2023年09月一覧

第3127話 2023/09/30

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (3)

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよいように思うのですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。

 従来の古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注①)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。

 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注②)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注③)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を無理なく説明できるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1464頁。
③「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1754頁。


第3126話 2023/09/29

全国の「天皇」地名

 「洛中洛外日記」連載中の〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える〟をFaceBookで紹介したところ、Yoshio Kojimaさん(宝塚市)から、国内に現存する「天皇」地名について、次のコメントをいただきました。

〝古賀様 富山県にも有ります。「砺波市 安川 字天皇」です。徳島県にもあるようです。「美馬郡 つるぎ町 半田 天皇」〟

 わたしは両「天皇」地名のことを知りませんでしたので、この情報に驚きました。そして、もしかすると他にも「天皇」地名が在るのでないかと思い、webなどで調査したところ、本日時点で、次の「天皇」地名が見つかりました。この中には、市町村合併や地名変更により、現在の地図では確認できないものもありますが、明治期には存在していたと思われます。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなったもので、存在しないということでは無い。

《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。

《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。

香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇

愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇

高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 それぞれに由来があり、その是非や、「天皇」地名成立がどの時代なのかは検証が必要ですが、四国に濃密分布していることは注目されます。また、仙台市の二つの「天皇」の地に須賀神社があることは、愛媛県今治市朝倉の「天皇」に須賀神社があるここと関係があるのかもしれません(注)。以上、現時点での調査結果を紹介しました。引き続き、調査します。Yoshio Kojimaさんのご教示に感謝いたします。

(注)各地の須賀神社は牛頭天皇やスサノオを祭神としており、この牛頭天皇により「天皇」地名が成立したとするのが一般的な見解と思われる。この解釈は有力とは思われるが、それだけでは、なぜ四国に「天皇」地名が濃密分布するのかの説明が困難である。なお、ウィキペディアの「須賀神社」の項によれば、四国地方は高知県のみ須賀神社が集中(13社)している。


第3125話 2023/09/28

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (2)

 九州王朝の故地、北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、当地の地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。ところが、愛媛県東部地域には「天皇」地名が少なからず遺っています。これは偶然ではなく、何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。このことを多元史観・九州王朝説の視点で考察してみます。
まず「天皇」地名成立のケースとして、次の可能性が考えられます。

(A)須佐之男命を祭神とする「牛頭天王」社が、後に「天皇」と表記され、その地の地名になった。
(B)近畿天皇家の天皇が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(C)九州王朝の天子(天皇)が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(D)九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下の当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗ったことにより、「天皇」地名が付けられた。
(E)当地の権力者の意思とは関係なく、あるとき誰かが勝手に「天皇」地名を付け、周囲の人々もその地を「天皇」と呼ぶようになった。

 以上のような可能性を考えられますが、恐らくは一元史観に基づく(A)の解釈が有力視にされていると思われます。たとえば、『朝倉村誌』(注①)には、「野田・野々瀬の須賀神社 朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)」と説明されています。〝大和朝廷の天皇以外に天皇はなし〟という一元史観では、こうした解釈を採用するしかないのでしょう。

 (B)のケースは、同じく『朝倉村誌』に見える「與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事 (中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也」(下巻、1731頁)があります。しかし、この説明は後代の大和朝廷の時代になってから造作されたものではないでしょうか。この点、後述します。

 (C)のケースとしては、久留米市の大善寺玉垂宮にあったと記録されている「天皇屋敷」があります。
「〔御船山ノ社官屋敷ノ古圖〕に開祖安泰東林坊〈大善寺等覺院座主職なり今は絶て其跡天皇屋敷といふなり〉(後略)」『太宰管内志』(注②) ※〈〉内は細注。

 この「天皇屋敷」の由来は未調査ですが、筑後地方は九州王朝の中枢領域であり、「倭の五王」時代には筑後地方に遷宮していたと思われますので(注③)、九州王朝の天子(天皇)との関係を想定してもよいかと思います。しかし、この場合でも地名が「天皇」と名付けられたわけではありませんので、朝倉村の地名としての「天皇」のケースと同じではありません。

 (D)のケースに相当するのが、朝倉村など愛媛県東部地域に散見する「天皇」地名ではないかと考えています。この点、後述します。

 (E)は検証困難な仮説ですし、一介の人物が権力称号「天皇」を地名に採用し、それを周囲も使用するということは起こりえない現象と思われますので、今回の検証作業からは除外することにします。(つづく)

(注)
①伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)〈歴史図書社、1969年(昭和44年)、中巻162頁〉
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第3124話 2023/09/27

TV番組「パリピ孔明」に想う

 今日から始まったフジテレビの番組「パリピ孔明」(注①)を見ました。五丈原の戦いで没した諸葛亮孔明(向井理さん)が現代日本に現れ、上白石萌歌さん演じる無名の歌手・月見映子を権謀術策でスターにしていくというドラマのようです。その中で三国志の名場面や名言が効果的に用いられ、ついつい最後まで見てしまいました。

 わたしが注目したのは、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」で有名な馬謖の話が主人公らの会話に登場したことでした。これは三国志の中でも印象的なシーンの一つで、軍事行動(街亭の戦)のさい、孔明の作戦に従わず、自軍を敗戦に導いた罪により、孔明が愛する部下、馬謖を処刑したという話です。この経緯を古田先生が『邪馬一国の道標』(注②)で解説し、馬謖が死に臨んで、孔明に送ったと伝えられている手紙を紹介されました。

「あなたは、わたしを自分の子供のように可愛がってくれ、わたしもあなたを父のように慕ってきた。だから、わたしは、今回処刑されてあの世へ行っても恨むところはない」(襄陽記)

 ちなみに、『三国志』の著者陳寿の父は、馬謖の参謀(参軍)だったとのことです。陳寿にとって、孔明は郷土・蜀の英雄であり、『三国志』に「諸葛亮伝」を設けています。しかし、孔明への評価は、「諸葛亮の相国たるや…(略)…識治の良才と謂う可し。管・蕭(注③)の亞匹(あひつ)なり。然るに連年衆を動かして未だ成功する能わず。蓋(けだ)し応変の将略、其の長とするに非ざるか。」とあり、その人柄や見識を絶賛すると同時に、〝長年にわたって出兵し、魏軍と戦いながら勝てなかったのは、臨機応変の才能に長けていないからだ〟と手厳しい言葉で締めくくっています。

 古田先生によれば、諸葛孔明は馬謖亡き後、人材が乏しい蜀にあって、自らが元気なうちに魏と雌雄を決するのか、それとも和平に向かうのかを決断できなかったとのことです。そうであれば、一度の失敗で有能な馬謖を断罪したことこそ、孔明の大きな判断ミスだったのではないでしょうか。それに比べて、魏の曹操は、戦いに負けた将軍を〝勝敗は時の運〟と許しています。このリーダーシップの差が、魏と蜀の命運を分けたようにも思います。

 「パリピ孔明」を見ながら、このときの古田先生との会話を思い出しました。ちなみに、『邪馬一国の道標』はわたしが最も好きな先生の著作の一つです。

(注)
①原作は四葉タト。小川亮により漫画化され、『コミックDAYS』に連載後、現在は『週刊ヤングマガジン』(講談社)で連載中。
②古田武彦『邪馬一国の道標』講談社、1978年。ミネルヴァ書房から復刊。
③中国史上名宰相と言われた管仲と蕭何のこと。


第3123話 2023/09/25

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)

 合田洋一さんの調査(注①)により、愛媛県東部地域に「天皇」地名が散見されることは知られていますが、今回入手した『朝倉村誌』(注②)にも記されていました。愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)に遺された「天皇」地名類が次のように紹介されています。

○車無寺(後の無量寺)建立のこと (中略)院号を斉明天皇の祈願所なるが故に、天皇院と呼び、また年月を経て後、伊予皇子を御養育申し上げたため、安養院ともいった。(上巻、198頁)
○須賀神社(天王宮) 旧村社
〔由緒沿革〕斉明天皇の御宇に創立されたという。(中略)もと朝倉天皇又は野田宮とも称した。(下巻、1312~1313頁)
○野田・野々瀬の須賀神社
・朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)。または野田宮ともいう。
・丸亀市本島の寺に「朝倉天皇宮」の鰐口がある。(下巻、1505~1506頁)
○與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事
(中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也 (下巻、1731頁)
○伊予国越智郡朝倉南村地誌
(中略)本郡孫兵衛作村ニ界ス其ヨリ天皇溝上流ニ至ル(中略)
西ハ天皇溝上流ニ起線シ風呂本拾六番地ニ至ル川ヲ以テ朝倉北村ニ界シ(後略) (下巻、1792頁)
○橋 天王橋 (下巻、1795頁)
○実報寺往還ノ選位朝倉北村飛地天皇橋ニ起リ(中略)同天皇橋前ニテ左右ヘ桜井往還ヲ岐ス (下巻、1796頁)
○社 須賀社村社ニシテ(中略)笠松山尾端字天皇ニアリ (下巻、1797頁)

 以上のように、車無寺(後の無量寺)の「天皇院」、朝倉南村の「天皇溝」「天皇橋」と字地名「天皇」の記事が見えます。斉明天皇との関係で由来が書かれている「天皇院」と、具体的な天皇名を付されていない「天皇溝」「天皇橋」「天皇」とがあり、なぜ朝倉村にこうした名称が現在まで伝わっているのか不思議です。北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。701年、大和朝廷が成立した後に、こうした最高権力者の名称を大和から遠く離れた地で、誰かが勝手に命名使用するということはちょっと考えにくいのです。ですから、朝倉村など愛媛県東部地域に、こうした「天皇」地名が少なからず遺っているのは偶然ではなく、他地域とは異なる何らかの歴史的背景があったと考えるべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。


第3122話 2023/09/24

『朝倉村誌』(愛媛県越智郡)を購入

 今日は久しぶりにご近所にある枡形商店街の古書店巡りをしました。あるお店の書棚の上の方に『朝倉村誌』の表題を持つ上下2巻セットの分厚い本を見つけました。どこの朝倉村だろうかと気になり、手にとって確認すると、愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)でした。古田学派内では斉明天皇伝承で注目されている地です。価格も二千円と格安で、新品同様の良本ですので迷わず購入しました。同書は昭和61年(1986年)に出版されたもので、地元の伝承や寺社仏閣の史料などが収録されているのか心配でしたが、そこそこ掲載されていたので、お買い得でした。

 ざっと目を通したところ、朝倉村の字地名一覧が下巻末にありました。「ほのぎ」(注①)という一覧表で、その中の「朝倉上之村」に次の字地名がありました。

○「才明」  地番:1835 1836 地目:田
○「西明」  地番:1900 1901 1902 1903 地目:田
○「才明」  地番:2126 2127 地目:田
○「才明上」 地番:2128 2129 2130 2131 2132 地目:田

合田洋一氏の見解(注②)によれば、この字地名は九州王朝の天子、「斉明(サイミョウ)」が当地に来た痕跡とされています。

 末尾に「みょう(名・明)」がつく地名は、九州や四国を中心に西日本各地に分布し(注③)、関東や青森県にも見えます。明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「国」―「郡」―「町・村」―「小名」―「字」と区分けされ、「名」は「村」と「字」の中間にあるような行政単位です。表記例から判断すると、「名」の中に「字」があるというよりも、両者は併存しているようです。わたしは『朝倉村誌』に収録された「才明」「西明」は、この「みょう」地名ではないかと考えています。

(注)
①「ほのぎ」とは次のように説明されている。
「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした。」(愛媛県生涯学習センターHPによる)
②合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
同「九州・四国に多い『みょう』地名」『古田史学会報』129号、2015年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3121話 2023/09/23

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (4)

 中国史書「百済伝」の百済王の名前を精査していて不思議に思ったのが、「扶餘」や「餘」の姓を持たない次の二人の百済王でした。

○『南斉書』:「百済王牟大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「牟都」(慶の子)、「牟太」(牟都の子)。
○『南史』:「牟都」(慶の子)、「牟大」(牟都の子)。

 理由はわかりませんが、この牟都(慶の子)と牟大(太)は姓が記されていません。また、牟都の父である百済王「慶」も何故か当該「百済伝」には姓が見えません。しかし、「慶」の父は「百済王餘映」(『宋書』)とあり、姓は「餘」です。そして、「牟太」の次に見える百済王は「王餘隆」(『梁書』『南史』)とあり、「餘」姓に戻っています。この件、引き続き中国史書を精査したいと思いますが、これら百済伝の記述を信用すれば、同一血族王権内での王位継承者(百済王)であっても、史書に「姓」が掲載されなかったり、中国風の名称表記と百済語名の漢字表記とで、史書上での扱いが異なるということかもしれません。

 百済王の名称表記や王統系図については異説もあり、今回の調査をもって、倭国の王姓理解について結論が出るわけではありません。古田学派での検証や論争、史料精査の動向に注目したいと思います。


第3120話 2023/09/22

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (3)

 中国史書「百済伝」の百済王の名前について見てきましたが、その出身地(故地)の国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかりました。少なくとも当該中国史書編纂者はそのように認識していることを疑えません。次に『宋書』の百済国伝と倭国伝を比較してみます。

 『宋書』百済国伝での百済王の名前表記は次の通りで、「餘」を姓とし、名前は「倭の五王」と同様で、いわゆる中国風一字名称です。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
また、百済王の臣下の名前に冠軍将軍「餘紀」とあり、百済王と同じ「餘」姓です。この他にも、征虜将軍「餘昆」「餘暈」、輔國将軍「餘都」「餘乂」、龍驤将軍「餘爵」、寧朔将軍「餘流」、建武将軍「餘婁」という「餘」姓の将軍が記されており、いずれも王家と同族なのかもしれません。

 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」の名前表記は次の通りです。

○『宋書』:「倭讚」「讚」「珍」「倭國王濟」「興」「倭王世子興」「武」

 倭王の臣下に「倭隋」という名前も見え、倭国王の「倭讚」と同様に「倭」姓を名乗っていると理解できます。同じ『宋書』の夷蛮伝ですから、百済国伝と同様に倭国伝の場合でも国王と臣下の姓が同じ「倭」と捉えるのが穏当ではないでしょうか。この理解によるならば、百済王が自国の故地「扶餘」あるいはその一字「餘」を姓とし、倭王が自国名「倭」を姓としたことは、当時の東夷諸国の慣行だったのかもしれません。これは高句麗王も同様で、国名から一字を採り、姓を「高」としています(注)。(つづく)

(注)『魏書』高句麗伝に「號曰高句麗,因以為氏焉」、『周書』高麗伝には「自號曰高句麗,仍以高為氏」、『隋書』高麗伝には「朱蒙建國,自號高句麗,以高為氏」とある。


第3119話 2023/09/21

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (2)

次の中国史書(正史)に百済伝があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』(注①)。百済王の名前については次のように記されています。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
○『南斉書』:「百済王牟大」「大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「王須」、「王餘映」、「王餘毗」、「慶」(餘毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟太」「太」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『南史』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟大」「大」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『魏書(北魏)』:「百済王餘慶」「餘慶」。
○『周書(北周)』:「王隆」、「昌」(隆の子)。
○『隋書』:「王餘昌」「昌」、「餘宣」(餘昌の子)、「餘璋」「璋」(餘宣の子)。
○『北史』:「王餘慶」「餘慶」、「隆」、「餘昌」(隆の子)、「餘璋」(餘昌の子)。
○『旧唐書』:「王扶餘璋」「璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。
○『新唐書』:「王扶餘璋」「璋」「百済王扶餘璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘豊」「豊」(旧王子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。

この中で、百済王の姓について具体的に記されているのが『周書(北周)』と『北史』です(注②)。

○『周書(北周)』:「王姓は扶餘氏(注③)、於羅瑕と号し、民は鞬吉支と呼んでいる。」
○『北史』:王姓は餘氏、於羅瑕と号し、人々(百姓)は鞬吉支と呼んでいる。」

扶餘は百済の故地とされており(注④)、その国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかります。例外としては『南斉書』の「牟大」「牟都」、『梁書』の「牟都」「牟太」、『南史』の「牟都」「牟大」で、何故かこの二人の百済王は「牟」を姓としているように見えます。(つづく)

(注)
①使用した版本は次の通り。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『新唐書』は汲古閣本、『旧唐書』は百衲本。
②訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)による。
③百衲本による。汲古閣本は「大餘」とする。
④『魏書(北魏)』には「百済国其先出自扶余」とある。
『周書(北周)』は「百済者其先蓋馬韓之属国扶餘之別種」とあり、百済国を扶餘国の別種とする。
『旧唐書』は「百済国本亦扶餘之別種」とする。
『新唐書』は「百済扶餘別種也」とする。


第3118話 2023/09/20

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (1)

 「洛中洛外日記」3069話(2023/07/15)〝賛成するにはちょっと怖い仮説〟で日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究を紹介しました。「古田史学の会」関西例会での「倭国の君主の姓について」という発表です。その要旨は、九州王朝王家の姓の変遷(倭姓→阿毎姓)を歴代中国史書から導き出し、九州王朝内で〝王統〟の変化があったとする仮説です。『宋書』に見える倭の五王は「倭」姓の氏族であり、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」姓の王家とは異なる氏族とするもので、これは従来の古田説にはなかったテーマです。

 この日野説は注目すべきものですが、疑義も出されています。例えば、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」は「姓」と記されているが、『宋書』に見える「倭讃(倭王)」の「倭」は姓とは記されておらず、「倭」を倭王の姓とするエビデンスはないとの谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)の指摘があります(注)。そこで、「倭讃」の「倭」が倭王の姓なのか、国名「倭」の援用なのかについて検討するために、中国史書東夷伝の隣国「百済伝」では、百済王の姓がどのような表記になっているのかを参考として調べてみることにしました。

 管見では次の史書(正史)に「百済伝」があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』。訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)を採用しました。(つづく)

(注)「古田史学リモート勉強会」(2023年8月12日)での質疑応答にて。


第3117話 2023/09/18

「筑前國字小名取調帳」

    那珂郡横手村の字「国分寺」

 〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の仮説を検証するために、明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注①)を精査していたら、那珂郡横手村に「国分寺」という字地名がありました。以前に気付いてはいたのですが、そのことが持つ意味まではわからず、筑前国の国分寺は太宰府にあるので、国分寺が所有する田畑でもあったのだろうかと考えていました。しかし、現在では多利思北孤による告貴元年(594年)の国府寺(国分寺)建立詔という仮説(注②)が成立していますので、この横手村の字地名「国分寺」は九州王朝(倭国)による筑前国府寺(国分寺)の痕跡ではないかと推測しています。

 そうであればその痕跡が筑前の地誌に残っていないかと調査したところ、『筑前国続風土記拾遺』(注③)の那珂郡井尻村に次の記事がありました。ちなみに、井尻村は横手村の隣村です。両村の位置は現在の福岡市南区内です。

 「地禄天神社
産神なり。所祭埴安命なり。祠は村の東二町斗林中に在。また村中に熊野社有。共に鎮座の年歴詳ならず。
○村の東南藤崎人家の後に大塚といふ塚あり。いかなる人を葬しや詳ならす。又熊野権現の後廣藪を開き溝を掘たりしか、百姓惣吉といふ者塚の際より鉾の鎔範を堀出たり。石型長三尺斗。上下合せてあり。石質温石の如し。須玖村にある鎔範の類なり。其側より炭屑多く出たり。然れはいにしへ此所にて銅鉾を鑄たりしなるへし。此辺土中より古瓦多く出る。むかし大寺なと有し址なるへきか。」『筑前国続風土記拾遺 上巻』325頁

 この最後にある「此辺土中より古瓦多く出る。むかし大寺なと有し址なるへきか。」が横手村の字地名「国分寺」の痕跡ではないでしょうか。古瓦が多く出土したという「(井尻)村の東南藤崎」とは、隣接する横手村の北側に当たることが次の両村の記事によりわかります。

 「横手村
(前略)村の西に那珂川あり。上ハ下曰佐・三宅兩村より流来り、下ハ三宅・井尻兩村の間にいる。」
「井尻村
(前略)村の西に那珂川あり。上ハ三宅・横手村より流れ来りて末は三宅・五十川兩村の境にいる。」

 従って、横手村と井尻村に跨がる大寺があったのではないでしょうか。その大寺こそ、字地名「国分寺」に遺された九州王朝による筑前国府寺(国分寺)ではないかと想像しています。現時点では断定することなく、引き続き調査したいと思います。

(注)
①『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。
②古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」1025話(2015/08/15)〝九州王朝の「筑紫国分寺」は何処〟
同「『告期の儀』と九州年号『告貴』」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。


第3116話 2023/09/17

「筑前國字小名取調帳」須玖村の字「盤石」

 「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟で、卑弥呼の墓の有力候補として須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本山)の山上にある熊野神社の地とする古田説を紹介しました。そしてその徴証として『筑前国続風土記拾遺』(注①)の須玖村「熊野権現社」の記事を指摘しました。

「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産土也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、320~321頁。

 ここに見える「皇后峯」が熊野神社が鎮座する「須玖岡本山」のことと思われるのですが、その場所は「バンシヤクテン」の「又其側皇后峰といふ山」とありますので、「バンシヤクテン」という地名を探すことにしました。なお、「バンシヤクテン」の意味はよくわかりません。漢字表記ではなく、カタカナで表記されていることから、『筑前国続風土記拾遺』編纂時点で既に意味不明となっていたのかもしれません。

 幸い、古田先生の著書(注②)に「福岡県須玖・岡本遺跡を中心として弥生期から古墳期までの遺跡分布図」(注③)が掲載されており、その地図によれば熊野神社の東側に「バンシャク」という地名が見え、これが「バンシヤクテン」のことか、それと関係した地名と思われます。その位置であれば「又其側皇后峰といふ山」という記述に対応でき、熊野神社がある「須玖岡本山」の山頂部が、その側にある「皇后峰」に相当します。

 更に明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「筑前國那珂郡須玖村」に字「岡本山」「盤石(バンジャク)」が並んでおり、この「盤石(バンジャク)」が「バンシヤクテン」のことで、須玖岡本山に隣接していることが推定できます。
以上の調査結果から、『筑前国続風土記拾遺』に記された「皇后峰」が熊野神社の地「須玖岡本山」の山頂を指していることがわかりました。そうであれば、「皇后峯ハ神后の御古跡」という村の古老の伝えは、此の地が神功皇后とされる女王がいたという伝承であり、卑弥呼の伝承が『日本書紀』成立以後に神功皇后に置き換えられたと考えるべきです。

 以上のように、〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の推察は、考古学・文献史学・現存地名・現地伝承を根拠として成立しており、やはり最有力説と思われるのです。

(注)
①広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。
②古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
③福岡県教育委員会・調査資料、1963年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。