九州年号一覧

第993話 2015/07/04

「肥人の字」「肥人書」のこと

 このところ、鞠智城や「肥後の翁」など肥後の古代史を集中して研究しているのですが、古代において「肥人の字」「肥人書」というものが存在していたことを思い出しました。
 平安時代(10世紀)の『日本書紀』の解説書ともいえる『日本書紀私記』(丁本)に、大蔵省御書所(皇室の蔵書を保管する機関)にある「肥人之字」について次のような「問答」が記されています。

「問ふ、假名の字、誰人の作る所か、と。
師説、大蔵省御書所の中、肥人の字六七板許ある也。先帝(醍醐天皇)、御書所において之を写さしめ給ふ。その字、皆な假名用ふ。或いは「乃」「川」等の字は明らかにこれ見ゆ。若しくは彼を以て始めと為すべきか。」

 大蔵省御書所に「肥人の字」が所蔵されており、それは「仮名」で書かれてあり、「乃(の)」や「川(つ)」などと読める字もあり、これが仮名の始めではないかと説明しています。すなわち、「肥人の字」と記していることから、この謎の「仮名」は肥後か肥前の人の字であるとの認識が示されているのです。同時に「仮名」は大和朝廷(近畿天皇家)で作られたのではないという、平安時代の知識人の認識をも示しており、とても興味深い史料です。
 わたしは、この『日本書紀私記』の記事を20年以上も前に旧友の安田陽介さんの論文「日本書紀私記と『肥人の字』」(『「続日本紀を読む会」論集』創刊号、1993年。非売品)で知りました。当時、わたしは京大で日本史を専攻していた安田さんらと、「続日本紀を読む会」を京都で開催しており、年下の安田さんから多くのことを教えていただきました。「肥人の字」もその勉強会で教えていただいたものです。
 今回、肥後の古代史を研究することになり、20年以上昔のことを思い出しました。更に「肥人書」「薩人書」という史料も御書所にあったと、『本朝書籍目録』(鎌倉時代後期の図書目録)に見えます。おそらくは、これら「肥人の字」や「肥人書」「薩人書」とは九州王朝に淵源する史料であり、近畿天皇家はそれを入手(没収か)し、大蔵省御書所に保管したものと思われます。これらの史料についても九州王朝説による研究が望まれます。どなたか、取り組まれませんか。


第989話 2015/06/28

九州王朝の「集団的自衛権」

 連日のように国会やマスコミの集団的自衛権や憲法解釈、安保法制の論議や報道が続いています。この問題は、不幸なことに好戦的な国々に囲まれている日本を今後どのような形にして子供たちや子孫に残してあげるのかという歴史的課題ですから、小さなお子さんをお持ちの若いお父さんやお母さんが国会議員以上に真剣に考えるときではないでしょうか。わたしもそのような問題意識を持ちながら、遠回りではありますが、クラウゼヴィツの『戦争論』を再読しています。
 『戦争論』などでも指摘されているように、「好戦的」というのは国際政治における国家戦略の一つですから、いわゆる「善悪」の問題ではありません。その国が、「好戦的」で「軍事的」「威圧的」であることが自国の国益(自国民の幸福)に適うと考え、あるいは結果として国家間秩序(戦争ではない状態)を維持できると考えているということです。そこにおいては「善悪」の議論は残念ながらほとんど意味がありません。「好戦的」であることが自国にとって「善」と考えている国々なのですから。
 そこで、九州王朝の「集団的自衛権」について考えてみました。「洛中洛外日記」980話で、「九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。(中略)九州州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。」と記しましたが、九州王朝(倭国)が九州本土決戦による防御ではなく、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦を選んだ理由を考えてみました。
 一つは唐や新羅との対抗上から百済との同盟(集団的自衛)を自国防衛の基本政策としていたことです。朝鮮半島南部に親倭国政権(百済)の存在が不可欠と判断したのです。これには理由があります。倭国は新羅などからの侵攻をたびたび受けており、朝鮮半島南部たとえば釜山付近に新羅の軍事拠点ができると、倭国(特に都がある博多湾岸や太宰府)は軍事的脅威にさらされるからです。
 たとえば『二中歴』年代歴の九州年号「鏡當」(581〜584年)の細注に「新羅人来りて、筑紫より播磨に至り、之を焼く」とあるように、新羅など異敵からの攻撃を受けたことが多くの史料に見えます(『伊予大三島縁起』『八幡愚童訓』など)。ですから、九州王朝(倭国)にとって、朝鮮半島南部に親倭政権(同盟関係)があること、更には朝鮮半島に複数の国があり互いに牽制しあっている状態を維持することが自国の安全保障上の国家戦略であったと思われます。中国の冊封体制から離脱したからには、当然の「集団的自衛権」の行使として、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済再興を目指して、白村江戦まで突入せざるを得なかったのではないでしょうか。
 ところが思わぬ誤算が続きました。一つは倭王と思われる筑紫君薩夜麻が捕らえられ唐の捕虜となったこと。二つ目は国内の有力豪族であった近畿天皇家の戦線離脱です。おそらく唐と内通した上での離脱と思われますが、その内通の成功を受けて、唐は薩夜麻を殺さずに帰国させ、壬申の大乱を経て、日本列島に大和朝廷(日本国)という親唐政権の樹立に成功しました。こうして唐は戦争においても外交においても成功を収めます。
 現代も古代も国際政治における外交と戦争に関しては、人類はあまり成長することなく似たようなことを繰り返しているようです。歴史を学ぶことは未来のためですから、現在の安保法制問題も日本人は歴史に学んで意志決定をしなければならないと思います。


第988話 2015/06/27

「鞠智城九州内第二拠点」説の考察

 未完成古代山城「見せる城」説を提起された向井一雄さんが、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しを示されていることを「洛中洛外日記」985話で紹介しました。もちろん向井さんは大和朝廷一元史観に立っておられますが、このご意見はとても興味深く思いました。今回はこの「鞠智城九州内第二拠点」説ともいうべきテーマについて考えてみます。
 鞠智城を大宰府陥落後の九州内第二拠点とみなす前提は、大宰府陥落後に南にある鞠智城へ逃げるということですから、想定される敵国は北から侵攻してくることが前提でしょう。この点を九州王朝説に立って理解すれば、豊前・豊後・日向ではなく、肥後に第二拠点を置くということですから、仮装敵国として北方の朝鮮半島諸国だけでなく、東の大和に割拠する近畿天皇家も入っていたのかもしれません。そうでなければ、朝鮮半島からはより遠く、大和には近い豊後・日向か瀬戸内海方面に第二拠点を置くなり、逃げればよいはずだからです。この点、大和朝廷一元史観では肥後に第二拠点を置くという発想はちょっと微妙な感じがします。
 更に大和朝廷一元史観では決定的に説明困難な問題があります。それは南九州にいたとする「隼人」と8世紀初頭に何度も大和朝廷は戦っていることから、周囲に神籠石山城群や「水城」のような防衛ラインが皆無の鞠智城が、はたして「大宰府陥落後の九州内拠点」にふさわしいのかという問題を説明できないのです。すなわち、ポツンと肥後に孤立している鞠智城は南側からの「隼人」の攻撃を想定しているとは考えられないのです。むしろ南九州は安定した味方の領域という大前提があって初めて鞠智城の「孤立」は理解しうるのです。ですから、「隼人」と敵対している大和朝廷による「鞠智城九州内第二拠点」説は成立困難と言わざるを得ません。
 それでは九州王朝説の場合はどうでしょうか。九州王朝内の徹底抗戦派が南九州で最後まで抵抗したとする論稿をわたしは発表していますのでご参照いただきたいのですが、九州王朝と南九州の勢力(「隼人」と表現されている)と九州王朝は友好関係あるいは同盟関係にあったと考えられます。ですから、太宰府の南方の肥後に鞠智城を築くことは不思議ではありません。こうした九州王朝説によって鞠智城の位置づけが可能となるのではないでしょうか。
 なお、『続日本紀』の文武2年五月条(698)に見える大野城・基肄城・鞠智城の繕治記事と、文武4年六月条(700)に見える「肥人」に従った薩末比売らの「反乱」記事も、7世紀最末期の王朝交替時の対立事件として、九州王朝説による検討が必要です。

〔次の拙稿をご参照ください〕
○「最後の九州王朝 -鹿児島県「大宮姫伝説」の分析-」(『市民の古代』第10集所収。1988年、新泉社)
「続・最後の九州年号 -消された隼人征討記事-」(『「九州年号」の研究』所収。2012年、ミネルヴァ書房)


第979話 2015/06/13

健軍神社「兄弟元年創建」史料

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市最古の神社とされる「健軍神社」の創建年がウィキペディアには「欽明19年(558年)」とされていることをご紹介しました。この年が九州年号「兄弟」元年に相当するので、史料根拠を探してみたところ、『田代之宝光寺古年代記』に次のように記されていることを発見しました。

(前略)
「戊刀兄弟 天下芒(暁)ト言健軍社作始也 老人皆死去云々」
「己卯蔵知」
(以下略)
※「戊刀」は「戊寅」のこと。「暁」は金偏に「堯」。「蔵知」は『二中歴』には「蔵和」とある。(古賀注)

 田代之宝光寺は「鹿児島県肝属郡田代村」にあったお寺のようで、わたしが持っている活字本コピーの解説によれば「島津図書館にあった本を写したものである」とされています。このコピーはかなり以前に入手したもので、残念ながら出典は不明です。『田代之宝光寺古年代記』は九州年号の「善記元年」(522)から延寶六年(1678)まで記されており、それ以後は切れていて残っていないとのことです。
 兄弟元年戊寅(558年)に「健軍社作始也」とありますから、九州年号により健軍神社の創建年が記された貴重な史料であり、九州王朝下により創建されたことがうかがわれます。
 「天下芒(暁)ト言」の意味はまだわかりません。ご存じの方があればご教示ください。
 「老人皆死去云々」は『二中歴』など他の九州年号群史料には「蔵和」の位置にありますが、『田代之宝光寺古年代記』には「兄弟」の位置に記されているようです。ただし、年代記の類は狭いスペースに記事が書き込まれているケースが多く、位置がずれたり混乱することもありますので、やはり他の九州年号群史料に従って、本来は「蔵和」にあったと考えた方がよいように思われます。
 老人が「皆死去」したというのですから、流行病でも発生したのかもしれません。また、「云々」とありますから、引用した元史料にはその様子がもっと詳しく書かれていたのでしょう。
 林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)の説によれば、「老人死」を老人星が見えなくなるという意味であり、国家に内乱が発生したことの暗喩であるとされています。しかし、「皆死去」とありますから、老人星なるものが「皆」というほど天空にたくさんあったとも思われませんから、やはりここは「老人が大勢亡くなった」と文章通り普通に理解したほうが良いように思います。
 いずれにしましても、健軍神社の縁起や伝承記録を引き続き調査し、九州王朝との関係を更に調べることにします。熊本市現地の方のご協力をお願いいたします。


第978話 2015/06/12

「兄弟」年号と筑紫君兄弟

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市の「最古の神社」とされる健軍神社が「欽明19年(558年)」の創建で、この年こそ九州年号の「兄弟」元年に相当することから、「兄弟統治」を記念して「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないかと述べました。
 この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されました。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第178号、2015年6月。「古田史学の会・東海」発行)という論文で、「兄弟」年号は6年間継続したとする新説が主テーマです。その中で『日本書紀』欽明17年条(556)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明17年の2年後が九州年号「兄弟」元年(558)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
 わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。


第965話 2015/06/01

九州王朝の兄弟統治と「兄弟」年号

今朝は菊池市のホテルにいます。鞠智城を見学するため、菊池市内のホテルを予約していただきました。昨日の菊水史談会(石山仁明会長)主催の和水町中央公民会での講演会には約100名の参加者があり、盛況でした。主催者の説明によると和水町外からの参加者も多く、インターネットを見て参加された人も少なくなかったそうです。2時間ほど講演しましたが、皆さん最後まで熱心に聴講され、持ち込んだ『盗まれた「聖徳太子」伝承』も完売しました。ありがとうございました。
講演終了後は菊水史談会の皆さんと懇親会があり、夕食をご一緒しながら、時間の都合で講演では話せなかった新「発見」について追加発表させていただきました。
今回の講演のキーワードは「兄弟統治」「二人の天子」です。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、イ妥国は夜は兄、昼は弟が統治するという兄弟統治という体制でした。九州年号にも「兄弟」(558年)があり、この「兄弟統治」との関係をうかがわせます。そして、天子(兄か弟)が筑紫(久留米)の多利思北孤であり、もう一人の天子(弟か兄)は筑紫舞に見える「肥後の翁」ではないかとする作業仮説が考察の出発点でした。
昨日、早く着いた新玉名駅で観光案内パンフレットを読んでいますと、熊本市の案内に「市内最古の神社」として健軍神社が紹介されていました。「最古」とあるだけで具体的年代は書かれていないので、スマホで調べてみると、ウィキペディアには「欽明19年(558年)」の創建とされていました。この創建年こそ九州年号の「兄弟元年」に相当するのですが、神社創建と改元には関係があるのではないかと考えています。「兄弟統治」を記念して、九州年号は「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないでしょうか。これから調査したいと思います。

もうすぐ菊水史談会事務局長の前垣芳郎さんと考古学者の高木正文先生がホテルまで迎えに来られます。両氏の御案内で鞠智城を初訪問します。とても楽しみです。


第953話 2015/05/16

北京大学図書館蔵「九州年号史料」の報告

 本日の関西例会には久しぶりに神戸市の谷本茂さん(古田史学の会・会員)が参加され、九州年号に関する研究2件を発表されました。中でも北京大学図書館が所蔵している九州年号「定居」が記された『唯摩結経』写本を神戸外語大の図書館所蔵写真本からコピーして紹介され、感慨深く拝見しました。
 「聖徳太子」による書写とされる同史料については、「洛中洛外日記」でも論じてきたところですが、後代偽作などではなく、同時代九州年号史料、あるいはその写本と思われました。谷本さんも同様の見解を発表されましたが、やはり北京大学で同史料を実見し、紙の科学的調査などにより成立年代を調査する必要を改めて感じました。
 正木裕さんからは、謡曲「桜川」の母子の出身地「筑紫日向」が糸島半島の細石神社付近であることを論証されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①賀正・大射礼と改新詔(八尾市・服部静尚)
②「白髪三千丈」-二つの欺瞞-(八尾市・服部静尚)
③『三国志』と朝鮮半島の「倭」について(姫路市・野田利郎)
④北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判(神戸市・谷本茂)
⑤「貞慧伝」の白鳳年号と『二中歴』の“逸年号”について -11年ずれた干支紀年の仮説-(神戸市・谷本茂)
⑥謡曲「桜川」と九州王朝(川西市・正木裕)
⑦学問としての歴史の論拠について(奈良市・出野正)
⑧中国の王朝暦は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
⑨服部静尚氏の「倭国」=「倭人の国」についての不可解を論じる(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『古田武彦古代史百問百答』ミネルヴァ書房発刊)・新年度の会役員人事・経費決算・明石城から人丸山柿本神社ハイキング・テレビ視聴(飛鳥仏教と尼寺、巴文探求)・鳥取県湖山長者伝説・その他


第938話 2015/04/29

教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事

 九州年号研究をしていると思わぬ発見や成果が得られることがあります。たとえば『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」(531〜535年)の細注に「舞遊始」(舞遊が始まる)という変な記事があり、かねてから不審に思っていました。「舞遊」など、それこそ縄文時代からあったはずで、それが6世紀 の教到年間に始まったとする細注の記事はナンセンスなものと映っていたからです。
ところがその謎を解く鍵が本居宣長の『玉勝間』にありました。この情報は冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員、横浜市)から教えていただいたのですが、『玉勝間』に九州年号の教到が記されているのです。

「東遊の起り
同書(『體源抄』豊原統秋:古賀注)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれ ゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわ ち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」
(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

このように教到年間の「舞遊始」(舞遊が始まる)とは「東遊(アズマアソビ)」の起源記事だったのです。こうした九州年号による記事が本居宣長の『玉勝間』に記されていたとは思いもよりませんでした。
しかも、普通九州年号群史料によれば「教到」は5年間で終わり、翌年は改元され「僧聴元年」となっており、教到六年丙辰ではなく僧聴元年丙辰とされるべき ところです。しかし教到六年丙辰とあるのは、その年の内の「僧聴」に改元される前に記された記事に基づいていると考えられるので、元史料を後世の認識で 「僧聴元年」などと改訂していない、いわば一次史料を正確に引用している記事であることがわかります。従って、この「東遊」関連記事の史料価値は高いと判 断できるのです。
このような九州王朝系史料の、しかも史料批判により、原文に近いと判断できる記事に遭遇できたことは、まさに学問研究の醍醐味 です。ちなみに、江戸時代のバリバリの一元史観論者である本居宣長はこの「教到六年」という近畿天皇家にない年号をどのような気持ちで自著に引用したの か、興味深いところです。
なお、当研究の詳細は『古田史学会報』64号(2004.10.12)所収の「本居宣長『玉勝間』の九州年号 -「年代歴」細注の比較史料-」をご参照下さい。


第937話 2015/04/28

「年代歴」編纂過程の考察(3)

 「年代歴」の九州年号群は「年号一覧」ともいうべき史料性格ですから、その元史料は「九州年号群」史料である、いわゆる「年代記」あるいは「年表」であり、それらに記された九州年号を抜粋して「年代歴」は作成されたものと思われます。それら以外に代々の九州年号が記された史料の存在をわたしは知りませんし、想定もできないからです。
 そうした九州年号が記された「年表」はおよそ次のようなことが記されていたはずです。「九州年号」「年次」「干支」「その年に起きた事件」といった構成です。具体例をあげれば次のようなかたちです。

法清元年甲戌「記事」二年乙亥「記事」三年丙子「記事」四年丁丑「記事」兄弟元年戊寅「記事」蔵和元年己卯「記事」二年庚辰「記事」三年辛巳「記事」四年壬午「記事」五年癸未「記事」〜

 このような年代記(年表)から「年代歴」に必要な「年号」「継続年」「元年干支」を抜き取る作業となるわけですから、編者は次の手順で「年代歴」を作成するはずです。

(1)年号を抜粋する。
(2)その年号の最末尾の「年数」を抜粋する。
(3)元年干支を抜粋する。
(4)その年間の代表的記事を抜粋する。なければ書かない。

以上の作業を、上記の例で行うと次のような内容となります。

「法清・四年・甲戌 (記事)」
「兄弟・元年・戊寅 (記事)」
「蔵和・五年・己卯 (記事)」

 このように、記された文字をそのまま抜粋すると、元年しかない「兄弟」は「元年」とそのまま書き写す可能性が発生するのです。その結果、書写が繰り返された『二中歴』「年代歴」のどこかの書写段階で、「元」が「六」に誤写されたと、わたしは現存する『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年」とある史料事実から判断するに至ったのです。今のところ、この編纂過程以外に、この誤写が発生する状況をわたしには想定できません。もし、もっと合理的な誤写過程があれば賛成するにやぶさかではありませんが、いかがでしょうか。
 また、「年代歴」の九州年号の下に細注があり、その年間の事件が記されているという史料事実も、これら九州年号の元史料が年代記(年表)の類であったとする、わたしの推定を支持します。
 以上、3回にわたり、『二中歴』「年代歴」の編纂過程について考察してきました。史料批判とはこうした考察の集大成であり、その結果、当該史料がどの程度信頼してよいのかが推定できます。こうした作業、すなわち史料批判は文献史学における学問の方法の基本ですから、私自身の勉強も兼ねて、これからも機会があれば繰り返しご紹介したいと思います。

(補記)「師安一年」というように1年しかない年号の場合は「元年」ではなく、「一年」と記すのが『二中歴』「年代歴」の九州年号部分の「表記ルール」と紹介しましたが、「年代歴」の近畿天皇家の年号部分には、1年しかない年号「正長」が「正長元」 (1428年)と表記されています(正確には翌二年の九月に永享と改元。従って年表上では元年のみの表記となります)。『二中歴』そのものが複数の編者により書写・追記されていますから、上記のような「表記ルール」が全てに厳密に採用されているわけではありません。この点、『二中歴』の全体像をご存知ない方も多いと思いますので、補足しておきます。


第936話 2015/04/27

「年代歴」編纂過程の考察(2)

 林さんのご指摘のように、『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年 戊寅」は「師安一年」のように「一年」とあるのが、九州年号部分の表記ルールという ことについては、わたしも賛成です。しかし、史料事実が物語っているように、「年代歴」成立過程で「兄弟元年」という表記が存在したことを想定せざるを得ないことは、935話で説明した通りです。そうすると、なぜ表記ルールとは異なった「兄弟元年」という表記が出現したのかが、次の問題となります。今回は この点について説明したいと思います。
 実は『二中歴』の九州年号部分は、他の九州年号史料と比べ、かなり異質な史料状況なのです。通常、寺社縁起などのように、ある特定時点の事件を説明するために個別の九州年号が現れるのが一般的な九州年号史料の状況です。これに対して、九州年号が多数記された史料は「九州年号群」史料と呼ばれ、一般的な九州年号史料と区別しています。それら「九州年号群」史料としては、いわゆる「年代歴」と呼ばれるタイプのものが多数あります。すなわち、九州年号を使って代々の歴史を記録されたものです。「年表」と称してもよいかもしれません。
 この「年表」にもいくつかのタイプがあるのですが、九州年号で年代を特定しながら、歴史事実を長文の記事として記録するタイプと、縦横のグリットの中に干支や年号を書き込み、 そのグリットの余白部分にメモ程度の単文記事を書き込むタイプが見られます。昨年、熊本県和水町で発見された「納音付き九州年号」史料は後者のグリットタイプの「九州年号群」史料です。
 ところが『二中歴』「年代歴」はこれら「九州年号群」史料とは全く異なり、「年表」としての歴史事実の記録機能を本来の目的とはしていないのです。それは『二中歴』の史料性格が歴史事典のようなものであり、その中の「年代歴」はどのような年号がいつ頃存在したのか記した「年号一覧」という史料性格を有しており、年号の知識を必要とする当時のインテリ向けに作成された「年号辞典」だからです。
 したがって、 「大寶」以降の近畿天皇家の年号部分は「年号・年数・元年干支」が中心で、それに天皇名等が付記されているといった様相を示しています。それに比べて、冒頭の九州年号部分にはその年号の時代に起こった記事が細注として付記されており、一見すると「年代歴」風の様式も兼ねています。実は、このことが「兄弟六年」という誤写の原因となっていると考えられるのです。(つづく)


第935話 2015/04/26

「年代歴」編纂過程の考察(1)

 先日、瀬戸市の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)からお電話をいただき、「洛中洛外日記」924話「『二中歴』九州年号校訂跡の証言」についてご質問をいただきました。
わたしが、『二中歴』「年代歴」にある「兄弟六年 戊寅」の「六」は誤りであり、正しくは「兄弟元年」とあるべきところを、「元年」の「元」の字を「六」 と読み間違えた書写者がいたとしました。このことに対して林さんからのご指摘は、「年代歴」には「師安一年」(564年)という表記があるように、年号が1年しか続かない場合は「一年」とあるべきで、「元年」とは記さないということでした。ちなみに、林さんは「兄弟六年」のままで正しいというご意見のようでした。
 確かに「年代歴」の九州年号部分の表記としては、一年限りの九州年号は「師安一年」の例と、「兄弟六年」の傍注の「一イ」のみがあるだけですから、林さんのご指摘はもっともなものです。そこで、わたしは次のような論理展開であることを説明しました。

(1)九州年号の「兄弟」は他の史料でも元年だけの1年で終わり、翌年は「蔵和」と改元されている。
(2)「年代歴」の傍注にも「一イ」と校訂がなされていることも、この史料状況に対応している。また、翌年に「蔵和」と改元されている。
(3)従って、「兄弟六年」とあるのは、傍注通り「兄弟一年」とあるべきだった。
(4)それでは何故「六」と誤ったのかを考えたとき、本来、元史料に「一」と書かれていた字を「六」に読み間違えることは考えにくい。
(5)その点、「元年」とあったのなら、「元」と字形が似ている「六」に読み間違える可能性がある。
(6)従って、本来「兄弟元年」と表記されたものがあり、数次に及ぶ「年代歴」書写のどこかの段階で「兄弟六年」と誤写されたと考えれば、このケースの説明が可能である。
(7)このような誤写発生過程以外に「一」を「六」に誤写するケースは考えにくい。

 以上のようにわたしは判断し、先の「洛中洛外日記」を書いたのでした。そして、この誤写発生過程の可能性以外に「六」と誤写するケースを、わたしには考えられないと林さんに説明したのです。(つづく)


第934話 2015/04/25

『二中歴』九州年号細注の史料批判(2)

「洛中洛外日記」932話に続いての『二中歴』「年代歴」に見える九州年号細注の考察です。
『古事記』や『日本書紀』とは異なって、 『二中歴』は「尊経閣文庫本」と称される古写本とその系列の新写本しか現存しないため、異なる系統の写本による比較や校訂ができません。また、「尊経閣文 庫本」自体も数次の書写や追記が繰り返された末に成立していることが、その内容から明らかです。ですから、それら書写や追記時点における書写者や追記者による原文改訂や誤写の可能性を排除できないという史料性格を帯びています。
このことは「年代歴」の九州年号細注についても同様であり、留意が必要です。たとえば、各九州年号の元年干支表記部分だけでも、次のような史料状況を示しています。
「年代歴」冒頭の第1ベージから九州年号は記されていますが、その1ページ目には「継躰」「善記」「正和」「教倒」「僧聴」「明要」「貴楽」「法清」の8年号が並んでいます。2ページ目には「兄弟」以降の年号が続き、3ページ目の「大化」で九州年号部分は終わります。4ページ目からは近畿天皇家の「大寶」 が始まります。このうち1ページ目にある8年号については元年干支表記が「元○○」という表記になっています。具体的には「継躰五年 元丁酉」のように、 「継躰は五年間続くが、その元年干支は丁酉」とわかるような表記となっています。ところが2ページ目からは「元」の字がなくなり干支だけとなります。「兄 弟六年 戊寅」というようになっており、そのため「兄弟六年の干支が戊寅」と間違って受け取られるような表記に変わっているのです。実際にそのように勘違いして論文を書かれた古田学派の研究者もおられました。すなわち「元」の字がないので、年号と年数の下に付記された干支が元年のことかどうか、一見すると わかりにくい表記に省略されています。
このような表記様式の変化が発生した理由は何でしょうか。次の二つのケースが考えられるのではないでしょうか。

(1)編纂時使用した元史料に表記が異なるものがあり、その表記を統一せず、そのまま採用した。
(2)編纂者あるいは書写者が2ページ以降は「元」の字を省略してしまった。

この二つのケースの可能性が考えられますが、どちらのケースだったのかは、今のところよくわかりません。引き続き検討したいと思います。
このように「年代歴」九州年号部分だけでも、表記方法などが統一されておらず、論証の根拠にこれらの記事を利用する場合は、よくよく注意しなければなりま せん。史料批判という基礎的な学問作業はこうした考察の集大成とも言うべきものなのです。史料批判を抜きにして、その史料を研究や論証の根拠に無条件に使うことがいかに危険かということを強調しておきたいと思います。