古賀達也一覧

第3013話 2023/05/12

「東日流外三郡誌」の〝福島城の鬼門〟

 東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城跡(旧・市浦村)は東日流外三郡誌にも繰り返し現れます。東京大学による調査(注①)により、福島城は14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました。

 「福島城 別称視浦館
城領半里四方 城棟五十七(中略)
承保甲寅元年築城」『東日流外三郡誌』(注②)

 ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。このように、福島城の考古学的事実が東日流外三郡誌真作説を支持するものとして、わたしは注目していました(注④)。
この度の和田家文書調査に先立ち、改めて東日流外三郡誌を精査したところ、次の記事に着目しました。

 「(前略)
山王社殿建立 選地福島城 以鬼門封 定現在霊地 (以下略)」(注⑤)
〈読み下し文〉山王社殿建立の選地には、福島城の鬼門封じを以て現在の霊地を定めた。

 福島城の真北に位置する山王坊(日吉神社)が、同城の鬼門封じのため、その地に建てられたとする記事です。鬼門といえば王都の北東、艮(うしとら)方向にあるとされており、たとえば京都であれば比叡山(延暦寺)であり、九州王朝の大宰府であれば宝満山(竈門神社)です。ところが、東日流外三郡誌によれば福島城の真北の山王坊を鬼門としており、もしかすると古代の蝦夷国の時代から鬼門は北東ではなく、真北だったのではないでしょうか。
九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)にとっては北東の大国「蝦夷国」が脅威であり、そのため北東を鬼門とする思想が成立したものと思われ、比べて、蝦夷国の場合は北東ではなく北方向の大国「粛慎」「靺鞨」を脅威として、その方位を鬼門としたのではないでしょうか。その思想が中世に至っても採用されたと考えれば、福島城と山王坊との位置関係がその伝統を受け継いだものと捉えることができます。他方、北辰信仰の反映とする理解も可能ですので、この点、留意が必要です(注⑥)。いずれにしても、古代日本思想史上の興味深いテーマと思われます。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年。
⑤『東日流外三郡誌4』八幡書店版、651頁。「東日流外三郡誌」八十六巻ロ本、第一章〔山王十三日記〕。
⑥『山王坊遺跡 ―平成18~21年度 発掘調査報告書―』五所川原市教育委員会、2010年。当報告書には福島城と山王坊の位置関係について、北斗信仰・北極星信仰の反映とする見方が示されている。また、「秋田孝季集史研究会」の増田氏からも同様のご指摘を得た(2023年5月8日の研究会にて)。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3012話 2023/05/10

和田家(和田長作)と

  秋田家(秋田重季)の交流

 今回の津軽調査(5/06~09)では、秋田孝季集史研究会のご協力をを得て、期待を上回る数々の成果に恵まれました。特筆すべきものとして、和田家(和田長作)と秋田家(旧三春藩主・秋田重季子爵)の交流を示すと思われる写真の〝発見〟がありました(注①)。藤本光幸さんの遺品のなかにあった一枚の写真(女性5名と男性6名)です。その裏には次の氏名が書かれています。

 「天内」、「森」、「和田長三〈郎〉」(注②)、「秋田重季」、「綾小路」です。男性1名と日本髪の女性たち(芸者さんか)の名前は記されていません。そのくつろいだ様子から、宴席後の記念写真と思われました。撮影年次や場所は記されていませんが、「和田長三〈郎〉」のふくよかな顔立ちから、和田喜八郎氏の祖父、長作さんの若い頃(20~30歳か)の写真のようです。藤崎町の旧家「天内(あまない)」さんと一緒であることから、津軽での写真ではないでしょうか。
秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さんのお父上(藤本光一氏)は天内家から藤本家へ養子に入られたとのことで、写真の「天内」さんは〝父親とよく似た顔だち〟とのことです。残念ながら下の名前は未詳です。

 秋田重季(あきた しげすえ、1886~1958年、子爵議員)さんは秋田家(旧三春藩主、明治以降は子爵)の第十四代当主です。ネットで調査したところ写真が遺っており、秋田重季氏ご本人で間違いなさそうです。その他の男性、「森」「綾小路」の両氏は調査中です。秋田子爵と同席できるほどの人物ですから、いずれ明らかにできるでしょう(注③)。

 そして、肝心の和田長作さんとされる人物の確認です。全くの偶然ですが、和田喜八郎氏宅の屋根裏調査時に、同家仏壇の上に飾ってあった遺影(女性2名と男性1名)をわたしは撮影していました。その写真をスマホに保存していたので、持参したノートパソコンに移し、秋田重季さんとの記念写真の「和田長三〈郎〉」とを拡大・比較したところ、同一人物のように思われました。遺影の人物は晩年の長作さんのようで、ふくよかな頃の写真とは年齢差があると思われるものの、顔の輪郭、特徴的な右耳の形、坊主頭の形、切れ長の目、まっすぐな鼻筋、顎の形などが一致しています。

 これは和田家と秋田家の交流が明治・大正時代からあったことを示す貴重な証拠写真かもしれず、藤本光幸氏の遺品中にあったことから、おそらく和田喜八郎氏から光幸氏にわたったものと思われます。偽作キャンペーンでは和田家と秋田家との古くからの交流を否定しており、同キャンペーンの主張が虚偽であったことを証明する証拠とできそうです。しかしながら、〝似ている〟だけではエビデンスとして不十分ですので、更に調査を重ね、人物の同定が確実となれば、改めて発表したいと考えています。

 東京へ向かう東北新幹線はやぶさ16号の車窓から冠雪した岩手山が見えてきました。もうすぐ盛岡駅です。

(注)
①竹田元春氏より見せて頂いた。同氏は、藤本光幸氏の妹の竹田侑子氏(「秋田孝季集史研究会」会長)のご子息。
②長作か。「長三郎」を和田家当主は襲名する。写真下部が切り取られており、〈郎〉の字は見えない。和田長作は喜八郎氏の祖父で、明治期に「東日流外三郡誌」を書写した和田末吉の長男。末吉の書写作業を引き継いでいる。
③「綾小路」とある人物は貴族院議員の綾小路護氏(1892~1973年、子爵議員)ではあるまいか。ウィキペディアに掲載されている同氏の写真とよく似ている。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第3011話 2023/05/09

雨の津軽路、藤本光幸さんの墓前に誓う

 昨日は、「秋田孝季集史研究会」(会長、竹田侑子さん)の皆さんと、藤崎町摂取院を訪れ、藤本光幸さんのお墓に参りました。わたしは、和田家文書〝偽作キャンペーン〟と戦うことを墓前に誓い、「われらに加護あれ」と祈りました。一行は雨の津軽路、板柳に向かい、沢の杜遺跡などを見学しました。

 その後、弘前市に戻り、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)ご紹介のお店「こころ」の和室をお借りして、パワーポイントで「東日流外三郡誌」真作説の根拠と、これからの研究テーマとその方法について説明させて頂きました。この日は玉川さんと夜遅くまで杯を傾けました。

 調査最終日の今日は、朝から和田家文書調査です。竹田元春さん(竹田侑子さんのご子息)のご協力を得て、『北鏡』の紙(多くは大福帳の裏を利用)の調査を実施。大福帳の使用年次を丹念に調べたところ、明治30年代後半から大正2年の印字が見えました。時間が足らず、『北鏡』全巻を調査できませんでしたので、残りは次の機会としました。調査終了後、弘前城址にて夕日に照らされた霊峰岩木山(1625m、青森県の最高峰)を拝し、「津軽の民と東日流外三郡誌に加護あれ」と祈りました。明日は京都に帰ります。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3010話 2023/05/07

津軽での一夕、三十年ぶりの邂逅

 昨日、弘前市に到着。三十年ぶりの津軽です。「秋田孝季集史研究会」会長、竹田侑子さんらの歓待を受けました。今回の調査日程の説明を受けた後、夜九時過ぎまで和田家文書についての質問攻めと、地酒・郷土料理による接待攻勢が続きました。なかでも、市会議員選挙(4月23日投開票)を終えたばかりの同会副会長・石岡ちづこさん(弘前市議・無所属)からの本質を突いた質問により、一気に場が盛り上がりました。東日流外三郡誌の重要性を理解し、支持される地元有力者が少なからずおられることに、わたしも気を強くしました。

 今日は朝から和田家文書調査を行いました。竹田さん親子のご協力を得て、主に未見の「東日流外三郡誌」の筆跡と紙の精査を行い、下記の分別(基礎的史料批判)を実施しました。その他の多くは三十年ぶりに目にした文書群で、懐かしさを覚えました。引き続き、調査を実施します。

【和田家文書群の分類(試案)】
(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行した機械梳き和紙が主流。

(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。大福帳などの裏紙再利用が多い。

(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出したものによく見られる。

 

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3009話 2023/05/06

九州年号「大化」「大長」の原型論 (3)

本稿を新青森駅に向かう東北新幹線(はやぶさ17号)車中で書いています。
『二中歴』には「大長」がなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されたりしています。

このように最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号史料という二種類が後代に併存するのですが、この状況を説明するため、「大長」は704~712年に存在した最後の九州年号とする下記の仮説(3)に至りました(注①)。それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証は完了したと、わたしは考えました(注②)。

【古賀説】(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く。

 他方、『二中歴』以外の九州年号群史料には様々な年号立てが見えることから、古賀説は論証不十分とする疑義も寄せられました。その説明を「洛中洛外日記」〝九州年号「大化」の原型論〟(注③)で始めたのですが、多忙のため途中で連載が止まったままとなっていました。そこで、今回の新連載〝九州年号「大化」「大長」の原型論〟を始めました。まず、自説の論理構造を詳述します。自説成立の大前提となる命題と解釈はつぎの通りです。

(A) 後代における九州年号群史料編纂者の認識は、次の二つの立場のいずれかに立つ。
《1》九州年号は実在した。
《2》年号を公布できるのは大和朝廷だけであるから、九州年号は偽作であり実在しない。偽年号・私年号の類いとして紹介する。江戸期の貝原益軒(注④)や戦後の一元史観の学者(注⑤)がこの立場に立つ。

(B)〝《1》九州年号は実在した〟との立場に立つ人は、更に次の二つに分かれる。
《1-1》九州年号は大和朝廷の正史には見えないので、それ以外の勢力(南九州の豪族、筑紫の権力者)による年号とする。鶴峯戊申、卜部兼従など(注⑥)。
《1-2》正史から漏れた大和朝廷の年号とする。新井白石など(注⑦)。

(C)《1-1》の立場に立つ編者は、九州年号を大和朝廷の年号と整合(大宝元年への接続など)させる必要がなく、原本を改変する動機がない。従って、九州年号をそのまま書写・転記したであろう。
その例として鶴峯戊申『襲国偽僣考』がある。同書に見える最後の九州年号は「大長」だが、「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」(702年)とあり、大和朝廷の年号「大宝」と九州年号「大長」が、701年以後も併存したとする鶴峯の認識がうかがえる(注⑨)。ただし「大長元年」の位置は698年とされ、古賀説(3)の704年とは異なる。

(D)《1-2》の場合、『続日本紀』に見える「大宝」(701~704年)建元以前の年号と理解するはずであり、もし九州年号が「大宝年間」と重なっていれば、重ならないように九州年号の末期部分を改訂する可能性が大きい。

以上のように編纂者の認識を分類しました。従って、自説が正しければ(D)による改訂の痕跡があるはずで、本来の九州年号から改訂形に至る認識をたどることができると考えました。そこで、数ある九州年号群史料を採録した丸山晋司さんの労作『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』(注⑧)に掲載された諸史料の年号立てを精査し、それら全てが自説(3)から改訂された姿と見なしうることを確認しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3006話(2023/05/05)〝九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)〟
②九州年号に関する日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)とのある日の対話で、「古賀説〝701年以後も九州年号は継続した〟の提起により、九州年号研究は基本的に完結したと思った」という日野氏の発言が印象深く、忘れ難い。この仮説が王朝交代期の実態に迫る上で、重要な視点を有すことを、氏は深く理解されていたようである。
③古賀達也「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④貝原益軒『続和漢名数』元禄五年(1692)成立。
⑤久保常晴『日本私年号の研究』吉川弘文館、1967年。
所功『年号の歴史〔増補版〕』雄山閣、平成二年(1990)。
⑥卜部兼従(宇佐八幡宮神祇)『八幡宇佐宮繋三』1617年成立。同書には九州年号を「筑紫の年号」とする認識が示されている。
鶴峯戊申『襲国偽僣考』文政三年(1820)成立。「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。
同『臼杵小鑑』文化三年(1806)成立。
⑦新井白石「安積澹泊宛書簡」『新井白石全集』第五巻
⑧丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。
⑨古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。


第3008話 2023/05/06

九州年号「大化」「大長」の原型論 (2)

 前話では九州年号研究のエポックとして次の4点を紹介しました。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見。

 このなかの(1)(2)(3)は主に論証に属し、(4)が出土木簡の解釈であり、どちらかというと実証に属するテーマでした。なかでも(3)は論証(701年以後の九州年号「大長」の存在)が先行し、後に実証(「大長」年号史料と写本の発見)が後追いしたという研究で、わたしにとっては古田先生の学問の方法を理解する上でも思い出深い経験でした。そのことを「学問は実証よりも論証を重んじる」(注①)で次のように紹介しました。長くなりますが、当該部分を転載します。

〝九州年号「大長」の論証

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。

 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(六九五~七〇〇)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が七〇〇年以前に「入り込む」形となったため、その年数分だけ、たとえば「朱鳥」(六八六~六九四)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。

 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は七〇一年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください(注②)。具体的には「大長」が七〇四~七一二年の九年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。

九州年号「大長」の実証

 最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号群史料の二種類の九州年号史料が存在することを説明できる唯一の仮説として、「大長」が七〇四~七一二年に存在した最後の九州年号とする仮説を発見したとき、それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証が完了したと、わたしは考えました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉通りに、九州年号史料の状況を論証できたので、次に九州年号史料を精査して、この「論証」を支持する「実証」作業へと進みました。

 その結果、『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に「大長四年丁未(七〇七)」、『伊予三島縁起』に「天長九年壬子(七一二)」の二例を見い出したのです。ただ、『伊予三島縁起』活字本には「大長」ではなく「天長」(注③)とあったため、「天」は「大」の誤写か活字本の誤植ではないかと考えていました。そこで何とか原本を確認したいと思っていたところ、齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して提供していただいたのです。その写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。
「論証」が先行して成立し、それを支持する「実証」が「後追い」して明らかとなり、更に「大長」と記された新たな写本までが発見されるという、得難い学問的経験ができたのです。こうして村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を深く理解でき、学問の方法というものがようやく身についてきたのかなと感慨深く思えたのでした。
〟「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』

 本稿を津軽に向かう新幹線車中で書いています。車窓からは富士山が見えてきました。残念ながら山頂は雲に隠れています。(つづく)

(注)
①古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。
②同「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③近畿天皇家の年号に「天長」(824~834年)があり、そのため、後代に於いて「大長」が「天長」に改変書写されたものと思われる。内閣文庫本には、「大長」とした『伊予三島縁起』写本(番号 和34769)と「天長」に改変された異本(番号 和42287)がある。齊藤政利氏のご教示による。
同「洛中洛外日記」599話(2013/09/22)〝『伊予三島縁起』にあった「大長」年号〟を参照されたい。


第3007話 2023/05/05

『多元』No.175の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.175が届きました。同号には拙稿「古代貨幣の多元史観 ―和同開珎・富夲銭・無文銀銭―」を掲載していただきました。同稿は、本年一月の「多元の会」主催リモート研究会で清水淹さんが発表された「謎の銀銭」に啓発されて、投稿したものです。そのなかで、藤原宮から出土した地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が使用されていたのは、九州王朝(9本の水晶)を同じく9枚の富夲銭で封印するという、新王朝(日本国)の国家意思を表現したものとする仮説を発表しました。
当号冒頭に掲載された黒澤正延さん(日立市)の「推古朝における遣唐使(一) ―小野妹子と裴世清―」は、推古紀に見える遣唐使の小野妹子は九州王朝が派遣したとする研究です。意表を突く仮説であり、その当否はまだ判断できませんが、わたしは注目しています。今後の検証と論争が期待されます。


第3006話 2023/05/05

九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)

五十年にも及ぶ九州年号研究において、いくつかの画期を為す進展がありました。私見では次のエポックです。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起(注①)。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする(注②)。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く(注③)。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見(注④)。

(1)は古田先生による九州王朝説の花形分野ともいえる先駆的研究です。わたしが古田門下となって最初に挑戦したテーマがこの九州年号でした。
(2)は、その中心的課題としての九州年号の原型論(年号立て、用字)研究の成果として、『二中歴』に採録された「年代歴」冒頭部分の継体元年(517)に始まり大化六年(700)で終わる九州年号群が本来の九州年号の姿をより遺しているとする古田先生の見解です。
(3)は、九州年号の「大化」「大長」が701年を越えて続いたとする、わたしの研究です。
(4)は、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」と当初発表された木簡(『日本書紀』の「白雉三年壬子」のこととする。注⑤)の文字が実は「元壬子年」であり、九州年号の白雉元年壬子を意味する〝九州年号木簡〟であるという発見です。わたしがそのことに気づき、古田先生らと共に同木簡を実見して、「三」ではなく「元」であることを確認しました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦「補章 九州王朝の検証」『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房、2010年。
古賀達也「九州年号の史料批判 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
同「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 「三壬子年」木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
古田武彦「三つの学界批判 九州年号の木簡(芦屋市)」『なかった 真実の歴史学』第二号、ミネルヴァ書房、2006年
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
⑤『木簡研究』第十九号(1997)には次のように報告されている。
「子卯丑□伺(以下欠)」
「 三壬子年□(以下欠)」
「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3005話 2023/05/04

新庄宗昭著『実在した倭京』を読む

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023、注①)で、わたしも「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」を発表させていただきます(注②)。わたしの発表は二日目(11月12日)の【セッションⅡ】理系から見た「倭国から日本国へ」で行いますが、同セッションでは新庄宗昭さんも〝藤原京の先行条坊〟について発表されるようです。倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代の舞台が藤原宮ですから、テーマに適った研究です。新庄さんは建築家ですので、ケミストのわたしと共に〝理系から見た〟王朝交代研究の発表を期待されているのだと思います。
発表後にはパネルディスカッションが予定されているため、新庄さんの主張についても事前に勉強しておく必要があり、同氏から贈呈していただいた著書『実在した倭京』(注③)を繰り返し読んでいます。建築家らしい主張や視点が明快で、共感できました。なかでも、井上和人さんの次の記述を《井上命題》と呼び、同書に通底する主題として繰り返し紹介される筆致に、古田先生の学問精神と相通じるものを感じました。

〝都城の条坊道路のような体系的な施設を設定するには、周到な計画が前提とされていたという当たり前の事実であり、また、そうでなければ斎宮方格地割をはじめとする広大な領域に及ぶ都市的地割は実現し得なかったであろう。それとともに、整然とした状況を復元し難い場合には、そこには変則的な状況を生じさせざるを得なかった理由が介在していると判断する必要があるのであり、いたずらに往事の技術水準の低さに原因を帰したり、分析の不十分さあるいは分析者自身(つまり私)の不明さを等閑視して、往事の人々の作業の粗略さに理由を求めて、そこで判断を停止してはならないということも学んだ。〟(注④)

この文を氏は《井上命題》と呼び、「古代だから技術が低かっただろう、古代だから中途半端であったろう、などという研究者の判断は眉に唾をつけて読んだ方がよい。古代の技術者を蔑視すべきではない。」とされました。この意見には大賛成です。わたしも、化学者の末席を汚すものとして、理系的発想によるアプローチを試みる予定です。新庄さんとのディスカッションが楽しみです。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
④井上和人「斎宮方格地割研究への提言」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社、2004年、377頁。


第3004話 2023/05/03

「東日流外三郡誌」、新野直吉氏の証言

 今月六日から青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりに和田家文書調査を実施します。その事前準備のため、『東日流外三郡誌』をはじめ、関連資料の整理と精査を進めていますが、「東日流外三郡誌」に触れた、秋田大学名誉教授の新野直吉さん(注①)の発言記録を見つけました。それは『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』という冊子で、平成元年八月八日に市浦村(青森あすなろホール)で開催されたシンポジウムの記録です(注②)。
そこで、昭和五七年(1982)の山王日吉神社発掘調査の経緯について、新野さんが次のように紹介されています。

〝それでは山王坊をどうして掘ろうとしたかという事でありますが、山王坊の事について『東日流外三郡誌』という、この村の村史の中に活字化された資料がありまして、その中に山王坊の事が出ております。それから山王坊という地名が先ずあるわけですから、山王坊というからには山王さんである事は明らかであり、しかもあそこに山王鳥居がちゃんとあって現実に山王さん―日吉神社―が祀られているわけで、あの地域に昔の山王さんの何らかの遺跡があるのではないか、という事は誰でも考える事ができるわけであります。
最初にあそこを発掘する事を、昭和五十七年に決める前には、実は檜山のある遺跡を発掘しようかという事も考えたのでありますが、そちらの方はある意味でここが○○のお寺の跡であるという事が史跡的に明確になっていました。いつでも掘れば明らかになるというか、どういった寺院の跡であるかは、ほぼ推察がつきました。ところが、山王坊の方は今言ったように神社はある。地名もある。それから市浦の村史の資料の中にも関係した記述がある、という事はあるけれども本当は学問的にはその事を誰も立証した事がないわけであります。そしてまた、わからないわけであります。
現実には豊島先生(注③)はじめ土地の方々はご承知のように、上の方の階段―要するに階(きざはし)―から上の方の部分には、当時既に石組等が露出していましたので、この土地ではここに何らかの遺跡があるんだという事は伝承されていたと考えられます。私はその年初めて現地に入ったわけでありまして、それ以前の状況は全く知りませんでした。唯、豊島先生という強い味方がおられていろいろ教えてもらえたわけです。〟52~53頁

 このように、昭和五七年の発掘調査までは山王坊遺跡の存在を「学問的にはその事を誰も立証した事がない」という、新野さんの証言は貴重です。すなわち、当時としては東日流外三郡誌の記述(絵図)が唯一の詳細な史料であったということなのです。そして、発掘調査の成果を次のように語られています。

〝現在の状況ではですね、展示されている坂田さん(注④)の描いた絵でもお分かりのように二列に並んだ日吉神社の社殿跡と考えられるものが検出されています。そして別に言えば、あのスペースには外三郡誌という資料の中に出ていたような十三宗寺というようなお寺の伽藍が稠密に並んでいた可能性はあれだけではありません。もしそういうものがどうしても存在するとするならば、それはあの山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが、その可能性は中世的建物の礎石ですから今までの耕作でいっぺんも当たっていないとするならば、無いんだと思います。思いますと言うので、断定しているわけではありません。従って私はまた今度、じゃ一体あの東日流外三郡誌に書いてある十三宗寺というようなもの―十三千坊というようなものになるんですね―そのようなものが本当にあったのかどうか。どうも、もしああいうものが近世以前からああいう絵のようなものの原図になるものが伝わっていたとするならば、「単なる宗教的な曼荼羅」だと、(後略)〟54頁

 山王坊を発掘したら二列に並んだ日吉神社の社殿跡が検出されたのですが、その反面、東日流外三郡誌に描かれたような「十三宗寺」のような伽藍は無いのではと語っていることから、新野さんはこのシンポジウムの時点(1982年)では懐疑的であったことがうかがえます。しかし、その後の発掘調査(2006~2009年)で、「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中」から大型の伽藍跡が複数出土したのです。すなわち、新野さんの推定よりも東日流外三郡誌の絵図の方が当たっていたわけです。当時、懐疑的だった新野さんのこの証言「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが」は、東日流外三郡誌の真作性を結果として指し示していたのです。

(注)
①新野直吉氏(1925年~)。日本古代史および東北地方史の専門家。秋田大学名誉教授、秋田県立博物館名誉館長。
②『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』市浦村歴史民俗資料館編、平成五年(1993)。
③豊島勝蔵氏(1913~2001年)。当時、市浦村史編纂委員長。
④坂田泉氏。当時、東北大学工学部、建築史の専門家。

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3003話 2023/05/02

多元的「天皇」併存の新試案 (4)

 九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。

(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。

(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。

(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。

 以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。


第3002話 2023/05/01

多元的「天皇」併存の新試案 (3)

七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)にのみ許されていたとする従来の理解では説明しにくい史料情況があります。その最たるものが、愛媛県東部の今治市・西条市に遺存する「天皇」「○○天皇」地名でした。
合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」があり、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、須賀神社祭神は「中河天皇」とのことです。言わば「天皇」だらけなのです。なぜこのような現象が当地域にのみ遺存しているのか、ずっと不思議に思ってきました。〝後代造作〟にしても、度が過ぎていると思ったのです。大和朝廷の時代になってから、そのような地名を造作することが許され、後の世まで伝わるということが果たしてあり得るのでしょうか。
こうした問題意識を持っていたのですが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「袁智天皇」に解決の糸口を見いだしました。この「袁智天皇」を文字通り袁智(越智)氏が天皇号を称したものではないかと考えたのです。

「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢、即請者」『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』

袁智天皇が難波宮に坐していた、庚戌年(650年)冬十月から始め、辛亥年(651年)春三月に造り畢わったという仏像の説明に登場する「袁智天皇」こそ、四国の大豪族で白村江戦にも参戦した越智氏(注①)が天皇号を許されたのではないでしょうか。その理由は次のようです。

(1) 「袁智天皇」の袁智を越智氏のこととする理解は自然で無理がない。
(2) 越智氏は天孫降臨以来の天孫族であることが系図などに記されており(注②)、近畿天皇家と同様に、九州王朝(倭国)配下の有力豪族であり、その臣下としての「天皇」号を許されていたとしても不自然ではない。
(3) 「袁智天皇」が難波宮にいたとする庚戌年(650年)や辛亥年(651年)は前期難波宮の建設時期(創建は652年)であり、「袁智天皇」は前期難波宮建設に関わっていた人物ではあるまいか。この点、『日本書紀』に見える孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではなく、「難波宮」とされていることにも説明がつく(注③)。
(4) そうであれば越智氏の勢力下にある伊予大三島の大山祇神社の『伊予三島縁起』に見える「番匠の初め」「常色二年(648)」の記事と対応する。この記事は「袁智天皇」が前期難波宮造営の番匠を送ったことを伝えたものと解することができる。
(5) 九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではあるまいか。

以上のような理解により、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」を伊予の越智氏のことと考えました。すなわち、九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案です。(つづく)

(注)
①伊豫国越智郡大領の先祖である越智直(おちのあたい)が白村江戦で捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、寺を建立したという説話が『日本霊異記』上巻「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬し、現報を得る緣 第十七」に見える。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮は、『続日本紀』には「難波宮」とされている。前期・後期難波宮は大阪市中央区法円坂、長柄豊碕は北区豊崎にあり、両者は位置が異なる。