんから論文として発表されることと思いますが、単なるアイデアとは思えない説得力もあり、今後の論争が期待されます。
 二つ目は正木さんからの研究報告です。『聖徳太子伝暦』に見える「遷都予言記事」(九州王朝の多利思北孤の記事と思われます)の中に、「聖徳太子」46歳のとき(617年)から100年前(517年)に都を置いたというような記事があるのですが、この517年が九州年号の「継躰」建元の年に一致します。このことから、正木さんは筑後のある場所に筑紫君磐井が遷都し、それを記念して「継躰」建元した史料痕跡ではないかとされました。また、617年の翌年には九州年号が「倭京」と改元されるのですが、この年が太宰府遷都の年とする仮説をわたしは発表したことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号 2002年、「『太宰府』建都年代に関する考察」『古田史学会報』65号 2004年)。今回の正木さんの報告は「継躰」建元年にも遷都の痕跡を発見されたものです。この『聖徳太子伝暦』の「遷都予言記事」は、九州王朝の遷都関連記事を「聖徳太子」の事績としてまとめて記録したものとする理解が可能となり、とても興味深い発表でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人のあゆみ』の宣伝(奈良市・水野孝夫)
②倭国年号建元を考える(高松市・西村秀己)
③古代九州の国の変遷(茨木市・満田正賢)
④倭国と狗奴国の紛争(相模原市・冨川ケイ子)
⑤出野正・張莉著『倭人とはなにか』-漢字から読み解く日本人の源流-(奈良市・出野正)
⑥洛陽発見の三角縁神獣鏡の銘文から(八尾市・服部静尚)
⑦文字伝来と北朝認識(八尾市・服部静尚)
⑧井上信正氏講演会の報告「大宰府 古代都市と迎賓施設」(京都市・古賀達也)
⑨九州王朝の王都の変遷と筑後勢力(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の準備・02.16 「大阪さくら会」で服部氏が講演・02.25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7月久留米大学で古賀が講演・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・その他


第1319話 2017/01/08

中国南朝と倭国の関係

 わたしのfacebookの読者の方から、中国南朝を継承している九州王朝が天子を称することについて疑問がよせられました。南朝が東夷の国に対してそのようなことを認めないのではないかとするご質問でした。とても鋭い質問なので、この問題についてわたしの考えを説明したいと思います。
 このテーマについては古田先生とも検討を進めたことがあり、懐かしいテーマでした。今から10年ほど昔のことですが、たしか京都大学で開催された日本思想史学会でわたしが九州年号について発表したとき、なぜ九州王朝は年号を制定したのかという質問が会場からなされました。そのとき出席されていた古田先生からも南朝との関係を指摘する意見が出されました。時間不足でそのときは詳しい説明はできなかったのですが、要約すると次のように捉えています。

1.『宋書』倭国伝などから、倭国(九州王朝)が中国南朝の冊封体制に入っていたことは明らか。
2.『宋書』によれば、倭王武は「安東大将軍倭王」の称号を認められていた。
3.『南斉書』でも「鎮東大将軍」を認められている。
4.ところが『梁書』では百済と同格の「鎮東大将軍」「征東大将軍」とされているが(武帝即位の天監元年・502年)、百済はその後「寧東大将軍」に昇格している。
5,他方、九州年号は517年に「継躰」建元しており、この年は梁の武帝の天監16年に相当する。
6.年号を制定するということは、南朝(梁)の冊封を外れるという九州王朝の決意の現れと見なさざるを得ない。
7.『梁書』によれば梁と倭国との国交記事は少なく、恐らく梁と九州王朝(倭国)との間で何らかの関係を悪化させる事情があったのではないか。

 以上のような理解をしています。もちろん状況証拠による仮説ですが、南朝「梁」が健在にもかかわらず、九州王朝が建元しているという事実を説明できる一つの有力な仮説ではないでしょうか。
 それと同時に、この頃既に中国では北朝が並立しており、北方の「夷蛮」が天子を名乗り、年号を制定していることは九州王朝も知っていますから、南朝に対して臣従するメリットが無くなれば、九州王朝も中国北朝と同様に天子を名乗り、建元するという選択肢は当然あったものと思われます。


第1318話 2017/01/07

年頭雑感、続「酉年」考

 7世紀中頃から鳥名の年号を続けた九州王朝ですが、次のように「白」の字と「朱」の字を何故か二回ずつ用いています。

 白雉(652〜660年)
 白鳳(661〜683年)
 朱雀(684〜685年)
 朱鳥(686〜694年)

 この後、「大」の字を用いた年号が二回続き、九州年号と九州王朝は終焉を迎えます。

 大化(695〜703年)
 大長(704〜712年)

 この「大化」という年号は重要な意味を持っていたはずで、九州王朝にとって大きな変化があったことをうかがえます。大化元年(695)は近畿天皇家にとっても重要な時期です。その前年の12月に持統天皇が藤原宮に「遷宮」したことが、『日本書紀』に次のように記されています。

 「藤原の宮に遷り居(おわ)します。」『日本書紀』持統8年(694)12月条

 藤原宮は近畿天皇家にとって恐らく初めての大規模で朝堂院様式を持つ宮殿であり、しかも当時としては国内最大規模の条坊都市(新益京)を伴っています。そこへの「遷宮」の翌年に九州年号が「大化」に改元されていることは偶然ではないように思います。なお、この藤原宮(大宮土壇)は前期難波宮のような北闕様式ではなく、王宮が条坊都市の中心に位置する周礼様式と呼ばれるタイプです。このことから九州王朝と近畿天皇家は王都宮殿様式に関する政治思想が異なっていたようです。その後、近畿天皇家は710年に遷都した平城京は北闕様式を採用し、それは平安京にも引き継がれています。
 九州王朝は「大化」と改元し、その9年後の704年には最後の九州年号「大長」と改元し、大長9年を最後に九州年号は消えます。「大長」と改元したのは没落した九州王朝の最後の天子の「大いに長く続くように」という願いが込められていたのかもしれません。